夕陽を背にした君の言葉を
幻想水滸伝

「では、行ってくる。留守は頼んだぞ」
「…ああ」
 ミューズ市南方に位置するコロネの街。
 ここに、一隻の船を前に会話を交わす二人の男がいた。
 ハイランド王国の将軍である、クルガンとシード。
 クルガンは、和平の親書を持って、同盟軍の本拠地に赴く所だった。

 ハイランド直系の皇子であるルカ・ブライトが、戦場にて命を落としてから数日が経った。
 その後継として新皇王の座に就いたのは、皇女ジル・ブライトとの婚儀を済ませた、ジョウイ・ブライトである。
 そして、その新皇王の親書を携え、和平交渉の場に彼らを誘うのが、クルガンに課せられた最初の仕事であった。

「…気を付けろよな」
「分かっている。しかし向こうのリーダーは、ジョウイ様の親友なのだろう。こちらに下手な手出しはすまい」
 クルガンは、遠くミューズの方角を見遣り。 
「…それよりも、そちらの手筈は任せたからな」
 含みのある物言いに、シードが神妙な顔をして頷いた。
「ああ…分かってる」
 そんなシードの顔を見た後、自らの時計に視線を落としたクルガンは、ゆっくりと船に乗り込んだ。
「そろそろ時間だ」
「じゃあな」
 クルガンの合図を受け動き出した船を、シードは静かに見送った。

 完全にその姿が見えなくなった後、くるりと向きを変えたシードは、脇に控えていた部下に簡単な指示を出す。
「…いいか、絶対にあいつには言うなよ。勿論ジョウイ様にもばれないようにだ。俺は、国境近辺に偵察に行ってるんだ。分かってるな?」
「は、はい…」
 周囲に軽く視線を回したシードは、数人の部下の姿以外誰もいないのを確認した後、近くの倉庫に入り、用意してあった服に手早く着替え始める。
「ですが、本当にお一人だけで行かれるおつもりですか? せめて、二、三人だけでもご一緒に」
 半開きのドアから心配そうに声を掛けてくる部下の声を、シードは軽く笑って受け流した。
「だから、それじゃあ向こうを警戒させるだけだろうが。あくまでも一般人のナリで行くんだから大丈夫だって。ま、すぐ帰って来るからよ」
「ですが…」
 心配そうな表情を崩さない腹心の部下に、着替え終わって出てきたシードが悪戯っぽく笑い。つい、と軽く剣を持ち上げて問う。
「そんなに、俺の腕は信用ならねぇか?」
「そ、そんな事は! シード様の剣の腕は、私が良く存じております」
 青年は、いつもの軍服ではなく、薄いグレーの上下と黒のコート姿。愛用の長剣の代わりに短めの剣を握っている。それをロングコートの中に隠してしまえば、どこにでもいるただの青年に見える。
 この青年が、ハイランド王国の将軍の一人、《猛将》シードだとは誰も思わないだろう。
「なら、余計な心配するなって。まさか向こうも、俺一人がこっそり行くなんて事は思ってないだろうし、一般のヤツには顔も知られてないと思うからな。変装してきゃ問題はねぇだろ」
 ニッと笑う上司に、逆らう事の出来ない部下が苦笑した。
「…本当に無茶ばかりなさいますね。クルガン様の心労が分かるような気がします」
「あー?何言ってるんだよ。あいつの苦労症は趣味だ、趣味。好きで勝手に苦労してるくせに、それをいつも人の所為にしやがる。ほっときゃいいんだって」
 クルガンが聞いたら血圧の上がりそうな台詞を平気で吐き、一人の船頭が待つ船へ歩みを進める。
 実際、クルガンが苦労しているのは、シードの作った原因によるものが殆どで、彼の言い分は非常に妥当なのだが、その原因であるシードが、それをさっぱり分かっていない。部下は、クルガンの心中を慮って、同情せざるを得なかった。
(クルガン様…申し訳ありません。私に、シード様を止める事は不可能です…)
「待ってるだけってのは性に合わねぇんだ。俺も向こうの様子が見てみたい。今後の為にも…な」
 その声が真剣な響きを帯びるのを受け、思わずその場の兵士数人にも緊張が走る。
「俺達が戻ってくる前に、何かが起こる事はあり得ないはずだ。が、万一って事もあるからな。悪いが、頼んだぜ」
「はい。承知致しました。シード様も、くれぐれもお気をつけて」
「おう」

 そして、シードを乗せた船は、同盟軍領地クスクスの街に向かって、その姿を小さく変えていった。


「ふーん、ここがクスクスの街か」
 デュナン湖での漁や交易などが盛んらしく、意外と栄えているようだ。漁から戻った船や、交易商の私船などが幾つも停まっている。
 船着き場に降り立ったシードに、幾つかの視線が向けられ、やがて逸らされるという事が続いた。
(…なるほど、クルガンは無事着いたらしいな)
 多分、ここにハイランド王国兵が着いた事により、この街で軽い悶着があったのだろう。まあ、敵対している国の兵が来て「はい、どうぞ」という訳には行かないだろうが…。
(見知らぬヤツが、王国軍のヤツじゃないかどうか、見定めてるって訳か…)
 今のシードは、単なる旅行者程度にしか見えないだろう。人々の視線があっさり逸らされるのが良い証拠だ。
「さて、来たは良いが…どうするかな」
 何となく気になってついては来たものの、今後の予定など全く分かってはいない。クルガンの弁によると、親書を渡した後はすぐに戻って来るという事だったが――。
「あいつが戻って来たら、すぐ帰らないとマズイしな。ゆっくりはしてられないか…」

 ――同じ街から出る船に乗り込む方法しかないというのに、ばれないでいられると思っている辺り、シードの思考も相当おめでたいと言えるだろう。


  + + +


 ――数十分前、クスクスの街にて。

「それじゃあ、城に案内します。行きましょう、クルガンさん」
「有り難い。では参りましょうか」
 クルガンは、偶然この街に訪れていた同盟軍リーダーの一行と遭遇していた。
 そこでジョウイが正式に皇王の地位に就いた事を話し、和議を取り結ぶ為の親書を差し出した。
 初め、幼なじみの結婚という言葉に驚いて声も出なかったリーダーの少年とその姉も、〈和議〉という言葉に反応し顔を見合わせた。
 その彼らに対してだけでなく、軍師であるシュウや他の主要人物とも顔を合わせ、正式な使者としての申し出をする為に、本拠地に案内して貰う事となったのだが――。

 城に向かおうとした、その時だった。
「――僕はここに残るよ」
「…え?」
 後ろの方で一言も発さず話を聞いていた物静かな少年が、リーダーの少年に話しかけた。

 戦場でも一度も見た事無い少年だったが、そこにひっそりと立っているだけのように見えても某かの威圧感を放っている。
 リーダーである少年やその姉は、幼馴染み相手という事もあってか、和議という言葉に何ら疑いを持っていないようだったが、その彼だけは、顔色一つ変えず、クルガンの動向を探っているようにも見えた。まるで、この親書の持つ真の意味を知っているかのように。
 徒者ではない。そう直感したクルガンは、少年の正体を見際めんと注意を払っていたのだが――。

「あの、どうしてですか?」
「君達の込み入った話には、僕が関わる問題じゃないし。このまま家に戻るよ。また来てくれれば、僕も一緒に戦うから」
「…帰っちゃうんですか?」
「うん。グレミオも心配するしね」
 こうして話を聞く限りでは、この少年は、本拠地に籍を置く仲間ではないらしい。
(一体、何者だというのだ、この少年は…)
 残念そうな顔をして少年に頭を下げるリーダーと、その仲間達と共にクスクスの街を後にするクルガンの疑問は、解答を得る事無く。
 鋭い視線を背に感じたクルガンが振り向くと、先程の少年が、先程の場所から一歩も動かず、じっと見送っているのが見えた。


  + + +


「とりあえず、街の中でも見て回るか…」
 シードが街を歩き回っていると、一軒の店の看板が目に入った。
「へえ、魚料理か…。たまには良いもんだよな、土地の名物を食うってのも」
 何をしに来たのか、完全に忘れ去っているようだ。
 暖簾を潜ると、店の親父が威勢のいい声を掛けてくる。
「へい、らっしゃい!」
 人々の声に力があるのは、街が生きている証拠だという。何となく複雑な思いに駆られながらも、シードが返事を返した。
「よお。何か適当に見繕ってくれねぇか?」
「お。お客さん、初めての人だね? この街には着いたばかりかい?」
「ああ。ここは漁師の街だろ? 期待してっから、美味いもん食わせてくれよ」
「任しておきな!」
 自信満々といった親父の返事に、思わず笑いが漏れる。
 カウンター席に座ろうとしたシードは、既に席に着いていた少年に話しかけた。
「隣、いいか?」
「ええ、どうぞ」
(年の割には、やけに落ち着いてるな…)
 高くもなく低くもない少年の声を聞き、シードはそう考えながら椅子に座り。そのまま少年に聞いた。
「この街の人間か?」
「いえ。違います」
「ふーん…」
 ふと、カウンターの上を見て気が付く。少年は食事を取っているわけではないらしい。
「飯は食わねぇのか?」
「僕は、お土産を作って貰っているんです。家族が待っていますから」
「なるほどな」
 奥で何やら詰めているのが、少年の待っている物らしい。
「土産を持ち帰るほど、ここの料理は有名なのか?」
「さあ…どうなんでしょう。僕も良くは知りません」
 話しかけても、最低限の返事しか返ってこない。
 表情も豊かとは言えない少年だが、シードはその少年を気に入った。横顔しか見えないが、目と言葉に力がある。
 シードは口達者な人間より、瞳に意志を持つ人間が好きだった。気に入った人間に友人宜しく話しかけるのは、シードのいつもの癖。
「でも、土産を持って帰ろうと思ったんだろ?」
「友人が、ここの魚は美味しい、と教えてくれたので」
「ひょっとして、この国の人間じゃないとか?」
 何気なく口にした言葉に、少年は前を向いたまま問いかけてきた。
「どうしてですか?」
「いーや、なんとなく。加えて、何となくついでに言えば、良家のお坊ちゃんって感じだな、違うか?」
 年の割に落ち着いた物腰、そして、所作の一つ一つに、訓練された動きが見え隠れする。普段王宮の中に暮らすシードは、そういう点での観察眼に長けていた。
 しかしそのシードの問いには答えず、少年が初めて、シードの顔を真っ直ぐ見て。
「あなたは、北の方のご出身ですね」
 そう、言った。
「…何?」
 思ってもみない言葉に、シードは思わず身構えた。
「――どうかしましたか?」
 そのシードを見据えた少年の口調は穏やかながら、瞳に宿る力が強くなる。それだけではない。その体から、重圧感、威圧感のような物を感じて、シードは眉根を寄せた。
(こいつ…何者だ)
 瞳からは視線を逸らさずに腰に手をやると、少年がそれを制する。
「この場で、そんな物を抜かないで下さい。騒ぎになります」
「…何もかもお見通しって訳か」
 シードが溜息を付くと、少年はふと顔を背けた。
「…あなたはここに初めて来た観光客。僕はこれから家族の待つ家に戻る、ただの子供です。それ以外の何者でもないでしょう?」
 シードの顔を見ないまま、そう言って席を立つ。
「はい、お待たせ!」
 丁度彼の待っていた物が出来たらしく、店の親父がニコニコと笑って袋を差し出した。その場に漂っていた異質な空気など、微塵も感じてはいないらしい。
「幾らですか?」
「四百ポッチだよ」
「じゃあ、これで」
「まいどあり!」
 金を支払うと、少年はシードに目もくれず店を出ていった。
「…悪い。俺、今日はいいわ」
 店の親父に一言謝って、シードもそのまま店を出る。
「え? あ、お客さん!」
 呆気にとられた親父が声を掛けた時は、既に少年の姿も、紅い髪の青年の姿も店の中には無く。
「作っちまった料理はどうしろってんだい…全く」
 親父のぼやきを聞くのは、後ろにいる、困ったように笑う女将さん、ただ一人だった。


「おい!」
 街を出た所で、シードが少年の後ろ姿に声を掛ける。
「…食事は良いんですか?」
 溜息をついたように見える。まさか、追ってくるとは思ってもみなかったのだろう。
「あ、ああ…腹が減ってないと言ったら嘘になるけどな…って、この際そんな事はいいんだよ。それより、お前一体誰なんだ?」
 好奇心旺盛なシードが、いかにも曰くありげな少年に、興味を持ったのは無理もない。
 しかも、この少年は自分の正体を知っている。
 そう、確信していた。
 この国で、自分の素性がばれてしまうのは非常に都合が悪い。ましてや、スパイ行為に来ていたと勘違いをされ、それを吹聴されようものなら猛将の名も泣こうというものだ。
 速度を落とさずに歩く少年に、シードはもう一度繰り返した。
「お前、何で俺のことを知ってるんだよ。お前は一体?」
「…言葉のアクセントで、出身は大体分かります。僕は各地を旅していたから。北の、多分ハイランド。紅い髪を持つ、剣に長けた人物。一度は耳にした事がある人物と容貌が同じだ。その上、今日あの街にハイランドからの使者が来た。それらの符号を照らし合わせれば…大方の見当は付きますね」
 もっと上手く隠さないと、座る時に剣が見えましたよ。
 何気なくそう言い、何もなかったように歩き出す。
 シードは、しまった、と言うように剣をコートの上から軽く抑え、その後、夕刻の陽を浴びて更に鮮やかさを増している自らの髪に手をやった。
「髪か…そこまで考えてなかったな」
「そこまで紅い髪は滅多にありませんからね。正体を隠したいならば、もう少し警戒なさった方がいいと思います」
 淡々と話す少年は、自らについては語らなかった。
「だが、ただの一般人が剣を持ってるのを見ただけで、そこまで見抜けるって言うのもおかしな話だよな。…坊主、相当な使い手だな。ひょっとして、同盟軍の…?」
 その言葉に、少年が立ち止まり。後ろからついてくるシードを見据えた。
「…そうだと言ったら? ――この場で、殺し合いでもしますか?」
 何でもない事の様に口にした言葉は、酷く物騒だ。口調だけでなく、瞳にも険がある。
 シードが溜息をついて否定した。
「…別に、俺はそんな事をしに来た訳じゃねぇよ」
「でしょうね。和議の使者が来たその日に、同国の将軍がこの国で戦闘を行ったなどという事が発覚すれば、ハイランドという国自体の名声が地に墜ちる」
「まぁな。だけど、本当に俺は見てみたかっただけなんだよ、この国を。なのにあいつに置いてかれちまったから、仕方なく一人で来たんだ」
 肩を竦めつつ、本当につまらなそうに言うシードに、少年が小さく微笑んだ。
「なるほど。クルガンさんという方ですか…」
「ああ。あいつの事も知ってるんだな」
「…ええ」
 必要な事しか口にしないと思っていた少年が、意外と喋る事に多少驚きながら、シードが三度問いかけた。
「で、お前は? 坊主」
 ややして、少年はポツリと呟いた。
「…ただの協力者ですよ」
「同盟軍の?」
「ええ。…と言うより、彼個人の、つもりなんですけどね」
「個人の、か…。で、待ってる家族ってのは例のガキか?」
 ガキというのは、同盟軍のリーダーである少年だろう。
 口の悪いこの青年が、年上にも関わらず微笑ましく思えて、少年は微かではあるが頬に笑みを乗せた。
「いいえ。僕の家は、この国じゃありませんから」
「ふーん、やっぱそうか…。で、お前の国は?」
「…この国の、協力国です」
「――トラン共和国、か」
 その時、シードの脳裏にある出来事が過ぎった。
「お前、ひょっとして…?」

 三年前。
 かつての赤月帝国で起きた出来事は、当然ハイランドにも情報の一つとして届いている。
 一人の少年がリーダーとして指揮した解放軍が赤月帝国を敗り、新たな国をうち立てた戦争。門の紋章戦争と呼ばれるその戦いは、近年では最も大きい戦である。
 リーダーであった少年は大統領の任を断り、旅に出たという話だったが、その雷名は遠くハイランドの地にも広く及んでいた。
 帝国大将軍を父に持つその少年は、黒光りした棍の一振りで、数人の敵を薙ぎ倒したという。

 今、目の前にいる少年が手にしているのも黒く磨き込まれた棍。しかも、かなり使い込まれていることが、一目で分かる。
 先程も思った、訓練された身のこなし。

「…マクドール、と言ったか」
「…さすがに、良く御存じですね」
 少年がどこか哀しげに笑んだ。その言葉と表情は、紛れもなく肯定だった。
「そうか、お前があの英雄だとはな…」
 そう思ってみれば、自分の事を知っているのも納得出来る。そんな立場にいた人物なら周囲の国に関しての情報を耳にもしているだろうし、観察眼も一流だろう。
 シードがそう零した時、少年が思いも寄らないきつい視線を投げた。
「そういう言い方は止めて下さい」
「そういう、ってのは…英雄って言葉か?」
 戸惑ったように聞き返したシードの前で、少年は俯き。吐き捨てるように言葉を発した。
「僕は英雄なんかじゃない。凄く…不愉快です」
「…お前…」
 少年が泣き出すのではないかと、シードは思った。
「どんな大義名分を掲げても、所詮戦争は、人と人との殺し合いです。正しいとか間違っているとか、そんなものでは無いでしょう。たまたま僕達が勝っただけだ。それは停滞を続けた帝国よりも、僕達の方に勢いがあったからに他ならない」
 言いながら、少年の拳が震える。
「…どんな戦であろうと、一つしかない命の遣り取りをする以上、互いを正義や悪などという言葉で片付けることなど、あってはならない。少し道を外していたあの国を正す方法は、戦争以外にもあったかもしれない。だけど僕には、その方法は思いつかなかった。あの戦争は、僕達の勝利という形で終結を迎えた。でも…僕の中の戦いは、未だ終わっていない。終わることはないんだ…僕の命がある限り…っ!」

 英雄だなんて、呼ばれたくはない!

 ――どんな大義名分を掲げても、所詮戦争は、人と人との殺し合い――
 ――互いを正義や悪などという言葉で片付けることなど、あってはならない――

 シードはその言葉に立ち竦んだ。
 一国の建国を成し遂げた少年の心の叫びだからこそ。

 お互いに自らを正義と思い、相手を悪と喩える。
 そうでなければ戦争――殺し合いをする事など不可能で。
 人を殺すため、自分達の国を守るためにそう思い込むしかなくて。

 …少年の言葉は鋭い棘となって身を突き刺した。

 ミューズにいるだろう皇王の姿を想う。
 全ての感情を押し殺したような白皙の面。
 そして、同盟軍リーダーである少年。
 彼も、同じ様に自らの感情を押し殺して戦っているのだろうか。

 そして、いつかこの少年のように。
 ――血を吐くような叫びを発する時が来るのだろうか。

 シードは黙り込んだ。
 少年が小さく息を吐いてから、頭を下げて謝った。
「若輩者が生意気を言いました。個人的な事をも含め、聞き苦しい事をお聞かせして申し訳ありません」
「いや…こっちこそ、不用意な言葉を使って悪かった」
「いいえ」
 神妙な顔で謝ったシードに、少年は僅か苦笑しつつ、首を振った。
「あの時、ああしなければ、苦しむ人々は増え続けたでしょう。だから、僕は僕に出来る限りのことをした。後悔しているわけでもない。ですが、同じ様に戦争の中に身を置いているあなたにだから、使って欲しくない言葉があります」
 こくり、とシードが息を飲む。
「勝利した側の大将を英雄と呼ぶ事は、間違っているんです。――絶対に」
 ――真実は、目に見える事、聞き及んだことが全てではないでしょう?
 そう言って真っ直ぐ上げた瞳が、シードを射抜いた。
「戦争には、正義も悪もありません。どちらの言い分も正しくて、同時に、どちらともが間違っている。人の命を奪ってまで願う物が本当に正しいと、胸を張って言えますか?」
 シードにはそれに返す言葉はなかった。
「しかし、それを止める事は容易ではない。一度出来た流れを押し止めることは難しい。互いに譲れない物を抱えた時、戦争という形でしか決着を付けられない事があるのも、また事実」
 紡がれる言葉をただ聞くだけになっていたシードを、少年は鋭い視線で見据えた。
「僕には、持ち込まれた和平が真の物だとは思えない」
「…っ!」
 シードの瞳に明らかな驚愕が走る。
「それも一つの作戦なのでしょう。きっと、彼は受けると思う。親友だと言っていた現皇王に会うために。彼を信じるが故に」
 それを分かっていて…どうして、止めないんだ?
 シードは思う。
 だが、それを口にすることは出来なかった。口の中が乾いているのが分かる。
「一度火蓋の切られた戦が、そんなに生易しい決着で終わる事はあり得ない。彼はまだ、それを知らない」
 一つの戦争をリーダーという立場で見届けた少年が、手の中の棍を握りしめた。
「僕は、彼の心が壊れてしまわないように側にいてあげたい。僕に出来ることはそれくらいだから。いつか、彼が親友の少年と一緒に在れる日が来ることを願って、側にいてあげる事しか出来ない」
 だから。そう、少年は続ける。
 シードは圧倒されていた。
 まだ、年端も行かない一人の少年に。
「だから、もしその日が来た時に、あなたが、あなた方が邪魔をするような事があれば、僕は全力を以て阻止します。ジョウイと言う彼の親友が、自らの意志で彼と敵対するなら仕方ないと思う。だけど、そうじゃなくなったら。穏やかな時間を手に入れ、一緒にいる事を願う日が来たら、その時は暖かく見守ってあげて欲しいんです」

 そんな日が来ると、思っているのか。
 本当に――?

「お願いします――」
 深く静かに頭を下げた少年に、シードが乾いた声で問う。
「この戦争が終結した後に、そんな事が起こりうると?」
「…その可能性が無いと言い切れますか?」
「…分からねぇな」
 クルガンの持っていった親書。その内容は今ここにいる少年が言ったように、罠を仕掛ける為のもの。同盟のこの地を、ハイランドに全面降伏させる為のものだ。
 その後、ジョウイは、ハイランドの皇王は。
 どんな道を、選ぶのだろうか――?

「…そんな日が来たら、な」
「ええ…お願いします」
 交わされた視線に、複雑な想いが交錯する。

 そして、少年は一つ頭を下げて早足で歩き出した。シードはもう、その後を追おうはせず。
「なあ!」
 少年の背中に声を掛けると、立ち止まり、振り向かずに返事だけが返ってきた。
「はい」
「いつか、また会えるか?」
 少年は振り向いた。
「ええ、次は戦場で――」
 それは、この和平と称した作戦に、この国が易々と乗らないことを、示した言葉でもあった。
「……ああ、そうだな。また会おう」
 戦場で――。

 ――いつか、戦争が終結した時、この地に立っているのはどっちだろうな。

 シードの言葉は明確な音にはならず、風にかき消えた。

 真の紋章をその身に宿す者は、不老不死となる。
 少年が叫んだ言葉。
『僕の命がある限り』
 少年の後ろ姿を見送っていたシードは、それが、永遠――《終わる時が来ない》事を差すのだと、小さくなっていく背を見つめながら、初めて気付いた。

 永劫、消える事無き戦争の傷。
 それを抱えて永きを生き続ける痛みなど、シードには想像もつかない。
 確かに、真実は目に見えるとは限らない。
 だが。

「分かってる。だけど、俺も…俺達も、譲れないんだ」

 ――ハイランドは守ってみせる、絶対に。


 少年の姿が完全に視界から消えるまで見送ったシードは、クスクスの街に戻るため歩き出した。
「…結構、時間食っちまったな」
 既に、陽は完全に落ちている。街に近付くと灯りが見えた。
 ――生活の証。
 多くの人々が息づいているのだ。ここにも。
 そんな当たり前の事を改めて思う自分に苦笑しつつ、シードは歩みを早めた。


  + + +


「…ほう、偶然だな」
 船着き場に足を踏み入れたシードに、冷たい声が掛けられた。そうっと視線を回すと、一番会ってはならない人物と目が合う。
「ク、クルガン」
「こんな所でお前に会えるとは思ってもみなかった。確か、お前はコロネの街にいたはずだが?」
「…そ、それは、その…」
「自らの任務を放棄し、こんな所で何をしているのか、納得行くよう説明して貰おうか」
 静かだが…怒っている。確実に。
 シードは思わず視線を彷徨わせ、自らが隠れられる場所はないかと辺りを探してしまった。当然、そんなことを許してくれるような相手ではないのだが。
「…その…すまなかった」
「仕方のないヤツだ」
 小さくなって謝るシードに苦笑し、船へと歩き始める。
「わざわざ此処まで来て、何も収穫がなかったとは言わないだろうな?」
 その言葉にシードが頷く。
「…後で、ゆっくり話してやるよ」
「…分かった。お前の報告を楽しみにするとしよう」

 シードの瞳に映るのは、離れていく小さな灯り。
 が。
(トラン、か。まだ家には着いてないだろうな…)
 瞳の奥には、少年の後ろ姿が焼き付いていた。

 英雄ではない。
 英雄なんてものは、存在しない。
 戦争にあるのは、勝利か敗北かという事実だけ。
 どんな大義名分を掲げようと、戦争という物を正当化する事など出来ないと、少年は言った。

 その言葉を忘れないでいようと、シードは強く思った。
 一つの戦を成し遂げた少年に、敬意を払って。

 ――また、会おう――

 次は、戦場で。


【 夕陽を背にした君の言葉を /end. written by 紗月浬子 】