慟哭 -05-  心の在処
幻想水滸伝



 誰も、傷付かなかったのに
 何も、失わなかったのに
 僕がここにいなければ
 僕が何もしなければ

 キエテシマエ

 ナニヒトツ マモレズ
 スベテヲ キズツケル

 コノ ソンザイ ナド



 僕は、階段を一人降りていた。
 何処までも続く白い空間。
 そこに存在する、ただ一つの階段を。

 白い空間に、同じく白い階段が酷く頼りなげで、このまま何処まで降りていけばいいのか、僕は不安に駆られた。
 どれくらい降りてきたのだろう。上を見ても下を見てもきりがない。
 どちらも遠くの方は空間に溶けていた。
「ここは、どこなんだろう……?」
 何故、ここを降りなければいけないのか、僕は分からなかった。
 分からなかったけど、他に何も出来ない。
 何もない。
 誰もいない。
 不意に、寂しい、と思う。

 ここに 『     』 がいたら。

 一瞬、誰かの顔が浮かんだ。
 その浮かんできた記憶を掴もうとしたけど、まるで霧を掴むような感じで、はっきりとした形にはならない。
「誰がいたらいいと、僕は思ったんだろう。何も分からないのに」
 酷く寂しくなった。
 僕は誰も知らない。
 誰も分からない。
 僕は、一人。ずっとここで。

「いいんだ。だって、それは僕が望んだ事なんだから」
 知らぬ内に漏れていた言葉。

 そう、そうだ。
 僕はこれを望んでいたんだから。
 だから、ここにいよう。

 ずっと。



 暗転。



 大きな人影が、赤い残像を後ろに引きながら眼前に迫る。
 自分の手を見る。
 ―――真紅。

「私は嬉しかった、お前の成長した姿が見られて」

 この血は、何の為に?
 誰の手で?

「それが宿命だったんだ。お前を恨んではいない、本当だ」

 ―――殺した。 僕が。

 紅が全身を染めていく。

「いやだ、いやだいやだいやだいやだっ!」

 残るのは、ただ、紅。
 鮮やかな影。

「う、うあああ――――――っ!」



 暗転。



「すごく、寂しいんだ」
「なんで?」
「寒いし」
「うん」
「お腹空いたし」
「うん」
「友達もいないんだ」
「そうなの?」
「ああ、だから、一緒に来て」
「どこに?」
「……この中に」
 鎌を持った死神の様な、黒い影。
「こわい……」
「怖い事ないよ」
「君は誰?」
「薄情だな、もう忘れたのか?」

 ………テ…テ……ッド…………。
 ………テッド…?

「そう、だから一緒に来て……」
 ―――だって、君は。
「さあ、フォルテ……」
 君は、僕が。僕の中に。この手の。
 手?
 僕は……僕は、誰?
「な? 来いよ、こっちに……ほら、みんないる」
 ……みんな?
 ああ、ほんとうだ。みんないる。
 わらってる。
 たのしそうに。

 じゃあ、ぼくも。


  + + +


「おとーさーん!!」
 春の息吹を感じさせる緑鮮やかな庭園。その中央に位置する、邸の玄関から門までの石畳を、子供が満面に笑みを浮かべ、父親に向かって走っていく。
 子供の足で必死に走ってくる今年四才になる息子の体を抱き留め、父親は微笑んだ。
「フォルテ、ただいま」
 手を広げてだっこ!とねだる小さな体を軽々と抱き上げ、男は玄関に向かって歩く。玄関の前では、妻が微笑みを浮かべて彼を待っていた。その横には子供の付き人として半年前に邸の住人になったグレミオの姿もある。
「えへへ、ぼくね、ぼくね、いいこにしてたよ!」
 父親に抱かれた少年は得意そうに父の首にしがみつき、母親の顔を見て言った。
「ね、おかーさん、ぼくいいこにしてたよね!」
「ええ。フォルテがいい子にしていたから、お父様も早くお帰りになったのよね」
 ふんわりと微笑む妻に、玄関に辿り着いた男も微笑んで頷いた。
「ああ、ただいま。クレオは先に戻っているな?」
 ええ、と頷いて帰ってきた夫を迎える。
「おかえりなさい、あなた」
「テオ様、お帰りなさいませ。ご無事で何よりです」
 ぐれみおー、と手を出す息子に、グレミオが腕を差し出すのを見て、男は子供の体を預けた。今度は付き人に抱かれ、嬉しそうに笑っている。そんな子供の無邪気な様子に笑顔を見せてから、妻の顔を見て尋ねた。
「起きていて、体は大丈夫なのか?」
 体の弱い妻はベッドに伏したままでいる事が多い。今日のように起きて迎えに出ることは珍しかった。
「ええ、大丈夫。今日は気分もいいの」
 微笑んだその顔は顔色も良く、確かに体調は悪くはないようだ。
 そんな二人が自分を見ていないことに気付き、付き人の腕の中にいた子供がぷうっと膨れる。
「だめ!おかーさんはぼくの。おとーさんもぼくのなの!」
 子供らしいやきもちに両親が楽しそうに微笑んで、子供の頭を撫でた。
「フォルテったら」
「フォルテ。おまえにはグレミオがいるだろう?」
「だめだめ!ぐれみおもおとーさんもおかーさんもくれおも、みんなぼくの!」
 ぶんぶんと首を振って、また父の腕に逆戻りを要求する子供に、男は苦笑してからその体を受け取った。
「全く、いつからそんなに我が儘になったんだ?グレミオ、おまえが甘やかし過ぎているんだろう」
 そんな彼の言葉に、グレミオが申し訳なさそうに謝った。
「申し訳ありません。ぼっちゃんが可愛くて、つい」
「仕方のない……」
 そう言って苦笑した後、息子の顔を覗き込む。
「良いかフォルテ、みんなが甘やかしてくれるのも今の内だけだぞ?」
 父の言葉に不思議そうな顔をしていたのもつかの間、子供は再び父親にしがみつき、嬉しそうにはしゃぎだした。幼い子供にそれを理解しろという方が無理だろう。
「どうかしら。グレミオはずっと甘やかしたままでいそうよ?」
「それは困る。この子には、いつか私を越えて貰わなければならんからな」
 男の声に、グレミオは慌てて首を振った。
「大丈夫です!私だっていつまでもぼっちゃんが子供のままじゃないって事くらいは分かっていますから」
「だと、いいのだけれど」
 母親がそう言うと、グレミオが情けない顔をする。
「奥様までそんな……私はそんなに甘いですか?」
「ふふふ、そうね。でも今だけなら構わないでしょう。ね、あなた?」
「子供のうちはな」
 グレミオの顔が余程おかしかったのだろうか。男も笑みを浮かべながら頷いた。その時、玄関が開き、クレオが顔を出した。
「テオ様、お帰りなさいませ。いつまでもこんな所で何を?家に入られないのですか?」
 皇帝への報告に行っていた男より一足先に戻っていたクレオは、既に着替えを終えてさっぱりしている。
「おまえも一緒に出ていたのだから迎えに出ることはない。先に戻ってゆっくりしているといい」
 そう言われていたクレオだったが、迎えに出た奥方とこの家の小さな主君、そしてその付き人がちっとも戻って来ないので、様子を見に来たらしい。そして、玄関の向こうから聞こえる会話が耳に入ったのだろう。
「ああ、今入ろうと思っていたところだ。この子が駄々をこねてな」
 子供の頭をポンポンと叩き、玄関を開けて中に迎え入れるクレオとグレミオ、そして妻の顔を見て、男は中に入った。
「久しぶりの我が家だな。 ただいま」
 家の中にはシチューの香りが漂っていた。遠征から帰ってきた時の、いつものメニューだ。
 男の顔が自然と和らいだ。


  + + +


「初めまして。パーンと言います。これから、お世話になります」
 子供が首を傾げた。
「パーン?」
「そうだ。これから一緒にここで暮らすんだぞ」
 見上げてくる子供にそう言ってから、男はパーンに向き直った。
「これが私の息子。そしてグレミオだ。息子の付き人をして貰っている」
「宜しくお願いします、パーンさん」
 柔和な顔に笑みを浮かべ、挨拶をしてくるグレミオという男に、パーンも軽く頭を下げた。
「よろしくおねがいします。パーンさん」
 興味津々という顔で、グレミオの言った言葉を真似る息子の頭を撫で、
「良くできたな」
 と褒めてやってから、階段の上を見上げた。
「妻は体が弱くてな。起きては来られないが、また後で紹介しよう。それとおまえも顔を知ってるクレオ、以上が我が家の家族だ。この家の中では楽にしていろ。分からないことはクレオに聞けばいい。おまえの先輩だ」
「はい。ありがとうございます」
 赤月帝国継承戦争直後、マクドール家に家族が増えた。


  + + +


「フォルテ。新しい家族だぞ」
 そう言って父親が家に連れて来たのは、少年とそう年も変わらない、無口な子供だった。
「お帰りなさい、父さん! 新しい家族って、この子?」
 俯いている少年の顔を覗き込みながら、弾んだ声で尋ねる。
 成長した息子は、昔のように飛びついてくる事は無くなった。それでも、帰りを迎えてくれる嬉しそうな表情に変わりはない。
 母を亡くして大分経つが、周りから与えられる惜しみない愛情のお陰で、素直で優しい少年に成長していた。だが、一人息子と言う事で競争相手がいないせいか、多少競争心に欠けるという点のみが心配の種。
 それは、少年の武術を指南しているカイ老師にも言われていた事だった。

『坊は素質はあるんだかな、如何せん競争心というものに欠けている。これで兄弟でもいたら違ってたんだろうが、まぁおまえさんの息子という事もあって周りからどうしても一歩引かれてしまうんだろうな。同じ年頃の友達も、そう、いないようだしの』

 新しい家族となる少年に嬉しそうに話しかけている息子の姿を見ながら、男は思っていた。
 街の道端に、ぼろ布の様に蹲っていた少年を見付け、ここに連れ帰って来たのは偶然だが、年も近いようだし、兄弟の様に仲良くしてくれればいいのだが、と。

 それからのフォルテは、ただの優しい少年ではなくなった。
 テッド、と名乗ったその少年が、それまでフォルテが知らなかった様々な事を教えてくれた。
 小さな悪戯、友達と野山を駆け回る楽しさ、誰かと一緒に鍛錬し、その相手に負けたくないという競争心。
 もたもたしていると自分の分のおやつまでテッドに取られる、という経験を何度か積んだ後、大分行儀も悪くなり、負けず嫌いな性格にもなった。が、今まで、嬉しそうに微笑む事はあっても、それ以上の大きな感情を表に出すことがなかったフォルテが、楽しそうに大声を上げて笑う姿などは、テッドが来てから見られるようになったものであり。マクドール家の住人は皆、少年の変化を喜ばしいものとして受け止めていた。

 普段は優しいけれど、過ぎた悪戯には誰よりも厳しく注意を与える姉の様なクレオ。大食らいで大雑把だが正義感は人一倍強いパーン。母親の様な愛情を無償で注ぎ、少年にはどうしても甘くなってしまうグレミオ。昔からの親友のようにいつも一緒にいる、悪戯の大先輩でもあるテッド。そしてそんな家族全員を暖かい目で見守る父、テオ。
 常に笑顔が絶えない家の中で、少年は自我を確立した。

 そして少年は、大切なもの、守るべきものを己の内で認識する。
 守るべきもの、守りたいものは、自分の家族だと。


  + + +


「さむいね、ここ」
「でも、みんないるだろう?」
「うん、いるね」
「だから、おまえもここにいればいい」

 周りを見る。
 どれもみんな、知っている顔。

 長い栗色の髪、毅然とした目と、優しい表情の女の人。
 優しく微笑む、頬に傷を持った金髪の青年。
 憧れてやまない強さをその身に持つ、精悍な中年男性。
 そして、ここに誘ってくれた少年。
 薄い茶の髪と、悪戯っぽい目をした、自分と同い年くらいの。

 みんないる。
 みんなわらってる。
 なのに、なんでだろう。

「寒いね」

 黒い影が、また、大きく口を開けた気がした。


【 慟哭 -05-  心の在処 /end. written by 紗月浬子 】