慟哭 -03-  繰り返される記憶
幻想水滸伝


 クレオが自分の爪先を睨み付けるような状態で大股に本拠地の階段を上がっていくと、カツン、という硬質な足音がすぐ近くで聞こえた。顔を上げると、何故か三人分ものシチューを乗せた大きいトレーを持っているフリックが、丁度階段室に足を踏み入れた所だった。
「なんだ、あんたか……」
 事情を知った人間だと言う事もあり、さほど気を遣う必要が無いと分かったせいか、緊張していた表情を微かではあるが緩めたクレオに、フリックが首を傾げ尋ねた。
「クレオ…何でこんな所に?あんたはパーンにリーダーの話をすると言ってたんじゃ……」
 そこまで言った所でクレオに視線で制され、慌てて口を噤む。
「す、すまん」
「気を付けるんだね。何処で誰が聞いてるか分からないんだ」
「ああ。そうだな」
 バツが悪そうに視線を落とすフリックに、気を取り直したクレオが問う。
「ところでフリック。あんた、そんな大荷物持ってまで階段使うことは無いんじゃないか? 折角便利な物があるだろうに、〈エレベーター〉とかいう」
 そう言って、階段の外、忙しそうに数人が立ち働いているフロアへと指を向けた。それに対し、フリックは苦手なんだ、と苦笑して首を振った。
「どうも、ああいった物は好かなくてな。それに、あんなもんに頼ってたら、足腰だって弱くなっちまう」
 でも。
 と、フリックは、階段を上がりつつ続けた。
「リーダーは、珍しがってやたら使いたがるよな。一緒の時は、無理矢理乗らされる」
 ふ、と笑ったフリックに、クレオも同じ様な表情を見せた。
「昔からそうなんだ。一風変わった物が好きでね」
「そうか」
 二人は、そんな話をしながら一歩一歩、階段を昇っていった。

 会話なら、他に幾らでも在った筈だ。
 誰もが知っている普段の少年を話題として上げるのは、きっと、互いに余裕が全く無かった所為なのだろう。要するに、其れ以外の思考が働かなかったという訳だ。
 いや。或いは、普段の彼が早く戻ってくるようにとの祈りが込められた、無意識の行為だったのかもしれない。

 パーンの部屋の前でクレオが立ち止まるまで、二人は神経を張り詰め、何でもない顔をしながら、その実慎重に言葉を選び、少年の話をし続けていた。
「それじゃ、私はパーンに話をするよ。あんたはそれを部屋まで持って行ってくれるかい?」
 半分だけ身体を向けてドアノブに手を掛けたクレオに、フリックが聞いた。
「それは構わないが…本当ならあんたが行きたいんじゃないのか?」
 フリックの言葉に、クレオは明らかに瞳を曇らせ、視線を逸らした。
「……行きたくない訳じゃないよ。少しでもぼっちゃんの側にいて、私に出来る事があれば、何でもして差し上げたい。だけどね、」
(辛いんだ。まだ。今の彼の側にいる事が)
 飲み込まれた言葉が示す所の意味を、敏感に察したフリックが、分かった、と頷いた。
「じゃあ、又後でな」
「ああ、後でまた」
 クレオは大きく息を吐き、パーンの部屋のドアを叩いた。

 まだ、自信がなかった。
 彼の前で、何でもない振りをすることと、安心させられるだけの笑顔を向けること。
 早く思い出して欲しい。忘れていて欲しくない。そう願ってしまう気持ちを、抑えること。

 幼い頃からずっと、可愛い弟のように思ってきた。例え主君の息子でなくとも、この気持ちには変わりないと自負もしていた。一緒に過ごしてきた長い時間。何にも代え難い数え切れない程の想い出と、同じ数だけ胸に刻まれた笑顔。
 その全てを彼が忘れ去ってしまっているという事実。それが、例えようもなく哀しく、苦痛だった。
 だから。自分が彼の所へ行く、その役目をしなくて済んだことに、確かに安堵を覚えていたのだ。少年の側にいる事を苦痛に感じる自分に、吐き気にも似た嫌悪感を抱きながら。
「パーン、入るよ」




「来てたのか」
「ああ、さっきな」
 一足先にこの部屋に戻っていたらしいビクトールにフリックが声を掛けながら、後ろ手にドアを閉めた。パタン、という静かな音が響く。
 この扉のこちらと、向こう側では、全くと言って良い程世界が違う。
 何も覚えておらず、ただ静かに眠る少年と、その少年をリーダーとして祭り上げ、今にも帝国の歴史を終わらせんとする多くの者達。
 本来一つであった目的が、今は一つになり様も無い。
 また、一つになる日が来るのか、それは、今の彼らには知りようもなかった。

「……すっかり寝入ってるようだな」
 少年の寝顔を見て、持っていたトレーをテーブルの上に置き、近くの椅子に腰掛ける。部屋の中央に置かれたベッドの脇にある椅子に座ったビクトールとは、丁度向かいになる形だ。
「ああ、リュウカン先生にも来て貰ってたんだが、この通りなもんでな、とりあえず一度引き取ってもらった」
「そうか」
「軽く見ただけだが、体の衰弱は危険な程じゃないとさ。メシ食えば治まる程度なもんだろうって言ってたぜ」
「体は、か……」
 血の気のない、白く、薄くなった頬。
 たった数日の間で、少年は確実に面変わりしていた。これが体の衰弱による物だけだとは、到底思えない。
「そうだ。だが、幾ら体に食いもんを入れようと、自らを生かそうという意志がなければどうしようもない」
「―――どうなるんだ」
「……おまえの想像通り…だな、きっと」

 記憶を消して尚、自らの存在が許せないのか。
 それ程までに、少年の心の闇は深くなっていたのか。
 ただ単に記憶を消すだけでは事足りず、自らの存在までをこの世界から消してしまおうというのか――。

 ただ静かに眠っているように見える少年は、夢の中で、一体何を描いているのだろうか。
 男二人はその寝顔を痛ましげに見つめた。
 幾らその現実が辛かろうと、そこから目を背けるのは、本来リーダーとしてのあるべき姿ではない。だが、それでもいい。今だけであるならば。
 今だけである事を願い。
 ここに戻ってきてくれる事を願い。
 そして祈らずにはいられなかった。

 せめて、その夢が安らかであればいい、と。

「……ところでフリック」
 どれくらい経ったろうか。不意にビクトールが声を掛けた。
「なんだ」
「おまえが入ってきた時から気になってはいたんだけどよ、何なんだよ、あれは」
 そう言って指差したのはテーブルに置かれたトレー。少年の食べる分だけであるはずのそれには、何故か三人分もの皿が乗せられている。
 フリックがそこに目を遣ってから、ああ、と答えた。
「何日も食ってないから、もしかすると一杯じゃ足りないかと思ってな。多い分には残飯係もいる事だし構わないだろう」
「……俺のことか? その残飯係ってのは」
「他に心当たりはないな」
「……なるほど」
 頷き、その後少年に小さく声を掛けた。
「フォルテ。早く起きねぇと、俺が全部食っちまうぞ」
 そして、あながち冗談でも無いらしい視線を皿の中身に向ける。
「馬鹿か」
 呆れたようにフリックが呟いた。

 それから暫く、二人は何も口にせず、ただ黙って思い思いの場所に視線を投げていた。その中で、不意に少年が小さく声を上げた。
「……っ」
 真っ青になった顔には玉の汗が浮き、苦しげに声が漏れている。
「フォルテ!」
「フォルテ、大丈夫か?」
 二人が急ぎ駆け寄って声を掛けると、フォルテはうっすらと目を開けた。
「…あ、僕……?」
「どうした?悪い夢でも見たのか?」
 焦点が定まらず宙を泳いでいた瞳が、やがて、心配そうに顔を覗き込んだ二人を認め。少年は目を瞑り、首を振った。
「いえ…何も。何も……覚えて、いません」
 哀しそうにそう答える様子は余りにも弱々しく、これまでの凛としたイメージなど、欠片も残ってはいない。
 無理に聞き出すことも出来ず黙った二人に恐縮したように、顔半分を布団に隠して、少年が言った。
「…すみません。僕、眠ってしまったんですね……」
 そんな様子に痛ましさを感じながら、二人は首を振った。
「何言ってるんだ、気にすんな。疲れてる時は体が自然に寝ちまう様に出来てるんだ」
「そうだ、フォルテ。腹減ったろう。飯持ってきたから食えよ」
 フリックが、トレーからとりあえず皿二つを除け、一皿だけになった皿をトレーごと少年の前に持って行く。
「あ、はい、ごめんなさい。ありがとうございます」
 慌てて起き上がろうとする少年の背を支えてやり、ビクトールが言った。
「別に何も謝る必要はねぇし、そんなに恐縮する必要もねぇぞ。お前が俺達の事を覚えてなくても、俺達にとっては大切な仲間なんだからな」
「―――はい」
 少し間が空いての答え。
 納得がいくわけはないだろうということは、二人にも分かっていた。何も覚えていないのだから、当然のことだ。
 だが、それでも少年は素直に頷き、渡されたトレーから、少し冷めたシチューを食べ始めた。

「ごちそうさまでした」
 思ったよりも早く、皿の中身を綺麗に平らげた少年はそう言った。おかわりは、と聞くと、それはいらないです、と返事が返った。
 数日間眠り続けただけでなく、精神疲労も重なっている身体だ。さすがに何倍もの皿を空にする余裕はないのだろう。
 だが、想像していたよりは弱った様子もなく、しっかりとした声で話す少年に、ビクトールもフリックも安心していた。
 先の様子も気にならないわけじゃないが、今は特に辛い様子も見せていない。
 これならば。
 元の通りになるのは、そう、遠い話ではないかもしれない、と。
 そう安堵していたが故に、次の言葉に、咄嗟に対応出来なかったのかもしれない。少年の、思いも寄らない台詞に。

「僕は、誰を殺したんですか?」

 彼は、そう言った。


【 慟哭 -03-  繰り返される記憶 /end. written by 紗月浬子 】