慟哭 -08-  雨が運びくる焦燥
幻想水滸伝


「それは……ソウルイーターに取り込まれるって事かい。テオ様や、テッドくんのように―――?」

 ルックの言葉は衝撃を生んだ。
 たとえ時間が掛かったとしても、いつかは戻ってくると信じていたのだ。
 それなのに―――。

「そういう事になるね。――勿論、体はこのままここに残るけど」
「体だけ残って何になるって言うんだ!」
「フリック」
 ビクトールが、憤って声を荒げるフリックを制した後。
「ルック。おまえがどうしてそんな事を知ってるのか、俺達には分からないし、判断のしようもない。だが、それが本当なら」
 切羽詰まったようなビクトールの声に、ルックが溜息混じりに、けれど口調だけはどこまでも真剣に答えを返す。
「冗談でこんな事が言えるとでも思ってる?」
「……っ」
 ビクトールも、先程制されたフリックも言葉を失った。が、反対にパーンは耐えきれなくなったように声高く叫んだ。
「じゃあ、どうすればいい!どうしたら、ぼっちゃんは戻ってくる!?」
「言ったじゃないか。自分で戻ってくるしかないんだよ。他からの干渉は一切効かない。真の紋章の持ち主が、自分の意志で自らの存在を消すことを望んでる。この世界に、真の紋章以上の力なんて――存在しないからね」
 そう言ったルックの顔が、微かに歪んだ。自分の発した言葉を、まるで忌々しいとでも言うかのように。
「じゃあ、本当にこのままただじっと、何も出来ずに見守っている事しか出来ないのかい……?ぼっちゃんの存在が、このまま消えるかもしれないと言う、この状態でも……?」
 呆然とした瞳でフォルテを見つめながら呟かれたクレオの問いに、ポツリ、と答えが返ってきた。
「……確かにね、何も出来ない。でも」
「でも!?」
「彼が今本当に聞きたいと思っている言葉なら――もしかすると通じるかもしれないね」
「本当に聞きたいと思ってる言葉……?」
 それは一体何なんだ、と言いたげな視線に晒されても、ルックはそれ以上は何も、言おうとはしなかった。

 重い沈黙が広い部屋を満たす中、やがて空気が動く。
「僕は、もう行くよ」
「ルック!」
 フリックが何かを言おうとしたが、既にその時、少年の姿は部屋から消えていた。


 そのまま、何時間が過ぎただろうか。
 誰も言葉を発さず、身動きすら殆どすることもなく。ただ、少年を見つめ、拳を握っているだけの時間。
 少年が最初に目を覚ましてから、まだ一日と経っていないというのに、既に何日も経過したような気さえする。
 ルックの言葉そのもののように、重い沈黙の中で、夜が更けていった。


 雨。
 うたた寝していたクレオは、その静かな水の音でハッと目を覚ました。
「いつの間にか、眠ってしまっていたんだね……」

 外はまだ薄暗い。しかし時計を見ると、既に六時近くを差していた。
 厚い雲の向こうでは、朝日が昇っているのだろうか。
 地上にいる自分達には見えないだけで、雲が晴れさえすれば。

 クレオが窓の外を見遣って一人溜息をついた。
 部屋の中を見渡すと、他の面々もそれぞれ椅子に腰掛けたまま、静かな呼吸を繰り返している。誰も、何も言わぬまま時間だけが過ぎ、張りつめた緊張感もいつしか緩み、眠りへと誘われていたのだろう。

 空を、そして雨の落ちる湖を眺め、クレオは一人考え込んでいた。

 ここに戻ってくることが、彼にとっては最善の道なのだろうか。
 それとも、記憶を無くしたまま、何も知らないままで過ごした方が優しい人生を送ることが出来るのだろうか。

 記憶を無くしたと知った時、一瞬考えた事は、ルックの言葉によって打ち消された。
 このままの状態で幸せに生きることなど、叶わないのだと。

 彼が本当にそれを望んでいるならば、自分のしようとしている事は余計な事に他ならないのかもしれない。
 だが、このまま紋章の中に吸い込まれていく様子を、ただ黙って見ている事など―――。

 少しずつ、僅かではあるが明るくなっていく空の色。
 その過ぎていく時間が、刻一刻と少年の生命の糸を細くしているのかもしれない。
 ここで、こうして考えている間にも。

 やがて、クレオが意を決した様に歩き出した。
「どこに行くんだ」
 俯いて瞳を閉じていたビクトールが、その唇だけを動かした。クレオの歩みが止まる。
「起きていたのかい」
「今起きたんだ。で、あんたは何処に?」
「……届くかもしれない言葉を…探しに、行くんだよ」
 そう言い残し、ドアの向こうにクレオは消えた。

「……届くかもしれない、言葉――か」
 いつの間にか顔を上げていたフリックが呟く。
「明るくなってきたな……」
 ビクトールの言葉に、フリックとパーンが窓の外に視線を向けた。

 外は雨。
 未だ、止む気配はない。



 控えめなノックの音が部屋に響き、部屋の住人である二人は、同時にドアを見遣った。
「こんな朝早くから珍しいな。誰だ?」
 朝稽古の指導に向かおうとしていたアレンが、剣の手入れをしていたグレンシールに問う。
「俺に聞かれても困る」
「確かにそうだな」
 納得したように頷くアレンに、グレンシールが扉を指差した。
「フォルテ殿がまだ目を覚まされていないのだから、今は何の作戦も動かせない状態だろうし……。まぁともかく、出てみれば分かるだろう」
 そこに、もう一度ノックが繰り返された。
「誰だ」
 扉近くで発したアレンの問いに、答えが返る。
『朝早くに申し訳ありません。――クレオです』
「クレオ殿――?」
 少し驚いたような顔で扉を開けたアレンは、思い詰めた表情をしたクレオと顔を合わせる事となった。部屋の奥でそれを見ていたグレンシールは、その様子にただならぬ物を感じたのか、立ち上がって中に入るよう促す。
「どうしました、クレオ殿」
「あなたがお一人でここに来られるなど、初めてのことですね」
 帝国に属していた頃、階級のみで言うならば、アレンとグレンシールの方が上だった。軍に属する者に、階級を主とした上下関係は絶対のもの。本来ならば二人はクレオを呼び捨てにし、命令を下す立場にあってもおかしくはなかったのだが、古くからテオ直属の部下であったことから、クレオには、二人共がそれなりの敬意を払い接していた。
 中に招き入れられたクレオは、二人を順に見つめて口を開く。
「突然、こんな事を言って戸惑われるかもしれないが、どうしてもお二人にお願いしたい事があって伺いました」
「お聞きしましょう」
 思い詰めたような口調のクレオに、二人は頷き。ありがとうございます、と礼を言ってから、クレオは一連の出来事を話し始めた。
 自分達解放軍のリーダーである少年の身に起きている事。このままでは彼の命が危うい事を。
「なんと…フォルテ殿が……」
「記憶を……?」
 アレンとグレンシールの二人は、まさか、とでもいうように顔を見合わせた。しかし、クレオを見ればそれが紛れもない真実なのだと分かる。沈痛な面持ちになった二人は、思わず目を瞑った。

 ―――この、解放軍に入ることになった時。それが上司の遺言とはいえ、思うところが全く無かった、と言ったら嘘になるだろう。
 が、託された少年はその上司の息子であり。幼い頃よりその成長を目の当たりにしてきた少年でもあった。いよいよ城に上がると決まった時の将軍は、息子の先を楽しみにしているのがありありと分かる程に、その様子は嬉しげだったのだ。
『お前達にもその内、あれの面倒を見て貰うことにもなるだろう。その時は甘やかさず、厳しくあたって欲しい』
 少年が皇帝に謁見する日の前夜、執務室でそう言った将軍の表情は、誰もが恐れる百戦百勝将軍テオではなく、愛する息子を思う、何処にでもいる一人の父親としてのそれだった。
 道が分かれて後、皇帝への忠誠心が故に自ら解放軍へと身を投じる事は到底不可能な事だったが、心の奥底では、息子と共に在ることを将軍は望んでいたのだろう、と二人は思っていた。だからこそ今際の際に、息子であるフォルテへ力を貸すようにと望んだのだと。
 今はその想いに応えるべく、ここにいる数多の者達と同じ意志を抱いていた。解放軍の一員として、苦しんでいる多くの民衆の為にこの先を歩いていこうと決意している。

 それなのに。後一歩、というここに来て―――。
 まさか。
 父の死に際しても涙一つ見せまいとしていた少年がその様な事態に陥っているなどと、一体誰が思っただろうか。

「……それで、私達に頼みたい事というのは」
 グレンシールが顔を上げた。
「ソニア様に」
「ソニア様に?」
「伝えて頂けないでしょうか。今のフォルテ様の状態を。出来たら、ソニア様にフォルテ様の部屋に来ていただきたい。来て、お声を掛けていただきたいんです。このままじゃ、フォルテ様は、ぼっちゃんは―――」
 力無い声で俯くクレオに、アレンが尋ねた。
「その、届くかもしれない言葉は、ソニア様の一言だと?」
「……あの時、ぼっちゃんの心に亀裂が入ったのは確かなんです。テオ様はぼっちゃんの成長をお喜びになって逝かれた事を、ぼっちゃんがテオ様を手に掛け、誰よりも苦しまれた事を理解って貰いたい。一言、本心じゃなくてもいい、ぼっちゃんに声を掛けて欲しい。ここへ、みんなの元へ帰って来て、と」
「……クレオ殿」
「はい」
「何故、あなたが直接仰らないのですか」
 クレオはそれに、力無く首を振って答えた。
「……私は完全にフォルテ様の側からしか物を見れなくなっています。ずっとお側にいたからこそ、その苦しみは誰よりも分かっている。ですがソニア様からすれば、それは偏った意見に過ぎない。あなた方二人は元々テオ様の腹心の部下であり、テオ様の遺言により、ここ解放軍に籍を置いてらっしゃる。ソニア様に届く言葉があるとすれば、それはあなた方二人をおいて他にないと思うから……」
 アレンとグレンシールが顔を見合わせた後、クレオの言葉に頷いた。
「分かりました。私達の言葉がどの程度お役に立つか分かりませんが、やってみましょう」
「このまま御子息が目を覚まさなければ、一番哀しむのはテオ様でしょうから」
 二人の言葉に、クレオが小さく微笑み。深く、頭を下げた。
「ありがとう、ございます……」

「どうか、お願い致します」
「努力してみます」
「では」
 そしてクレオは牢の鍵を取りにマッシュの所へ、二人は地下のソニアの所へと向かい、部屋を後にした。


「牢の鍵、ですか……?」
 一夜明け、事態は更なる悪化へと進んだ事を聞かされ、マッシュが血の気のない顔を顰めていた。
「今はあのお二人と、ソニア様にお願いする他ないんだ……」
「あなたは…私を恨んでいるでしょうね。彼をこの解放軍のリーダーにと頼んだ私を」
 マッシュの静かな声がクレオの耳に入る。その言葉に、クレオは首を振った。
「――いいや。恨んじゃいないよ。どんなに周りに推されようと、選んだのはぼっちゃん自身だ」
 そう言ってから、目を伏せて。
「ただ」
「ただ……何ですか?」
「私は――そんなぼっちゃんを見ているのが…辛いだけだよ」
 そう言って鍵を受け取り、部屋を出ていくクレオの後ろ姿を見て、マッシュが一人何かを呟いた。クレオが振り向く。
「何か?」
「――いえ、何でも」
 僅か首を傾げつつ、扉の向こうにクレオの姿が消え。それを見送ったマッシュの苦しげな溜息が、床に落ちた。


 クレオが地下に降りた時、階段へと出てきたアレンとばったり顔を合わせた。
「アレンさん!」
「クレオ殿、丁度良かった。今、あなたの所へ行こうと思っていたところです」
「――という事は、ソニア様が……?」
「ええ、すぐに承知して下さいました」
「……そう、ですか」
 意外な事実に半分驚愕しつつ、クレオは牢へと歩み寄った。


 アレンとグレンシールという、テオの腹心の部下であった二人から一通りの説明を受け耳にした情報に、ソニアも驚きを隠せなかった。
「フォルテが……ソウルイーターに?」
「だそうです」
「私達も、先程伺ったばかりで驚いているのですが……」
 物思いに沈んだようにも見えるソニアに、二人が続けて話し掛ける。
「お心全てなどとは勿論申しませんが、私達にも、ソニア様のお気持ちが少しは分かるのです。目の前で息を引き取られたテオ様を見た時、怒りがこみ上げてきた事に否定は出来ません。ですが。テオ様は――喜んでおられました。御子息が御自分を越えられた事を、心から……」
「ソニア様からしてみれば、私達も他と変わらぬ裏切り者なのでしょう。しかしテオ様は、私達が解放軍に身を投じる事を望まれた。私達二人があの方から最後に承った言葉は、他ならぬ御子息の力となること。将軍が、それを望んでおられたのです。――そしてそれは、ソニア様、貴女にも通じるのではと――」
「おまえ達は、私に解放軍の一員になれと?」
「―――それが、テオ様の願いだったと」
 グレンシールの言葉に、苛烈な瞳から炎が消えた。
「―――テオ様」
 呟かれた言葉に二人は深く頭を垂れ。片膝と拳を床に付けた部下としての礼をソニアに取ったまま、口を開いた。
「ソニア様。御子息は涙一つ見せられませんでした」
「……」
「テオ様の死に際しても、周りの人間を慮って泣くことすら出来ず、ただ、呆然としている様に見受けられました。父親をその手に掛ける事になった年端もいかない少年の胸中に、どれ程の嵐が吹き荒れていたのか。――私達には計りしれません」
 アレンの言葉をグレンシールが継ぎ。
 それを黙って聞いていたソニアは、ややして顔を上げた。
「分かった、行こう」


「ソニア様――」
「クレオか。フォルテの所へ案内してくれ」
 表情を変えず、ソニアは鍵の所を指差す。
「はい」
 鍵を差し込みつつ、クレオがソニアに話しかけようとした。
「ソニア様、私は」
 だが、返ってきたのは簡潔な言葉。
「言いたい事は後で聞く。時間がないのだろう。早くしろ」
「……はい」

 ガタン、と大きな音を響かせ、牢の鍵が開いた。


【 慟哭 -08-  雨が運びくる焦燥 /end. written by 紗月浬子 】