慟哭 -04- 晒される闇、隠される光
幻想水滸伝
「ぼっちゃん!」
部屋に入ったパーンがベッドの上で苦しそうな息を吐く小さな主を見付け、声を上げて走り寄った。が、その声には何の反応も無い。白く血の気のない顔には脂汗が滲み、譫言を繰り返すのみだ。
「まさか、ずっとこんな様子だったのか……?」
パーンの後から部屋に入ってきたクレオが、ゆっくりと近付き、横たわっている少年と大差ないほど青くなった顔でベッドの脇にしゃがみ込み、毛布の上できつく握りしめられていた少年の手を取った。
その問いに、ビクトールは首を振り。眉間に皺を刻んで答えた。
「……いや。つい、さっきからだ」
先程、意識を失うように眠り込んだ少年は、それから間もなく、酷くうなされ始めた。
何を言っても反応せず、揺さぶり起こそうと試みても目を開けず。
ただ、己の心に囚われたように、夢の中の世界に追われている。
「ビクトール、フリック。どうしてぼっちゃんはこんなに苦しそうなんだ。何故、声を掛けても目を覚まさない?なんでなんだ!?」
パーンが我慢出来ないと言ったように声を荒げた。クレオも声には出さずに、二人の顔を見上げる。その視線は、彼らを責めるように厳しく。
パーンとクレオの視線を受けた二人は僅かに俯き、目を伏せた。
ベッドを囲むように、四人はそこにいた。
少年の顔を横に立っているパーンと、反対側で床に膝を付き、少年の手を握り込んでいるクレオ。ビクトールはパーンの脇の椅子に座り、フリックはクレオから少し離れ、ベッドの足下に腰掛けていた。
暫し経っても何も答えない二人に焦れたように、パーンが大声で怒鳴った。
「ぼっちゃんに何があった!?答えろ、ビクトール、フリック!」
少年が目を覚ましてからまだ一度も顔を合わせていなかったパーンは、記憶を無くし、自分達の事を忘れているという少年には会っていない。
だが、少年がどんな様子であっても、自分達の事を忘れていても、彼は大切な主だった。
本来の主であったテオを裏切れず、一度は自身が彼を裏切った。少年が必死なまでの思いで守ろうとしていたテッドを、帝国に引き渡すという行為で。
あの時少年が見せた表情は、深くパーンの胸を刺した。
(―――すみません、ぼっちゃん)
パーンはそれに耐えきれず、視線を逸らした。
少年の視線はパーン自身を責めはしなかった。
ただ、見捨てられたような、一瞬、途方に暮れたような顔をして。泣きそうに顔を歪め。そしてその後。微かに微笑んだのだ。
パーンの裏切りは思ってもみない事だったのだろう。だが、少年は理解していた。テオに対する忠誠と、少年の心を守るべきだという心の声と。その狭間で、パーンが深く揺れていたことを。
だから、何も言わなかった。
何も言わずに、微笑んだのだろう、と。
彼にとっての自分達は家族だった。そして、自分にとってもマクドール家で生活するみんなは家族だった。無論、テッドを含めて。
長引かないと分かっている仕事では、テオについて遠征に出掛ける事もあったが、基本的には、少年の側で、少年を守る事を命じられていた。それは、身辺警護のみならず、母のいない少年に寂しい思いをさせない為の、父親としての精一杯の優しさだったのだろうと分かる。
あの時の選択を間違っていたとは思わない。
だが、少年の側から離れていた時間は、本来仕えるテオ属する、帝国の腐敗を目の当たりにする時間でもあった。
ならば、心のままに生きようと。
少年の側に在る事こそ、テオの本当の願いなのではないかと、そう思ったのだ。
だから。誓った。
二度と、少年を裏切るまい。
少年の側を離れず、その身を、心を守っていこうと。
――いつか、テオに命じられた様に。
「ぼっちゃんを傷付けるヤツは俺が許さない。何があった、言え!」
パーンの焦りが部屋中に音という響きを伴って広がる。それを受け、ビクトールが疲れたような声で、ポツリと呟いた。
「―――『僕は、誰を殺したんですか』」
「なんだ、それは。俺が聞きたいのは、」
「それを……ぼっちゃんが?」
パーンの声を遮るように、驚いたような声でクレオが問う。少年の顔に視線を送ったまま。
「ああ……。突然、何を言い出すのかと……」
ビクトールは頷き。先程この部屋で交わされた会話を、二人に伝えた。
+ + +
「僕は、誰を殺したんですか?」
繰り返される言葉に、二人は息を飲んだ。
――何故、どうしたらそんな言葉が出てくる?
何も覚えていないはずの少年が、何故、そんな事を口にするのか分からなかった二人は、咄嗟に繕うことも出来ず。
ただ、少年の白い顔を見つめていた。
少年は、何も言わずに真っ直ぐ二人を見返す。瞳に、かつてあった、逆らうことを許さない光を浮かべて。
その瞳に圧されたように慌てて口にした台詞は、落ち着きのない物になっていた。
「何を……言ってるんだ。突然。あるわけ無いだろ、そんな事」
「あ、ああ。何でそんな事を思った?おまえみたいな子供が誰かを殺すなんてことがあるはずないだろう?」
しかし。少年は、その二人の言葉をきっぱりと否定した。
「嘘だ」
少年は確信しているのだ。自分が誰かを殺したと。
殺した相手は分からずとも、ただ、その事実だけを。
「……フォルテ」
「はい」
「どうして、そんな事を考えたのか、教えてくれねぇか?」
ビクトールが問うと、少年は小さく頷き、どこか泣きそうにも見える顔で、口にした。
「夢を見ました」
「夢って……さっきのか?」
フリックの問いにも小さく頷く。
「何も覚えてないと言うのは嘘です」
「嘘……?」
「今までの事は何も覚えてない。いや、いなかった」
+ + +
ただひたすらに、真っ暗な闇。
「ここは……どこだろう」
首を傾げた時。
「よお」
いきなり後ろから声をかけられて。振り向くと、その方向に、薄い明かりが灯る。
「……君は?」
「俺?俺は…そうだなぁ、おまえの親友だと思ってくれれば良いよ」
「――親友?」
やけに親しげに話しかけてくる、その人の姿形は見えなかった。その声から察するに、自分と大して年が変わらないようだけど。
「なぁ。なんでおまえこんな所に来たんだ?」
「こんな所って?」
周りを見渡す。何もない。……確かに、あまり楽しそうな場所ではないけれど。
「こんな、何にもないところにさ。もっと他に行くべき所があるんじゃないのか?おまえを待ってる人も沢山いるってのに」
「……分からない」
「仕方ないなぁ」
どうやら、くすくすと笑っているようだ。
「おまえはさ、色々考えすぎるんだよ。別になにも気にすること無いんだぜ。でも、それは俺のせいでもあるんだよな。……ほんと、ごめんな」
「なんで、君が謝るの?そんな謝る事なんて何もないよ」
「ははは……そんな事言ってられるのも今だからだよ。きっと、全部思い出せば恨むに決まってる」
「なんで?別に僕、誰も恨んだりなんてしないよ」
「―――本当に?」
「うん」
「どんな物を見ても、そう言いきれるか?」
「うん、きっと」
「俺の所為で、こうなったとしても?」
彼がそう言った途端、真っ暗な世界の一部に、まばゆい程の光が射す。一瞬目が眩んで何も見えなくなったが、やがて目が慣れてくる。――と、そこに立っていたのは――。
「あれは、僕……?」
真っ赤な血を浴びて棍を振り回す、どこかで見た姿。
「そう、おまえ」
剣を片手に対峙していた相手がガクリと膝を付いた。
「……嫌だ」
そこにいた、もう一人の僕が駆け寄り、その人を腕に抱く。
「……死ぬよ、もうすぐ」
ほんの少し微笑んだ様に見えたその人が静かに目を閉じるのが、見えた。
「……嫌だ」
「おまえが、殺したんだ」
「ちがう、ちがうちがう!僕は誰も殺してなんて……!」
「じゃあ、見てみろよ。自分の手を」
いつの間にか、光は消えていた。
向こうに見えたもう一人の僕もいない。
おそるおそる、自分の手を見てみる。
目に入ったのは。
紅く濡れた手。雫の滴る、紅い手のひら。
「い、いやだ、う、うわあああ―――っ!」
逃げた。
走ってそこから逃げた。
遠くに行かなきゃ。
ここにはいたくない。
どこかに行かなきゃ。
いやだ。
忘れなきゃ。
だめだ、こんなの、見たくない!いやだ、いやだいやだいやだ!
「ほーら、やっぱり」
どこか嘲るような声が、背中を追いかけてきた。
+ + +
「夢の中の僕は自分が嫌いで、自分のした事から逃げて、全てを忘れることを望んでいました」
少年は言った。今にも泣きそうな瞳を抱えて。
「だけど、忘れられなかった。思い出しました。僕が、この手で誰かを殺したという事を」
何を言えば少年は納得するのだろうか。
それでも殺してないと、言えばいいのか。
それとも、今まであった事を、全て話せばいいのか。
「ただの夢だったらいい、と最初は思っていたんです。でも、一度思い出した感覚は現実を伴ってる。これは夢なんかじゃないって、僕の中で誰かが言ってるんです。だから、僕は思い出さなくちゃいけない。きっと、僕のために」
ビクトールの目に、きつく握りしめられ、白く色を失った少年の手が目に入った。手袋を外したその右手には、くっきりと黒い紋章が刻まれている。
『生と死を司る紋章』 ―――ソウルイーター。
通常手袋を外した所など滅多に見なかった事もあり、彼が負う事になった運命の起因であるその紋章を、ビクトールは言葉もなく見つめていた。死神が鎌を携えた姿に酷似したその形は、彼の負った宿命を、そのままに表しているようで。酷く、胸が痛む。その上、夢の中ですら、安らぎを得ることが出来ないというのか――。
「教えて下さい」
思い詰めた声をかけられ、ビクトールがはっと現実に帰った。フリックは腕を組み、苦い表情で俯いている。
これ以上の誤魔化しはきかない。
そう悟ったビクトールは、必要以上の負担をかけぬようにと、前置きから始めた。
「言っておくが、これはお前が悪いとかいう問題じゃない。誰が悪いわけでもない。本当に、仕方なかったんだ」
それを聞き、フォルテの顔が笑みの形に歪んだ。……酷く、辛そうに。
「『仕方なく』、僕は何をしたんですか?教えて下さい」
思わず目を逸らしたくなる程の表情に、ビクトールは目を伏せた。
「おまえは……」
+ + +
「で、話したのかい……?ぼっちゃんに、今までのことを全部」
クレオが少年の髪をそっと撫でながら尋ねた。
「いや」
「でも、頼まれたんだろう?」
「ああ。だが話し始めてすぐ、こいつは気を失うようにベッドに倒れ込んだ。最初の部分だけ、親父が帝国将軍だという話くらいしかしてない。だけどな、多分、何かを思い出しかけていたんだろうよ。じゃなかったら、今こんなにうなされている訳がねぇ」
ビクトールの視線の先には、目を覚まさない少年の寝顔。
「ぼっちゃん……。私達には、何も、出来ないんだね……」
「く…っ……!」
パーンも、拳を固めて唇を噛んで。思わず、少年から視線を逸らした。
その時だった。
「俺は、殺してやりたいと思ったんだ」
「!?」
少年以外の全員が、フリックを見た。
突如青年が吐いた、昏い言葉に反応し。
その視線を感じているのかいないのか、先程からずっと変わらず俯いたままで、フリックは言葉を紡いだ。
「俺は、オデッサが……オデッサが死んだのが、サンチェスのせいだと分かった時、誰が何と言おうと殺すつもりだった」
紡がれるのは、全く感情の感じられぬ声。
「俺は、大切な者が誰かの手によって奪われる憤りと悔しさを知ってる。そして、その憎しみが簡単に消えないことも」
誰も、何も言わない。
あのシャサラザードの事件以来、フリックの口からあの出来事に関して聞いたのはこれが初めてだった。思えば、少年が倒れてから、一度もその事を口にしていなかったのだ。
だが当然の如く、フリックの頭からその事が離れるはずもないのだ。
そこにいた人間は今更ながらに気が付いた。
少年に気を取られがちであった数日の間、フリックもまた、己の内の葛藤と戦い続けていたのだと。今こうして少年の側にあっても、少年のことを心配していても、変わらず胸には嵐が吹き荒れているに違いないのだと。
「俺には分かるんだよ、あの、ソニア・シューレンの言いたい事も、気持ちも」
僅かの間が空き。フリックは言った。
「こいつがグレミオを失った時、ミルイヒと対峙した時、何を思い、どんな葛藤があったかも」
少年がグレミオの最期の声を聞きながら、どれだけ取り乱していたかを、クレオもパーンも後になって聞いた。
拳を壁に打ち付け、棍が折れるほど叩き付け、髪を振り乱し、悲鳴にも似た声を上げ、ひたすらその名前を叫んでいた、と。
戻ってきた少年の拳は手袋をしていて尚、血を流し続けていた。
水の紋章でその傷を癒そうとしたクレオの腕さえ振り払い、一人部屋に籠もった少年が、翌日どんな思いで皆の前に姿を現したのか――。
「殺せばいい、と思ったさ。こいつにはその権利があった。だが、奥底で俺は思っていたんだ。怒りにまかせて仇を殺し、そして、修羅に落ち、リーダーの器ではない事を皆に知らしめてやればいい。おまえではオデッサの代わりになれない事を、今ここで証明すればいい、と」
全員が息を呑む。
何故、そんな話をするのか。
己の闇を告白するように、懺悔するかのように。とても、苦しげに。
だが、そんな周りの視線など感じていないように、フリックは顔を上げ、少年の顔を見て哀しげに微笑んだ。
「だけど、こいつは許したんだよな、結局」
そして立ち上がった。
閉め切っていた窓を開け、眼下に広がる湖を眺める。
湖から風が吹き上げ、フリックの前髪とバンダナを緩く揺らした。
「初めて分かったんだよ――あの時。オデッサの人を見る目は正しかった。俺は、悲しみと怒りに目を潰されて、本当のこいつを見ようとしてなかった。感情で動いてはいけないと、いつも言われていたのにな」
背中を向けたフリックが、強く剣を握りしめていた事に気付いたのは、ビクトールだけだった。
「どんな理由があったにせよ、人を殺したという事実に変わりない。そして、その事実は簡単に許しを乞えるような問題でもない。それは、俺達全員、いや、戦争という業火に身を置いた人間、全てに言えることだ」
一つ、息を吐く。
「だけど、人は人を赦せると、教えてくれたのはこいつだ。あの時、制止の声の他に、あの時の事を思い出さなかったら――俺は迷わず……この剣を突き立てていた」
静かな声でそう言った後、フリックが振り向いた。
「こいつは今、迷ってるんだろう。自分が自分でいていいのか、自分はここにあるべき存在ではないんじゃないかと」
そして微笑む。
「仕方ないよな。まだ、子供なんだ。迷いもする、間違えることもあるだろう?その時、俺達が取り乱してたら余計にこいつが不安になる。俺達大人は、焦ることなく、ゆっくり見守っていこうぜ」
一番、少年から遠かった筈の、少年を疎んでいた筈の人間から聞かされる言葉に、クレオは顔を歪ませた。
「フリック、あんた……」
「大丈夫だ、フォルテなら絶対」
力強く頷いたフリックに、彼らは頷くことで答え。ビクトールが、未だ夢に追われ続ける少年に話しかけた。
「フォルテ。全部一人で抱え込むな。早く醒めろ……その夢から」
「ぼっちゃん……」
クレオが少年の汗を拭き取り、またその手を握った。
「待ってますから。戻ってきて下さいね。私達の所に……」
【 慟哭 -04- 晒される闇、隠される光 /end. written by 紗月浬子 】