慟哭 -epilogue-  風の中で
幻想水滸伝



『天魁星は、覇権を持つ者の―――』

 小高い丘の上、少年は、見知った人物を思い出さずにいられない程に風が強く吹くその場所で、そっと右手の甲を包み込んだ。

 隣国を旅している最中、耳にした焦臭い話。
 彼は目を瞑った。

 ―――声にならない慟哭。
 ―――目に見えぬ真紅の色。

 運命は繰り返され、時代は再び動き出す。


  + + +


 湖からの風が強く吹き上がる屋外の渡り廊下に、彼はいた。
 本来ならば目も開けていられない程の強風にも顔色一つ変えず、見るともなく辺りを眺めていた。肩の辺りで切り揃えられた色素の薄い髪も、そこだけ別空間のように軽くそよいでいる程度。

 不意に風が運んできた気配に、彼は小さく肩を竦め、独り言と言っても差し支えないようなさりげなさで、抑揚のない声を発した。
「何か、用?」
 すぐ側まで近付いてきていた気配が、不意に柔らかく変化する。
「さすがだね。気付かれない自信、あったんだけど」
「……昨日の今日で歩き回ってるなんて、随分と体力があり余ってるみたいだね」
 揶揄するような言葉の中に含まれた僅かな感情を感じ取って、少年は微笑んだ。
「おかげさまで。いつまでもベッドで寝ているわけにもいかないからね」
 そう言って、彼――ルックの隣りに並ぶ。
 平然とした様子のルックとは対照的に、少年は顔を顰めた。
「……凄い風。良く平気だね、ルック」
「……白々しいよ」
「参ったな」
 苦笑して頬杖をつく。
「普通の紋章の威力とは少し違うかな、くらいにしか思ってなかったんだけど」
「鈍いとは思っていたけどね」
「……ルック、変わらないね」
 くすくすとおかしそうに笑う少年。特に感慨もなくそれを聞いていたルックは、不意にやんだ声と、変わった気配に首を回した。
「……どうか、したわけ?」
 話しかけても、少年は返事をせず、じっと何もない空間を見つめていた。不審そうにそれを見ていたルックが、もう一度声をかける。
「……フォルテ?」
 すると少年は、視線はそのまま、静かな声で問いかけた。
「……この戦争が終わったら、ルックはレックナートの所へ帰るんだろう?」
「……そうだけど、それが何か?」
「天魁星って、何だと思う?」
「………脈略って言葉、知ってる?」
 呆れたように溜息をつくルックの前で、少年は人目に付く場所では外される事のない手袋を毟り取った。

 陽に灼けた腕とは対照的な、白く透き通るような手の甲に浮かび上がる、昏き紋章。見た者に不吉な印象を抱かせる形をしたそれを、少年は左の指で軽く撫でた。ルックは何も言わずただ黙って、その様子を見つめた。

「この中にいたなんて、信じられないな…」
「へえ……全部、覚えてるんだ」
「覚えてる。赤子のように泣きじゃくっていた事も、幼い子供のように震えていたことも。それと――体の中から込み上げてくる寒さと……暖かさ」
 少年の瞳が、沸き上がる感情に揺れる。


 フォルテが意識を失って後(のち)。
 ルックは自室にて、風が運んできた異質な気配を感じ取り、眉間に皺を作った。
 こんな異質な気配を発する要因と言えば、思い当たる節は、一つしかない。
 この場所では、自分の他には唯一の、大いなる力。
 その大いなる力を宿した彼が、今ある精神状態を思えば。
 何があったのかを想像するのは難くなかった。
「――あの、馬鹿……!」
 ルックは、その場から姿を消した。


「聞いたよ。僕が危ないって教えてくれたのは、ルックだったって」
「余計な事だとは思ったけどね」
 ふん、と横を向くルックに、フォルテはくすりと笑った。
「ありがとう」
 ルックは答えない。
 そんな彼を微かに笑った少年は、ずる、と自らの身体を支えること自体を放棄するように、壁に背を預けて床にぺたりと座り込んだ。

 確かに、少年は、ソウルイーターの中に囚われていたのだろう。
 視界から薄くなり消えていく、懐かしい姿を捉えられなくなった後。
 覚醒に向かい、意識が遠くなる。

 その中で。

『本当に…世話が焼けるったらないね』

 そんな声が聞こえたのは、きっと、少年の空耳ではなかった。
 どこか柔らかい風が運んできたその声が、安堵の息に混じっていたように思えたのも、多分。

 真の紋章に干渉できるのが、何処にでもある、ただの紋章である筈がない。

「確かに僕は、誰の顔も、見たくなかった。誰の声も、聞きたくなかった。僕を心配そうに覗き込む瞳。僕を責める瞳。僕を気遣う声。僕を呪詛する声。僕に、期待する、全て」
 淡々と、紡がれる。
「一番側にいた、クレオとパーンが心配する顔、辛そうな顔は、その中でも、一番見たくなかったものなのかもしれない」
 苦笑混じりで。
「昔のままのクレオの怒鳴り声が、僕を覚醒へと導いてくれたのは確かだろうね」
 懐かしそうな表情は、あの短い時間の間に交わされた、テッドとの会話を思い出していたからなのだろうか。
「でも、だからと言って、クレオの声だけが都合良く聞こえるなんて、おかしいと思ったんだ。今思うと、最初に聞こえた胸が痛くなるような声は、多分…ビクトールだったのかな。あの時、少し風が吹いたような気がね、してたんだ。勿論あの時は、はっきりと意識出来る程じゃなかったけど。で、最後に聞こえた声からしても、ルックが何かしたんだろうな、ってね。どちらかだけでは駄目で……多分両方の効果、だったんだろう?」
 少年がそこまで言った後、漸くルックは口を開いた。
「君だけじゃないんだよ、フォルテ」
 何が、とは言わない。
 少年も、聞かなかった。
「分かってる」
 いつの間にか立ち上がっていた少年は、深く頷き。
「もう、逃げない。僕は僕に出来ることをやり遂げる」
 強く、断言した。
 ルックは、そんな少年を見遣り、小さく息を吐くと。彼の持ち場へ向けて歩き出した。
「ルック」
 少年が声を掛けると、ルックはピタリ、と足を止め。
「天魁星は、覇権を持つ者の星だと聞いてる。それが、時代と共に移り変わるものだってことも、ね」
「……覇権……か」

 時代が移り変わる。
 それは、今此処で自分達が中心にあるような戦が、いつかまた何処かで繰り返される、という事なのだろう、と、少年は小さく首を振った。

 しかし、今は先のことを憂いていられるような状況ではない。戦も、いよいよ佳境に入る。
 静謐な威圧感を纏わせ、遠くグレッグミンスターの方角に視線を投げた少年。その横顔を、暫く黙って見つめていたルックが前髪を掻き上げ、同じ様に見えない首都を眺めた後、仕方なさそうに口を開いた。
「まあ…そうだね。もし、泣き言が言いたくなったら……とりあえず、来てみたら?気が向いたら、聞いてあげるよ」
 お互い、先の人生は、長いみたいだしね。
 微かに頬を歪めて言った後。苦笑しながらルックを見て頷いた少年に。
 ふと、思い出したように付け足した。
「そういえば、石版の名前が全て埋まったよ」
 少年が、そうか、良かった、と返事をする。
 ルックは再び歩き出し、少年ももう、彼を引き留めなかった。


  + + +


 少年の所作は、祈りを捧げているかのようにも見えた。

 逆巻いていた風も、その時間、その場所だけは穏やかに通り過ぎる。
 そう。まるで、あの日の、彼を取り巻いていた風のように。

 そうして暫く。
 気が済んだのか、少年はやがて面を上げ、少し離れた場所に立つ、彼を見守っていた青年の側へと歩いていった。



 願わくば。
 この地に一刻も早く、安らかな笑顔が訪れんことを―――。

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【 慟哭 -epilogue-  風の中で /end. written by 紗月浬子 】