慟哭 -10-  きみがくれたもの
幻想水滸伝


「……どうかしたのか?」
 誰かに名前を呼ばれた気がして、少年は顔を上げた。
 隣に立っていたもう一人の少年が声を掛ける。
「………ううん、なんでも…ない」
「嫌なことは全部忘れちまえよ。な?」
「……いやな、こと……」
 ぼんやりと彼の顔を見上げるその瞳には、殆ど感情らしきものは浮かんでいなかった。空虚な闇だけがそこにはある。
「全て、忘れればいい」
 そんな少年に向かって繰り返される声に、再び頷きかけた時、また、誰かの声に少年が顔を上げた。
「……こえが」

 誰かの声が聞こえる。
 先程、悲痛な声が自分を呼び、加えて叱りつけるような懐かしい声が聞こえた。空耳ではない、と何故か強く認識した少年の瞳に微かな光が戻って。
「誰かが……僕を呼んでる」
 声に引かれる様に立ち上がった時。

「昔から、良く叱られてたもんなあ」

 突然、はっきりと響いてきた声に、少年は後ろを振り返った。
 そこにいる誰よりも、はっきりとした姿。その容姿は前に立っている少年と全く同じだ。
「―――え?」
 呆然と目を見開いた少年に、突如現れた方の彼が苦笑しながら、どこかから聞こえてくる声に懐かしそうな表情を見せた。
「ひっさしぶりだよな、この声。うーん、相変わらず……」
「君は?」
 言いかけた彼の声を遮り、少年は尋ねた。同じ姿をした人間が二人もいるのだ。混乱しても仕方がないだろう。
「なんだよ。まだ思い出せてないのか?あれは、俺じゃない。俺はおまえに、あんな事を言ったりしないぜ、フォルテ」
 どこか哀しそうな表情と半分怒ったようにも聞こえる声に、少年が戸惑ったように聞き返した。
「あんな事、って?」
「……覚えてないなら、いい」
 微笑んで、小さく首を振る。
 それより、と空間のある一点を指差した。ぼんやりと白く浮き上がる光景に、少年は目を向けた。目を凝らしても、それははっきりと形にならない。
「良く、見えない……」
 そんな少年に近付き、彼は隣にすとんと腰を掛けた。
「座れよ、フォルテ」
「……うん」
 素直に頷き、同じ様に腰掛けた少年から目を逸らして、彼は口を開いた。
「俺も、おまえが辛い思いしたのは分かってるから…。それを本当に望むんだったら、出来るならさ、思い出させたくなんかないんだ」
 少年はまだ、何も思い出してはいない。だから、彼の言わんとしている事がなんなのか、分からなかった。それでも、おまえが辛い思いをした、と言いながらも、彼の方が辛そうな顔をしているのを見て、少年は口を挟むことが出来ない。
「だけど、おまえはここにいちゃいけない。こんなとこに、いちゃいけないんだ」
「でも、みんないるのに……?」
 そう言って指差した先に佇む、彼と同じ姿を含めた四人の姿。
 それが誰だったかははっきりしないものの、側にいて当たり前だと思ったから。側にいる事で安心出来ると思ったからこそ、少年は疑いもしなかった。
 しかし彼は首を大きく横に振った。
「違う。あそこにいるのは俺じゃないし、テオ様でもグレミオさんでも、それからオデッサさんでもない」
「え……?」
「おまえと……ソウルイーターが共鳴して作り上げたもんだよ、全部」
 分からない、と首を振る少年に、彼は溜息を付いた。
「本当にあれがテオ様なら、おまえに声すら掛けないなんて有り得ないだろ?もし本物のグレミオさんだったら、おまえが一人でここに踞ってるのを放っておくと思うか?」
 俺は、元の持ち主だから……多分、喋らせやすかったんだろうな。
 そう言ってほんの僅か、悔しそうに唇を噛む。
「みんなじゃ、ない?」
 分からないながらも心の奥底で求めているものだからこそ。少年は彼の人達の姿を作り上げた。側にいたいと願った。しかし、それを違うと断じられた虚ろな声を聞き、彼は、自らの感情を振り切るように首を振って顔を上げた。
 なあ、フォルテ、と呼び掛け。
「オデッサさんに、頼まれたんだろう?この国を、変える事を」

 少年の意識の中に、うっすらと蘇ってくる記憶。

「僕は……」
「おまえは、フォルテ・マクドール。赤月帝国の百戦百勝将軍と呼ばれたテオ様の息子で、今は解放軍のリーダーだ」

 ……父さん。……解放軍。

「俺の、自慢の親友だ」

 テッド。
 隣に座る親友の瞳を見つめ。少年は今ここにいる自分の過去を振り返った。
 徐々に、記憶がはっきりしてくる。――否応なく込み上げてくる、吐き気と共に。
 少年は一つ呻くと同時に立ち上がり、少し離れた場所で苦しそうにしゃがみ込んだ。四肢をついて蹲る少年の背をさすり、彼がぽつりと零した。
「ごめんな……フォルテ」

「ごめん、テッド……」
 少し青ざめた顔に儚げな笑みを浮かべ、少年はやがて振り向いた。その顔をきつく唇を噛みしめて見つめていたテッドは、思いあまったように少年に抱きつき、堰を切って溢れる謝罪の言葉を、幾度も繰り返した。
「ごめん、俺はおまえにこんな辛い思いをさせたかった訳じゃないんだ。俺は、おまえのことが大好きだった。ごめん。分かってた、この紋章が何をもたらすのか、俺は知ってたのに。それでも、俺はおまえに託すしかなかったんだ。本当にごめん……!」
「……謝らないでよ、テッド」
「俺は――おまえに会えて、本当に嬉しかったんだ。フォルテ」
「うん、分かってる。分かってるよ、テッド。僕も、嬉しかったよ」
 暫くの間そうしてフォルテにしがみついていたテッドは、やがて、離れ。涙を拭いながら言った。
「さあ。おまえは……そろそろ、みんなのとこに戻らないと」
「……僕も、ここにいたい。僕は…僕なんて、いない方が……」
 テッドが大きく首を振る。
「馬鹿なこと、言うなよ!」
「でも、僕さえいなければ、みんな、こんな事には……っ!」
「……頼むから、そんなこと言うなよ…フォルテ」
 ひどく哀しそうなテッドの声に、少年は俯いた。
「分かってるはずだ。おまえは、こんな所にいるべきじゃない」
「だけど…っ!」
「いいから!あれを見ろよ!」
 無理矢理にフォルテを上向かせ、首を回させたテッドの指差した先には、先程霞んで見えなかった光景が、はっきりと映し出されていた。

『ぼっちゃん!いい加減にしなさい!』
『大切な人を亡くして辛いのはぼっちゃんだけじゃないでしょう!甘えるのも大概になさい!』
『それとも、お側にいるのがクレオとパーンだけでは物足りないと言うのですか?ぼっちゃん!』
『耐えきれなくなるくらいなら、最初から無理する必要なんてありません!無理に大人になる必要なんてないんです。何故私達を頼ってくれないんですか、ぼっちゃんはまだ子供なんですよ!』

 涙を流しながら、それでも昔と同じ様に、眠る自分を叱りつけるクレオの声。
 半ば呆気に取られたように、それを見守る見知った姿。
 パーン。ビクトール。フリック。アレンとグレンシール。それと――ソニア。ソニア・シューレン。
 彼女までもが、何故……。

 力が抜けたようにそれを見つめていたフォルテに、テッドは柔らかい声で話しかけた。
「な?みんな、おまえが戻ってくるのを待ってるんだぜ」
「テッド……」
 振り返った少年の瞳は、今にも堰を切って溢れそうな涙を湛え、幾つもの制御しきれない感情に歪んでいた。
「そんな顔するなよ」
「だって……」
「おまえがここに来てから、俺、ずっと見てた。今現在の持ち主はおまえだから、おまえが心を閉ざしちゃうと俺達はその中に入れないんだよ。おまえが自分を責め続けて、おまえが作り出した幻に追われてても、ただ見てる事しか出来なかった。クレオさんのおかげで、俺はおまえの側に来ることが出来たんだ。後…多分……」
 言いかけた言葉を途中で切り、ほんの少し苦笑したようにも見えるテッドに、少年は首を傾げた。が、テッドは、
「何でもない」
 と、首を横に振る。
「お前には、やらなきゃいけない事があるだろ?」
「……ごめん」
「謝る事なんてないだろ。元はと言えば―――でもな」
「うん」
「……って、泣くなってば」
「泣いてないよ!」
 ぽろぽろと涙を零す少年に、テッドは困ったような表情を浮かべていたが、その後気を取り直したように、にやりと笑って少年の顔を指差した。
「じゃあ、なんなんだよ、それは」
「知らないよ!」
「じゃあ、そういうことにしといてやるか」
「……相変わらずだね、テッド」
 手の甲で涙をぐいっと拭った少年に、テッドはもう一度笑った。
「だろ?」
 何も、変わってないんだ。
 そう言ったテッドが、再び少年に話し始める。
「おまえは、一生懸命自分を殺そうとしてきた。色んな事を自分の中だけに閉じこめてきた。だけど、おまえの側には沢山人がいるだろ?クレオさんだって、おまえが何にも言おうとしないから、余計に辛かったんだろ。全部一人で抱え込んでるおまえを見るのが、きっと辛かったんだと思う。俺は」

 僕は―――。

「フォルテ。おまえは一人じゃない。見ろよ、あそこにいるのも、間違いなくおまえの大切な人達なんだろ?」

 横になっている自分の側にいる、数名の姿を見つめる。
 そうだ。確かに、大切だと思った。守りたいものの一つだったはずだ。
 仲間と、家族と。
 全て、失いたくないものだった。
 だけど。
 全部投げ出したいと願った僕でも、まだ、必要としてくれているのだろうか。
 こんな僕でも、彼らは待っていてくれると、言うのだろうか……?

「聞いてみればいいんだよ。変にリーダーとして振る舞うんじゃなくてさ、ありのままのおまえで、聞いてみればいい」
 まるで心の中を見透かすような台詞に、少年は顔を上げた。
「思い切り叱られてこいよ。それでさ、心配させてゴメン、って、謝らないと。いつも、クレオさんに言われたじゃん。悪い事をしたと思うなら謝りなさいってさ。で、『まあまあ』とかって庇ってくれるグレミオさんに」
「『グレミオは甘いよ!』って言うんだよね」
「そうそう」
 二人で顔を見合わせてくすりと笑った後。少年は俯き、小さく頷いた。
 在りし日の、幸せな記憶。その時間を二人で共有したことを、今更ながらに思い出していた。
「……うん、そうだね」
 少年の頬には、止め処なく溢れ出している涙が幾筋も伝っていく。
「……お別れだ、フォルテ」
「……テ…ッド」
 俯いたまま、立ちつくす少年にテッドが伝える。想いの全てを込めて。
「幸せだったよ。おまえと過ごした時間。俺は三百年以上生きてきたけど、その中でも本当に一番幸せな時間だった」
「……テッド…っ!」
 強く握りしめた拳が戦慄く。これ以上泣くべきじゃないと分かっているのに、少年の涙腺は壊れてしまったかのように留まることを知らなかった。そんな少年に、テッドが穏やかな声で言った。
「だから、いいんだ。幸せな時間が、俺には確かにあったから。おまえに色々任せちゃって悪いとは思うけど、俺はそろそろゆっくり眠りたい。一番信用できるおまえに、その紋章を渡せて良かった。俺だと思って、大切にしてくれるか?なあ―― 一生の、お願いだよ、フォルテ」
「……っ」
 テッドの、その台詞を聞き。少年の唇からは、声にならない嗚咽だけが漏れた。こくり、と頷くことが精一杯。
「いつか、また会おう。きっと会える。俺も少し休んだら、またおまえの側に行くよ。何十年、何百年かかるか分からないけど」
 俺達は、親友だろ?
 そう言ったテッドに、少年は濡れた顔を上げた。
「僕も、テッドと一緒に過ごした時間が、きっと、一番幸せだった」
「……ありがとな、フォルテ」
 少年の言葉に、テッドは笑顔を見せた。
 多分。今までに見た中でも最上級の幸せを顕わした表情。それと同時に、言葉に出来ない程の哀しみを突き動かす笑顔だった。


 消えてしまいたいと願った。
 自分さえいなければいいと、この身がなくなればいいと願った。
 数多の人を傷付け、数多の命を奪い、自らの大切な存在すらも殺めた自分など、存在する事こそが罪だと思った。

 だが、何故だろう。
 不思議な程に耳近くで聞こえる仲間達の声に、身が切られるような痛みを感じる。
 この声に応えずにいる事が、一番の罪なのだと―――。


「それで、いいんだ」
 ふわりと微笑んだテッドの姿が揺らぐ。
「テッド!」
「元気でな。俺は、いつも側にいるから。テオ様も、グレミオさんも、オデッサさんも。みんなおまえの事、見守ってるからさ」
「テッド……!父さん!グレミオ!オデッサさんっ!」
 テッドの後ろで、一様に微笑んで立っている微かな姿を捉え目を見開いた少年は、声の限りに叫んだ。

 ――――頑張れよ、フォルテ

 父の唇がそう動くのが、何故だかとてもはっきり見えた。


「……少しの間だけど、もう一度会えて嬉しかった」
 呟いたテッドの台詞は、少年の耳には届かず。
 いつの間にかテッドの後ろに立っていたテオの大きな掌が、テッドの頭を優しく撫でた。




   どこまで逃げても自分の罪は購えない。

   ならば、もう一度、戦場に立とう。
   彼らの命を、無駄にしないためにも。

   彼らの声に、応える為にも。




「フォルテ!いい加減に……!」
 再度、ビクトールが少年に叫んだ時。
「……!フォルテ……っ!」
 ゆっくりと目を開けた少年に、その場にいた誰もが息を飲んだ。
「……ぼ…っちゃん………」
 渇いたクレオの声が、少年の耳を打つ。叱りつける、というより怒鳴りつけ続けたクレオの声は完全に掠れていて、少年は申し訳なさそうに、微かに微笑んだ。
「喉、枯れちゃったね……ごめん」
「何を……何を呑気な事っ―――なに…を………」
 崩れ落ちるように少年の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らすクレオの色素の薄い髪が、視界に揺れる。今ではすっかり見慣れた部屋の天井を目にし、小さく息を吐いた。

 ――― ああ、僕は、帰ってきたんだ。

「フォルテ…フォルテ、おまえ…記憶は………」
 同じく掠れた声で問うビクトールに、フォルテがゆっくりと視線を向けた。
「……心配掛けて…ごめん。みんなも………」
「…ぼっちゃん、ぼっちゃんですね?俺の知ってる、ぼっちゃんですよね?!」
 パーンの問いかけに、少年は頷いた。
「パーンも…心配掛けちゃったね……」
「俺は…っ、俺は、そんな……良かった………良かった…っ!」
 自分の名を呼ぶ声に、感極まったように顔を真っ赤にして、パーンは横を向いて鼻をすすった。少年は、その後ろにいたソニアを見つめて問う。
「……何故、ここに?」
「……そんな白い顔をして聞く事じゃないだろう。用は済んだようだな、私は戻る」
 踵を返そうとするソニアの後ろ姿に、フォルテが声を掛けた。
「待って下さい!」
 少年の声に、ソニアは立ち止まった。
「待って下さい。帰るとは、地下の牢にですか?それとも――帝国にですか」
「……後者だと言ったら、どうする?」
 背を向けたままの問いかけに、フォルテは一瞬ぎゅっと唇を噛みしめた。その後、自らの身体の上で蹲っているクレオに声をかけた。
「……クレオごめん。ちょっと、いいかな」
 気遣わしげな声に、クレオが慌てて顔を上げる。
「あ、すみません、ぼっちゃん」
 ううん、と微笑んだフォルテは次の瞬間、ガラリと表情を変えた。そのまま身体を起こそうとし――。ふらつく身体を制御出来ずに、再度ベッドに倒れ込んだ少年を、ビクトールが慌てて腕を回して支え、顔を覗き込んだ。
「大丈夫か」
「大丈夫。ごめん、悪いんだけど一人じゃ無理そうなんだ。ちょっと立たせて貰えるかな」
「馬鹿言うな!寝てろ!」
 怒鳴りつけたビクトールに、フォルテは繰り返した。一度目とは違う、毅然とした声で。
「立たせてくれ。頼む」

 先程まで真っ白な顔で横たわっていた少年は、既に解放軍リーダーとして、そこにいた。
 逆らう事を許さない強い瞳は、これまでに幾度も目にしてきた物だ。
 それを見たビクトールの顔が微かに歪む。が、小さく息を吐くと、「ほらよ」と腕を貸し、少年の請うまま、ベッドの脇に立たせてやった。

 一連の様子を、ソニアは何も言わずに静観していた。その彼女の前へ、ビクトールに身体を支えられながら、フォルテが一歩、また一歩と、おぼつかない足取りで歩いていく。
 やがて目の前まで歩いてきたフォルテは、ビクトールに「ありがとう」と声をかけ、支えを解いてくれるよう頼み。迷いながらも数歩離れたビクトールに笑んでから、ソニアに向き直った。

「――帝国将軍、ソニア・シューレン殿」
「……なんだ」
「僕は憎まれて当然だ。恨まれても仕方がない。それを承知でお願いする」
 白くなった顔と、薄い頬。今にも倒れそうな足元。
 それでも、彼の瞳は力を失わない。まさしく、覇者のそれだった。
「この解放軍に、力を貸して貰えないだろうか」
「……それが、道理じゃないと分かっていて尚、おまえは私に請うのか?」
「あなたも知っているだろう。この帝国が、今どんな状態にあるのかを。官吏は私欲に走り、それを御するべき皇帝は政を省みない。この状態を見過ごし、退廃と言う名を冠する安寧の道を歩むのが、この国に暮らす多くの民の為になるかどうか。それを良く考えた上で答えて欲しい」
 少年の周りには、静謐そのものの気。だが、そこからは考えられない程の圧力を感じた。

(ああ、やはり、テオ様の息子だ)

 懐かしさと、哀しさ。軍人として、人の上に立つ者として、見せる事の出来ない表情を、強靱な意志の力で抑え。ソニアは僅か目を閉じた。

 静まり返った部屋で、体調がいいとは決して言えないフォルテの荒い息だけが響く。
 永遠にも似た時間の果てに、聞こえる低い声。
「……いいだろう」
「ありが」
「礼を言うのは早い。おまえの死に様を見届けてやるために、私はいいと言ったんだ」
 礼を言いかけたフォルテの言葉を遮り、傲然と言い放つソニアに、少年は僅か苦笑した。
「……それでも、結構です。ありがとうございます、ソニア殿」
 そう言って深々と頭を下げたフォルテは、そのまま崩れ落ちるように床に倒れ込んだ。
「フォルテ!」
 ソニアは思わず声を上げ、咄嗟に少年の身体を抱き留めていた。
 しかし少年の返事はない。既に気を失っていた。額には多量の脂汗が浮いている。
「……」
 慌てて駆け寄ってきたビクトールやパーンらに少年の身体を預け、ソニアは今度こそ、部屋を後にした。

「よくよく、テオ様に似ている……」
 呟きは空気に溶け、その時浮かんでいた切ない笑みにも似た表情も、誰の目に留まることがなかった。

「全く、こいつは自分の身体がどんな状態なのか分かってるのか?」
 苦笑するビクトール。
「………全く、こいつらしいよな」
 同じ様に苦笑しながら、フリックは傍らの椅子に腰を下ろした。
 緊張の糸が切れたのか、パーンは床にしゃがみこみ、少年の方を向いて安堵の息を漏らしていた。クレオは愛おしげに少年の髪を梳いている。
「お帰りなさい、ぼっちゃん……」
 クレオの声に、少年が、小さく微笑んだように見えた。


【 慟哭 -10-  きみがくれたもの /end. written by 紗月浬子 】