蒼穹の果て
幻想水滸伝

 青く広がる空に、一羽の白い鳥が飛んでいくのが見える。
 そして、空の青をそのままに映した静かな湖面。

 久しぶりに訪れたこの場所は、思いも掛けず穏やかな感情を運んできてくれる。


「お、こんなところにいたのか。探したぜ」
 後ろから声を掛けられ、その声の主に顔を向けると穏やかな表情でゆっくりと歩いてくる青年が目に入る。
「みんなは?」
「ん? あの三人はこの城の造りが珍しいらしくてな、面白そうにあちこち見て回ってる。ビクトールは案内係で引っ張り回されてるし、グレミオは厨房の掃除だ。今夜は久しぶりにここで腕揮うとさ」
 さすがのビクトールもあの三人、正確にはその内の二人にかかっては敵わないらしいな。
 そんな事を考えて思わず笑みが零れる僕に、鮮やかな青いマントを風に揺らせながらフリックが微笑む。
「いい天気だな」
「うん」

 虚無な感情に襲われると思っていた。
 多くの命を失い、この手を血で染め、大切な人をなくして、自分の無力さに激しい憤りを感じた場所。
 人に英雄と謳われようと、手にした罪は消えてなくなる訳じゃない。
 戦いの最中の避けられなかった事とはいえ、尊敬していた父をこの手で屠ったという事実。
 ここに来れば否が応にも思い起こされる三年前の日々。


 色とりどりの花が咲き誇っている屋上はあの時のままだ。


 二人でしばらく空を眺めていると、不意にフリックが口を開く。
「良く、OKしたな。おまえ」
「………そうだね。僕も驚いてる」

 何が、と言わなくてもすぐに分かった。三人の少年少女が旅に出ると報告に訪れたのは、つい昨日のことだ。

    +++

「僕達、しばらく旅に出ようと思うんです」

 同盟軍のリーダーだった少年は、重責から解放されたためか、ひどく子供らしい笑顔でそう言った。
 隣に、大好きな姉と親友の姿があるということも、大きな要因だろう。
「ジョウイもナナミも、そうしたいって言ってるし」
 ジョウイは、最初の挨拶以降、一言も言葉を発していなかった。
 顔を合わせたのは初めてだったが、幾度も少年に話を聞かされていたせいだろう。初めて会うという気がしなかった。話に聞いた通りの、優しい雰囲気を持った少年。
 ……彼が経てきた課程のせいで、暗い影が微かに感じられるのは仕方のないことなんだろうと思ったけど。
 それでも、三人でいることが極々自然に感じられる事、彼が望んでいた、元のように三人でいられるようになった事を、心から安堵した。

 ――――彼が、大切な物を失わなくて良かった。

 そんなことを思っていると、彼がぴょこんと頭を下げる。
「本当にありがとうございました」
「良かったね」
 自然に浮かんでくる笑みと共にそう言うと、満面の笑顔で頷く。
「はい!」
 ……僕は、彼のように笑うことはもう出来ないけれど、彼の笑顔をこうして見ることは嬉しかった。見る者を暖かい気持ちにさせる、自然な笑顔。

「話は終わったか?」
 ひょい、と顔を出すビクトール、そしてフリック。
「えっ!? ビクトールさんと、フリックさん!?」
「何で、ここにいるの!?」
「いや、はははは。俺達も、こいつにちょっと顔見せによ。そしたらおまえ達が来たんでな、咄嗟に隠れたんだ」
「……別に隠れる必要もないとは思ったんだけどな、俺達の前じゃ話しにくい事もあるかと思ってさ」
 相変わらずの豪快な笑いを飛ばしつつ、僕の肩を叩くビクトールと、腕を組んで立っているフリックは、彼らが来る、ほんの数十分前にここを訪れていた。
「まさか、ここでおまえ達と会うことになるとは、思ってもみなかったけどな」
「うん。びっくりしたよ。全然気付かなかった」
 偶然ってあるものなんだね。
 と、思いがけない顔合わせに、互いの顔が綻んでいた時。
 玄関ホールでそのまま話していた僕達に、奥から出てきたグレミオが声を掛ける。
「せっかくですから、皆さん夕飯を食べていって下さいね。今日はここでゆっくり眠って、それから出発しても遅くはないでしょう? ね、ぼっちゃん」
「うん。君達が良ければ、だけど」
「え? いいんですか?」
「グレミオさんのシチュー、食べられるの? 嬉しい!」
 何度かうちに来たことのある姉弟が即答する。
 特にグレミオのシチューは気に入っていたようだし。
「おし、そうしようぜ、な? フリック」
「………おまえの食い意地にだけは敵わないからな」
 いつも通りの会話で、ビクトールとフリックも同意したようだった。

 ――――そして。

「いい? ジョウイ」
 彼が問うと、静かに微笑んでジョウイが答える。いいよ、と。

キミガ イイナライイヨ
ナナミガ イイナライイヨ

 口にはしなくても、心の声が聞こえてくるようだった。
 どこか寂しげな顔を浮かべる、元ハイランド王国皇王。

「ジョウイ」

 初めて彼の名前を呼ぶ。
「……はい」
「グレミオのシチューは美味しいから。それだけはね、保証する」
「ぼ、ぼっちゃん! 『それだけは』って、他のことで何か不満でもあるんですか? 私がぼっちゃんに何か………」
 おろおろしながら詰め寄ってくるグレミオの腕に手を掛け、『そうじゃない』という意志を示してから、ジョウイの顔を見ると、先程よりは少しだけ明るい表情で笑っていた。
「はい。お邪魔します」


「美味し~~っ!」
 全員が席に着いたテーブルで、幸せそうな顔をしている姉同様、顔を綻ばせながら、横目で彼女を見てから彼が言う。
「うん! ナナミもさ、これくらい料理が上手だと僕達も嬉しいんだけど」
「ちょっと! それどういう意味なのよ~っ!」
「え? それは勿論そのままの………い、痛いっ! ナナミ、痛いって!」
「ナ、ナナミ……落ち着いて………!」
 止めようとするジョウイの横では、耳を引っ張られて声を上げる彼。
 ……可哀想に。耳が真っ赤になってる。
「おまえら、本当に仲いいなぁ。見てるだけで飽きないぜ」
 そう笑うビクトールは、いつの間にか四杯目の皿さえも空にしている。おかわり!とグレミオに皿を渡す姿を見て溜息をつくフリック。
「………おまえの腹は一体どうなってるんだ」
 それもそのはず。まだ僕達は一杯目の皿さえも片付けてない。相も変わらずその食欲は旺盛らしい。

「あ、そういえば」
 食後のお茶を飲んでいる時、突如上がったナナミの声で、全員が彼女の顔を見る。
「私達がいたお城ってちゃんとした建物だったけど、この国のトラン湖にあるお城は、大きい岩をくりぬいたみたいで凄く面白いんだよって。きっと他にはない城だと思う、って聞いたの。ね、ね、本当?」
 僕やグレミオ、ビクトール達の顔を見て聞いてくる彼女に、隣に座っている彼が不思議そうな顔をする。
「誰に?」
「テンプルトンくん」
「あ~、あいつか」
「そういや、世界中の地図を作るのが目標だとか言ってたっけなぁ……」
 フリックとビクトールの二人が納得いったように頷くのを見て、彼もなるほど、と頷いて無邪気な笑顔を見せた。
「テンプルトンくん、地図を完成させるために、また旅に出たんだよね。その内、どこかで会えるかもしれないね」
 同じ様ににっこり笑ってうん、と頷き、話を戻すナナミと、それに答えるビクトール。
「で、ね、どうなの?」
「まあ、そうだなぁ。珍しいと言ったら珍しいんじゃねえか」
「ふーん、やっぱりそうなんだあ……行ってみたいな。ね、ダメですか?」
 そう僕に尋ねるナナミの声を聞き、こちらを見た彼と目が合う。彼はすぐに目線を逸らし、少し俯いてナナミの腕を引いた。だが彼女はその仕草が意味することを分からなかったらしく、彼の顔を見てきょとんとしている。
「どうしたの?」
 彼は、困ったように笑い、えーっと、と口ごもった。
 ―――優しいね、君は。
 ビクトールとフリックは口を出すつもりはないらしい。が、ビクトールが僕の顔を見て、微かに唇を動かす。
 ―――『無理するな』と。

 かつて赤月帝国と呼ばれたこの地で、僕達が拠点としていたトラン湖の城は、今も同じ姿のまま、あの湖に浮かんでいるのだろうか。あの屋上では、変わらず空を間近に感じる事が出来るのだろうか。

 ほんの少しの間、過去の映像を目の裏に映し。僕は頷いた。

「いいよ、じゃあ、明日にでも行こうか」

    +++

 フリックが煙草を出し、目線だけで、いいか?と尋ねる。
「うん」
 頷き、彼が煙草を付け、煙を吐き出すのを見ていると、僕の視線に気付き、少し戸惑ったように笑う。胸ポケットから半分潰れた箱を出して。
「お前も吸うか?」
「いや、僕はいいよ」
「そっか」
 湖から吹き上げるような強い風が吹き、たゆたっていた煙をさらう。
「……でも、もっと驚いたのは……ここに来て、辛くなかった事かな」
 何の抵抗もなく、するりと出た言葉。そんな自分に驚く。
「………」
 フリックの頬が微かな笑みの形を作った。
「お前、今年で幾つになる?」
「十九になったよ、この間」
「そうか……お前、あの時十六だったっけか…………」
「そう。体の時間はあの時止まったけどね……。だから、十九だって言ってあっさり納得してくれる人は貴重なんだ」
 湖を眺めながら小さく笑った。フリックは何も言わなかった。湖面に反射する光が瞳を射す。眩い光達が、記憶をフラッシュバックさせる。現在ビクトールが手にしている星辰剣に飛ばされ、遠い時を旅した、僅かな時間。
「テッドは、紋章を継いだ時、幾つだったんだろう。過去に出逢った時、すごく幼く見えた。ひょっとしたら、テッドの時間が止まったのは、僕よりも早かったかもしれない。
 ――最期まで、結局聞けなかったな……」
 紋章が宿る右手の甲を見遣る。
「テッドと同じ様に時を止め、同じ様に永劫の時間を生き続ける。もしいつか、また動き出す時が来たら……その後、僕は、どうなるんだろうって……たまに思う」
 そんな日が来るかどうか、分からないけど。手すりに組んだ腕を置き、更にその上に顎を乗せて言った。半分笑い混じりに発した言葉だが、軽く受け流すことは出来なかったんだろう。年に合わない程、真っ直ぐな瞳を持つ彼には。
 フリックが俯き、小さく呟いた。
「……すまん」
 そんな彼の顔を覗き込むようにして笑う。
「フリックらしくないよ。一番最初に会った時みたいに、昔、僕に食ってかかったように、熱血してるのが君らしい」
 フリックが苦笑する。
「言ってくれるな」
「フリック、僕はね」
 何だ?と問う瞳を真っ直ぐに見返し。口を開こうとして、鼻孔を掠める香りを振り返った。今までとは向きの変わった風に運ばれたのだろう、咲き誇る花の一画に近付く。
 三年前、僕が各地で集めた花の種から咲いた、艶やかな花達が、そこにあった。
 同じ国とは言え各地で気候差があり、この場所では花を付けにくい種もあると聞いた。それでも、こうしてここに強く根付く生命達。三年の時を経て、ほんの一株から屋上一杯に命を継いだ豊かな緑。

 ――――壊した物だけじゃない。

「僕は、後悔してない」
 振り返り様に、そう言った。
 それに返ってくるのは、穏やかな笑み。軽く伸びをして歩き出し、笑みを浮かべたままの顔で言う。
「……そろそろ、グレミオが心配し出す頃だぜ。『ぼっちゃーん!』とか言って探しに来る前に、中に戻った方が良くないか?」
 思わず吹き出す。
「そうだね」
 言って僕も歩き出した時。
『ぼっちゃーん、どこですかー?』
 あまりにタイムリーなグレミオの声に、一瞬顔を見合わせ。笑いつつ返事をした。
「ここだよ、グレミオ! 今行く!」

 屋上を後にした二人を見送るように、花が風に揺れていた。

    +++

「面白かったー!」
 満足そうに食堂に駆け込んできたナナミの声に振り向くと、城の中を一通り見て来た三人と、案内役を引き受けた(というか押し切られたという方が正しい気がするが)ビクトールが戻ってきた。
「腹減った……グレミオ、何か食わせてくれ」
 奧へ声を掛けてからドカッと椅子に座り込み、腹を抱えるビクトールを見て、ナナミが腰に手を当てる。
「ビクトールさん、そんなに食べたら本当に熊になっちゃうよ」
 ちら、と顔を上げるビクトール。
「本当に熊って何なんだよ」
 声に元気がない。……どうやら、相当お腹を空かせていると見た。良く考えてみれば、今朝早く朝食を食べた後は、ここに来るまでの間、口にしたのは簡単な携帯食だけ。ビクトールの旺盛な食欲があれでまかなえるとも思えない。
 そんな事を考えていた僕の耳に、ナナミの楽しそうな声が聞こえた。
「え、ほら、あの旗みたいに」
 何の事か分からずに首を傾げると、フリックが傭兵隊の砦に掲げていた旗の事だと教えてくれる。続けて、深く頷きつつ言った。
「確かにあれは、どう見ても熊だったな」
「なにおー?! あれは獅子だって何度も言ってるだろーが!」
「そう思ってるのはお前だけだ。いいじゃないか、お前とそっくりだったし」
「本当にそっくりだったよね」
 うんうん、と頷くナナミと、後ろを向き、必至に笑いを堪える二人。だが、その肩が派手に震えていては、あまり意味はない気がする。
「おまえら……みんなして俺をバカにしやがって。なあ、ひでーと思わないか?」
 ふてくされた表情で僕を見上げるビクトールに、曖昧に笑って誤魔化す。正直、熊の旗とその前に立つビクトールを想像しただけで、笑いが込み上げて来そうになる。……ごめん、ビクトール。
「ちぇ、お前までかよ……。ああ、俺の味方はどこにもいねぇ……」
 芝居がかった様子で額に手を当て、頭を振るビクトール。そこにグレミオが料理を運んで来て声を掛ける。
「まあまあ、ビクトールさん、ご飯でも食べて元気出して下さいね。いいじゃないですか、たとえ熊でも、ビクトールさんはビクトールさんですよ!」
「グレミオ……お前、それでフォローしてるつもりか?」
「え、はい、一応……」
「私何か、いけない事言いました?」と僕を振り返るグレミオ。
 ―――我慢の限界。
 グレミオと当人であるビクトールを除いて、全員が吹き出した。きょとんとした後、おろおろし出すグレミオの「ぼっちゃーん……」という声に、更に笑いが倍増される。

 その日、ふてくされたビクトールの前に置かれた食事は、いつもの量の倍以上だった。

    +++

 ――――?

 ドアを開けると、そこに人影を見付けた。この城の構造を良く知る、昼間会ったフリックや、ビクトールならまだ分かるが、予想もしない姿に足が止まる。その後ろ姿が酷く寂しそうに見えたせいもあって、僕はここを引き返すべきかどうか迷い……そして、音を立てぬように、静かにドアを閉めた。

「ジョウイ」
 はっと振り返ったその顔に一瞬浮かんだのは、驚きと言うより……何故か、怯えに近い表情。
「……こんばんは」
 ほんの一瞬だけ見せた表情を拭い去り、至極穏やかな笑顔を向けてくる少年に、僕はゆっくりと歩み寄った。
「こんな所に一人でどうしたんだい? 後の二人は?」
「お腹が空いたから何か探しに行ってくるって……ナナミに引っ張られて」
 ――――なるほど。何となくあの二人らしい気がする。
「君は行かなかったんだ?」
「少し疲れたので、部屋で待ってるって言ったんですけど……」
「風に、当たりに来た?」
「はい」
 今日は快晴。それは、こうして日が落ちてからも一緒だった。雲一つない、星の瞬く空。ぽっかりと浮かぶ月は優しい光を放っている。
「ここは……気持ちいいですね。湖からの風が、とても優しく感じられます」
 そう言う表情は穏やかだが、声音が硬い。
「そんなに緊張しないで。何もしないから」
 苦笑が漏れる。今日、ここに来る間にも、彼は、僕を避けている様に見えたから。今朝、たまたま顔を洗う時に鉢合わせた時もそう。軽く頭を下げ、そそくさと出ていってしまった。入れ違いで来たビクトールがすれ違ったジョウイを見て、首を傾げて言った。「どうしたんだ?何かあったか?」と。
 更に、先程見せた一瞬の表情。
 対応に困って様子を見ていると、軽く息を吐き出し、俯く。
「僕は……」
 ぽつり、と紡がれる言葉に、僕は無言のまま耳を傾けた。
「僕は、あなたが怖かったんです」
 躊躇いを感じさせる沈黙の後、苦しげに吐かれた台詞。
「僕が、怖い?」
「……はい」
 右手に宿る紋章の意味を知り、恐怖を覚えるのは仕方ないと思う。かつてこの国にあった戦の中で、この紋章が力を得てきた過程を知れば、それは当然とも言える事だ。が、たとえそれを誰かから聞いたとしても、彼の言う恐怖の意味はそれとは別にある気がした。
 少しの間を置き、ふと思いついた事を尋ねる。
「君は、真の紋章の片割れである《黒き刃の紋章》を手にした時、何を思った?」
「え?」
 戸惑った様に顔を上げるジョウイ。自らの右手と、僕の顔を見比べ、軽く唇を噛んだ。
「僕には言いたくない?」
「いいえ、そうじゃありません……」
 しかし、ジョウイはそれ以上言葉を発しようとはしなかった。何かを考え込むようにして、静かに目を瞑り。暫く後にゆっくりと開いた瞼の奧の瞳は、きつく中空を睨んだ。
 ―――何もないその空間には、彼にだけ見える何かが存在していた。
 ―――だが。
「……ジョウイ。そこには誰もいない。過去の君は、君の中にしかいないよ」
「!」
 勢い良く振り返った彼の顔には、確かに――恐怖と呼ぶのが最も相応しい、今まで他人には見せる事などなかっただろうと思われる表情が浮かんでいる。
「どうして……!」
「そうか……」
 分かった。何故、彼が僕に恐怖を覚えたのか。
 自分の考えが当たっていた事を確認し、同時に苦笑が漏れるのを自覚する。
「君には見えたんだな。僕が抱えている闇と、拭い去ったつもりでも、それでも奥底に否応なく残る……後悔を」
「え……?」
 再び、戸惑いの表情を見せるジョウイ。そうと意識して無くとも、肌で、彼はそれを敏感に感じ取っていたんだろう。同じ、深い後悔を抱える者として。――真の紋章が宿主にもたらす、闇の囁きを聞いた者として。
 ―――心に刻み込まれた、昏き記憶。
 ―――共鳴する、闇の声―――。

「ジョウイ、少し、僕の昔話を聞いてくれるかな」
 彼は、何も言わずに小さく頷いた。

    +++

 ――あれはまだ、世界の全てが輝いて見えた頃――

「グレミオ!」
「ぼっちゃん!」
 腕の中に飛び込んでくる少年を抱き留め、金髪の青年は心底安堵したように微笑んだ。
「もう、心配したんですよー! もうはぐれないように、しっかり手を繋いでないとダメですよ」
「うん」
 小さな少年の手をしっかりと握り、言い聞かせるグレミオ。素直な返事をする少年の顔を見て微笑み、再び買い物に戻る。
 少年を連れ、街に買い物に出たグレミオだが、ほんの少し目を離した隙に少年の姿が見えなくなり、慌てて近辺を探し回っていたのである。
「危ない目に遭いませんでしたか?」
 歩きながら聞くグレミオに、何もなかったよ、と笑う少年。が、その表情がほんの少し翳る。それを目敏く見付けたグレミオが、少年の視線と高さを同じくするべくしゃがみ込んで尋ねた。
「どうしました?」
「うん……僕も、兄弟が欲しかったなあ、って、ちょっとだけ……」
「……ご兄弟、ですか」
「さっき、向こうで……」
 言って、通りの向こうを指差す。その先にあるのは確か……。
「公園ですか?」
「うん。僕と同じくらいの年の男の子がね、いたんだけど……」
「はい」

 その男の子は木に登っていたらしい。目の前の少年は、生まれてこの方木登りなどした事がない。以前、何かの本で木登りをする主人公の話を読んだ時、家の木に登ろうとしていた少年をグレミオが見咎め、危ないからと止めた事があった。それ以後、少年は木に登ろうとはしなくなったが、たまたま見かけた光景を羨ましく思って見ていたのだと言う。
 が、いざ降りようとした時、その男の子は足が竦んで降りられなくなった。そこに、少し離れた場所で他の少年と遊んでいた一人が足早に木に近付いた。
「降りられないのか?」
 幾つか年上に見えた少年が聞くと、木の上で泣きべそをかいていた男の子が頷き。
「しょうがないなあ……。大丈夫だよ、俺がいるから。ほら、そっちの足を………」
 教えたられた通り、無事に降りられた男の子は泣きながら、「兄ちゃーん」と少年に抱きついたのだと。

「なんか、いいなあって思って……」
「そうですか……」
 同い年の少年達と遊ぶ機会など殆ど無い。寂しいと感じる事もあって当然だろう。
「でも、ぼっちゃんには私達がいるでしょう? クレオさんもパーンさんも、ぼっちゃんのことを弟のように思ってますよ」
 グレミオが、少年の顔を覗き込み、微笑む。
「うん、そうだよね。……グレミオ、ごめんね!」
 次の瞬間、そうにっこりと笑った少年。

 確かに、それまでもそれからも、側近くいる三人は実の弟のように彼を可愛がった。しかし、遠慮無く対等な付き合いを出来る相手ではなかったのは事実。数年後、兄弟にも近い親友と出逢った彼は、ふと、そんな事を思い出していた。

「どうかしたのか?」
 部屋で話している最中に黙りこくった少年を、テッドが覗き込む。はっと顔を上げ、照れ臭そうに笑う。
「ううん、ちょっとね、子供の時のことを思い出してたんだ」
「今だって子供だろ?」
 面白そうに笑うテッドに、少年がぷうっと頬を膨らませる。
「そう言うテッドだって子供じゃないか」
「……ま、そういう事にしてやるよ」
「……?」
 たまに見せるこんな顔。大人びた表情に、少年の瞳が不安そうに揺らぐ。
「テッド、何処にも行かないよね」
 驚いたように目を見開くテッド。
「は?」
「だって、たまにテッド、知らない人みたいに見えるから……」
「行かないよね?」と、もう一度聞いた少年に、テッドが満面の笑みで頷き、少年の頭を撫で回した。「何するんだよ!」と抵抗する少年の頭を尚も掻き回し。
「行かない。俺は、何処にも行かないよ」
 テッドは、至極幸せそうに笑った。

 ――真実という言葉の重さを知らなかった彼の日――

    +++

「僕は、子供だった」
「………」
「全てが、優しかった。何も知らなかった。――間違いなく、僕は幸せな時を過ごしていた。真実など、何も知らずに」
 ほんの少し前のようにも、遠い時間の果てのようにも思える。
「ソウルイーターという名が持つ意味を、僕だって分からなかった訳じゃないよ」
 ジョウイがいる方へ視線を向けると、どんな顔をしたらいいのか分からないのだろう、困ったように俯く。
「これを受け取る時にテッドが見せた辛そうな表情。ごめん、という言葉の意味。何も分からずに頷いた訳じゃない。
 けど、あの時の僕は、真実の意味は分かっていなかった。
 君も聞いた事がある名だと思うけど、オデッサさん――フリックの剣の名前にもなっている女性。そして、グレミオ、父さん、テッド。この四人の命を順に喰らい、この紋章は一つ、また一つと力を増していった。ソウルイーターは喰らう命は選ばないが、力となるのは宿主に近い人間だけだ。
 それを知った時、力の意味を、誰ともなく問いかけた。力とは、真実必要なものなのか、と」
 ジョウイの肩が震える。
 僕は、知っていた。目の前に立つ細い少年が、守る力を、そして現状を打破するだけの力を望み、今の紋章を手にした事を。ハイランドとの戦が佳境に入った頃、彼の親友がぽつりぽつりと語ってくれた在りし日の出来事。
 知っていて、こんな事を言うのは酷だと分かっている。が……。
「テッドの命を引き替えに最後の力を得たソウルイーター。そして、その力を使っている僕。右手を潰してしまいたいと願う程憎んだこの紋章は、同時に、僕にとって宝物でもある。彼らの命をそのままに継いだこれは、力以上の意味を持っている」
 心の内と葛藤するかのように、小刻みに体を震わせるジョウイは、きつく目を瞑っていた。
「――――ジョウイ」
 僕の顔を見ようとしないジョウイの名を呼ぶ。躊躇うように、ゆっくりと顔を上げたジョウイに右手を差し出した。
 暫く迷い、彼は右手を上げた。晒される、黒き刃の紋章。
「君は、それを望んだ」
「…………」
「力を望んだ。そうだね?」
 ジョウイの瞳が揺れる。酷く哀しそうに、辛そうに歪んだそれを目にし、一瞬の躊躇いが過ぎる。が、それを振り払って繰り返した。
「君は、その力を欲しただろう?」
 端から見たら、僕が彼を責めているようにしか見えないだろう。否、ジョウイ本人にとっても、それは糾弾に聞こえているだろうと思った。
「………ええ、望みました。力が欲しいと、僕は思った」
 絞り出すような声で答える。深い闇の色に変わる瞳。
「……それを手にした後、君は何を思った? 思うような力を手に入れ、一つの国を率いるだけの地位を手に入れた後、君は何を考えた?」
 首を振るジョウイ。力無く腕を降ろした。
 僕は謎掛けを止め、小さく笑った。ジョウイの瞳が、不審そうな色を浮かべる。その瞳を見つめると、それが戸惑いに変わった。
「多分、僕はその一部を知ってる」
 そう言った途端、ジョウイの右手にある紋章が微かに光った気がした。耳の奧で小さくキィィンという音が鳴り、思わず手袋に隠れた右手を押さえる。視線から隠されていても尚存在を主張する紋章に視線を落とし、僕は口を開いた。
「君にも聞こえたはずだ。もっと、もっと、と繰り返される闇の声が」
「………なぜ」
 驚きに見開かれる瞳。
「近いんだ。君の紋章と、僕の紋章はね。ソウルイーターの正式名称は《生と死を司る紋章》。君の所持する《黒き刃の紋章》は、この片方、〈死〉を司る方と近い。真の紋章同士はある程度共鳴するから、意識すれば君にも分かるはずだ」
 無言のまま、自らの右手に視線を落とすジョウイ。
「その紋章は、一刻も早く戦いを終わらせんとするべく、血を流し、命を摘み取ることを求める。それが、戦いを終わらせる手段の一つだからだ。
 そして、その紋章が持つ資質は、それに他ならない。宿主である君の生命力を使い、他の命を削り取る。
 頭に響く、血を求める声が、君には聞こえていただろう」
「……あなたも………?」
 呟かれる、他ならぬ肯定の意。
「命を。魂を。足りない、と叫び、もっと多くを、と求める声無き声。暗い思考にあればあるほど強くなる昏い響き。
 ―――だから、君は僕を恐れた」
 白皙の面が月に照らされ、青白く光る。
「君は、僕の前では闇を隠せない。僕が隠しきれなかったように、君が知らずとも察していたように。
 互いに共鳴し、自然表面に顕れる深い後悔を、君は恐れたんだ」
 息をすることすら忘れたように微動だにしなかったジョウイが、深く息をつく。そんな彼を見ていた僕の前で彼は向きを変え、手すりに寄りかかった。
「……そうかもしれません」
 一言呟き、振り返った。
「僕達が、ピリカが、彼ら二人が幸せに暮らせる優しい世界が欲しかった。その為には手段も選ばないと決心した。その筈だったのに……」
「君の後悔は、どこにある?」
「……ナナミが、ナナミの血を見た時、僕は………」
 ロックアックス。僕も、あの場所には行っていた。優勢にも拘わらず、突如軍を引いたハイランド軍。その理由はすぐに同盟軍全体に知れ渡った。
「……あの時。もし、僕が撤退命令を出さなかったら、どうなっていたと思いますか?」
 ジョウイの問いに、僕は首を振った。
 もし。
 それを言い始めたらきりがない事を知っていたから。
 もし、あの時テッドの手を取らなかったら。
 もし、オデッサさんの腕を引いていたら。
 もし、あの時グレミオを連れていかなかったら。
 もし、父と刃を交えることがなかったら。
 数限りなく選択を繰り返してきた自らの歩みに、〈IF〉は有り得ない。
「……分かってるんです。たとえ、また同じ岐路に立つことがあっても、僕は間違いなくあの道を選ぶ」
 それでも、と言葉を濁す彼の瞳には、戦で散った数多くの顔が映っていたのかもしれない。
「君の後悔は、君にしか分からない。そして、それを克服できるのも、君自身だ」
「………はい」
「僕もね、沢山後悔したよ。自らの進んだ道を、選んだ道を、幾度も悔やんだ」
 ジョウイの視線を感じたが、彼の顔は見ずに空を見上げた。
「何も知らなかったままでいれば、幸せに生きられたのかもしれない。誰も亡くさず、何をも失わず、かつてあった幸せの中で今も生きていたかもしれない。
 でも、それは有り得ない事なんだ。父の息子で、テッドの友人であった以上、必ず帝国の現状を知り、ソウルイーターの存在を知った。見て見ぬ振りは出来たかもしれない。でも、確実に何かは変わっていた。あのままでいる事など、絶対に無かっただろう」
「僕も、必ずあの道に辿り着いたと……?」
 風が運んでくる声に、そうだね、と答える。
「完全に拭い去れる物じゃないと思う。奥底に刻まれた後悔の念は、ひょっとしたら永劫消えることはないかもしれない」
 はい、と答えるジョウイの声。
 昼間ここで目にした花達を再び視界に入れた僕は、我知らず笑顔になる。そう、後悔を後悔と意識する必要はない。たとえ、消える事がなくとも、それで自らを責める事はない。心からの笑顔を向けてくれる人達がいる限りは―――。
「だけど、壊した物だけじゃない事に、いつか気付く。得た物も、同じだけあったはずだ。
 君には大切な幼なじみが側にいるだろう? あのままでは失っていたかもしれない存在が、君のことをとても大切に思っている。争っていた二つの国が平和に向かって進んでいるのは、君達があの時紋章を手にする事を選んだからだ。争いに疲れていた人達が笑顔を取り戻す事が出来たのは、君達二人の歩んできた過程の結果だよ。片方だけでは成し得なかった事だから」
「―――はい」

 失った命は還らない。自らの経てきた道も、戻ることは叶わない。
 が、自らの選択で失ったものがあれば、同時に、得てきたものも必ずある。
 悔やむという行為は、得たもの、手にした何かを悔やむ事にも繋がる。例えば、側にある笑顔。差し伸べられる手の温もり。それらも、自らが選んだ道の先にあるものだ。
 だから。

「君は、笑っていた方が似合うよ。きっと」
 彼らも、きっとそれを望んでいる。
 僕の言葉に、ジョウイが口を開きかけた瞬間(とき)。

 バタン、と屋上の扉が開く。同時に耳に入る元気な声。
「あ――っ、こんな所にいた――!」
「ナ、ナナミ!」
「もーう、心配したんだからね! 部屋にいるって言ったのに、戻ったらいないんだもん。あっちこっち探しちゃったんだから!」
 そのナナミの後ろからひょこっと顔を覗かせる彼女の弟。ジョウイの親友。
「ジョウイ、大丈夫?」
 その声に、ジョウイが微笑んで頷いた。
「大丈夫だよ。少し風に当たろうと思ったんだ。ごめん」
 ――屈託のない、何かが吹っ切れた笑顔に、彼が少し驚いたようにジョウイを見つめ、次いで僕の顔を見る。それに、僕は笑顔だけで返事をした。
「わあっ、お花が綺麗!」
 夜の空気の中で香りを放つ花達に近付き、ナナミが嬉しそうに笑う。
「うん、綺麗だね」
 ナナミの横に立って花を眺めるジョウイの穏やかな表情。そんな二人の横を通って、彼が僕にそっと耳打ちする。
「ジョウイと何を話したんですか?」
 少し考えて、僕は答えた。
 澄み渡った星空に目を向ける。きっと、明日も晴れるだろう。
「あの向こうに、何があるのかを、ね―――」
 首を傾げる彼の肩を一つ叩き、僕は三人を置いてドアに向かう。
「ねえ、湖に月が映ってるよー」
 ナナミの声を最後に、扉を閉めた。

    +++

 失ったものは、確かにある。
 父と親友は、二度と還らない。
 だが、奇跡的に自分の側に戻ってきたグレミオ。クレオとパーンもいる。
 これから先、何があるかは分からないが、街の人は至極幸せそうに笑んでいる。不満の声が上がっているとも聞かない。

 ―――テッド。

 自らの右手を見つめ、心の中で語りかける。

 ―――この紋章があったから、違う時代に生まれた僕達は出逢えた。親友になれた。君と出逢えた事を心から幸せだと思う。

 ―――君との出逢いを、誇りに思うよ―――


 後悔は、しない。

    +++

「おお、今日もいい天気だなあ」
 窓を開け放ち、朝の空気を入れる大きな影に視線を向ける。
「……ビクトール」
 眠い目をこすると、にかっと笑ったビクトールが早く起きろ、と促す。
「もう、そんな時間?」
「おーよ。朝飯の時間だ」
 同時に響くビクトールの腹の虫を聞きつつ起き上がる。
「………グレミオが何か言った?」
「お前が起きるまでは朝飯はお預けだと。ったく、相変わらずグレミオの世界はお前を中心に回ってんな」
「そんな事だと思った……」
 以前使っていた部屋と同じ場所で目覚め、ここで同じ時間を過ごした男が側にいる。
 数年の時が、巻き戻ったような感覚を覚えた。
「ビクトール」
「あん?」
 早く着替えろよ、と言わんばかりの視線に一つ溜息をつき。手早く着替えながら言葉を続けた。
「一昨日言っただろう、『無理するな』って」
「………ああ、まあな」
「僕は、無理してるように見えたか?」
 ちらり、とビクトールを見ると、鼻の頭を掻きながら視線を逸らし、言い澱む。
「……まあその……ここは、色々あったしな」
「そうだね………」
 窓の外に上る陽の光に恐怖すら覚えた事もあった。感情を押し隠し、いつもの顔でドアを開ける事への疲れ。それが自分だけの事ではないと分かっていながら、確かに辛くもあった日々。
 着替えを終え、昨日の内に綺麗に掃除された広い部屋を眺める。
「ここに、グレミオの斧を持ってきてくれた時の事は忘れないよ」
「……ああ」
「感謝してる。あの時は言えなかった。ありがとう」
「礼を言われるような事は何もしちゃいないさ」
 ビクトールが笑い、再び主張し出す腹を抱えて、ドアへ向かって歩き出す。
「お前もとっとと来いよ」
 そう言って部屋のドアを開けた瞬間、廊下から風がさあっと渡り、部屋を通り抜けて外へ走る。
「おっと、すごい風だな」
 驚いたように廊下から窓の外へと顔を向けたビクトールが、丁度窓の正面に来ていた太陽の眩しさに目を細める。それを認めてから、僕も窓の外を見遣った。
 明るい朝の日差し。眩しい陽の光。それを全身に受け、大きく呼吸した。
「ここで、こんなに日差しを明るく感じたのは始めてかもしれない」
「そうか」
 穏やかな声が背にかかる。
「本当に、いい天気だな……」

 視界一杯の青。何処までも広がる蒼穹に、眩しくて目を瞑る。
 目の裏に残る青の残像。
 その向こうに見えたのは―――――。

「ほら、行くぞ。飯だ飯!」
「うん」

 窓に背を向けた途端、部屋の外から賑やかな声が聞こえてきた。自然顔が綻ぶのが分かる。

「ビクトールさんだけじゃ頼りにならないからねっ」
「そんな事言ったら、ビクトールさん絶対怒るよ、ナナミ」
「いーのいーの。聞こえないって」
「……なんで、俺まで付き合わされるんだ……?」
 何故かフリックのぼやきまでが聞こえ、思わず吹きだした時、ジョウイの焦ったような声が耳に入る。
「ナナミ…聞こえてるみたいだよ………」
「え?」
「こら、お前ら好き勝手な事言いやがって」
 一足先に部屋を出たビクトールの声が重なり、賑やかさは増す。

 もう一度窓の外を振り返ると、昨日と同じ、白い鳥が視界の端を横切った。
 少しの間、その軌跡を目で追い、部屋を出る。迎えてくれる笑顔達に「おはよう」と挨拶をして。
「お待たせ、行こうか」
 歩き出そうとした時、廊下の向こうから声が響く。
「ぼっちゃーん、朝御飯の支度が……っと、皆さんでぼっちゃんを起こしてくれたんですね」
 走ってきたグレミオが笑顔を見せた。
「ぼっちゃん、おはようございます」
「おはよう」


 ―――父さん。テッド。今日も、いい天気だよ―――


〈了〉


【 蒼穹の果て /end. written by 紗月浬子 】