慟哭 -02-  三者三様
幻想水滸伝


「それは、本当ですか……」
 執務机に肘をついた軍師は、僅かの間、組んだ両手の上に額を預けた。
 見るからに顔色も悪く、辛うじて身体を起こしているという感が否めないにも関わらず、横になろうともしない軍師から視線を逸らし、ビクトールが苦く頷いた。
「ああ……。何も、覚えてない。自分の事も、俺達の事も」
「それは………」
 マッシュの額に深い皺が刻まれたが、それがビクトールの言によるものなのか、痛みからくるものなのか、ビクトールには判断出来なかった。
「すまねぇな……。あんたがこんな時に」
「あなたのせいではない……あなたが、気に病む必要は…無いですよ……」
 深い息の合間から零れる声は、意志の力のみでは隠しきれない苦しさを顕わしていた。
 予想もしなかった相手に負わされた、即死に至らなかったのが不思議な程の、深い傷。軍師の様子から、一刻の猶予も無い事が手に取るように分かる。

 だが、今の状態では。
 今の少年では――。

 ビクトールの表情に気付いたように、マッシュが微かに笑んだ。
「……私の事は大丈夫です。こう見えてもしつこい性分ですから御心配なく。今は、フォルテ殿が回復されるのを待つしかないでしょう。リーダー無くしてこの戦を終わらせる事は不可能です。誰もが、あの少年の向こうに……未来を見ている」
 そこまで言って押し黙ったマッシュと、返事をせずに腕を組み、壁に背を預けて目を瞑ったビクトールとの間に、重く長い沈黙が流れた。

 既に。
 何が起ころうと、引き返せない所まで来ている。
 それが、現実。

 ―――この期待が、彼を今の状態に至らしめた一因であると理解っていても、今更後戻りをする事など、出来ようはずも無いのだから。

 やがて、マッシュが席を立った。
 彼の背中はこんな状態であっても毅然とした佇まいを崩すことはなく。止めるべく声を掛けようとしたビクトールは、結局、『座ってろ』と言いかけた言葉を喉の奥に飲み込んだ。
「リュウカン先生に……フォルテ殿をお願いします、と。畑違いかとは思うが…他に頼れる方もない。そして、それ以外には絶対に他言無用で……」
 それ以上言わなくていい、と、ビクトールは、振り向いたマッシュの声を制した。
「分かってる。その場にいたのはクレオとフリック、それと、俺だけだ。まあ…クレオがパーンには話すと言っていたが、それだけは、俺達が止められる筋合いじゃねえしな」
「……ええ」
「あんたはゆっくり休んでいてくれ。…ってまぁ、そうも行かないかもしれないけどな……」
 頭をガリガリと掻きながら、自嘲的な笑みを零す。
「残念だが、今俺達に出来る事は極限られているな。せめて兵の志気を落とさないように、普通にしている事くらい、か」
 その、らしからぬ表情に、マッシュは苦い思いに駆られながら、頷いた。
「フォルテ殿を、宜しくお願いします」



「……ソニア様。フォルテ様が、自ら望んでテオ様を殺めたと、本気で思ってらっしゃるのですか?」
「裏切り者の言葉など、聞く耳は持っていない」
 そう言いながら真っ直ぐにクレオを見返す瞳の中には、今ここにいない少年への優しい感情は、欠片も無かった。
 それを感じ取ったクレオは、牢の鉄柵を痛いほどに握り締め――身体の内から沸き上がってくる感情を、声に変えて絞り出す。
「あれだけ父親を尊敬し、慕っていた少年が――何の苦痛もなく、実の父親を手に掛けたと思ってらっしゃるのですか」
 クレオの声が戦慄く。
「彼が血を吐くような思いで決断した事を、父の亡骸を抱き、誰よりも苦しんだのを、貴女は一番良く分かってる筈ではないですか?!フォルテ様の母親になられる決心をされた、貴女が!」
「黙れ」
 低い声。怒りとも哀しみともつかぬソニアの声。
 その瞬間、クレオの瞳に浮かんだのは憎悪の光だった。
 先程、ビクトールに、そしてフリックに向けられた昏い色を宿し、声は悲鳴じみたものへと変化を遂げる。
「考えては下さらなかったのですか!まだ、幼い少年が、どれだけ苦しみ抜いてここまで来たのかを!」
「……私に、そこまで考えてやる義理はない」
 ソニアは、簡潔に言い放った。
 クレオの手が震える。
 冷静な時であったならば、その言葉の奥にあった微かな感情に気付いたかもしれない。だが、今クレオに冷静な判断をする事など不可能だった。その言葉が、少しのクッションもなく、真っ直ぐに突き刺さる。
「……ソニア様、私は貴女が憎い。貴女が、テオ様を手に掛けたフォルテ様を許せないと仰ったように、私はフォルテ様の心をその言葉で斬りつけた貴女が許せない」
 ソニアが微かに目を眇め、吐き捨てる様に言った。
「言葉だと?言葉で人を殺せるか?フォルテはテオ様を、自らの手で殺したのだろう!今更、綺麗事を言うな!」
 二人の女性が、冷たい格子越しに火花すら散らすように睨み合い。
 やがて、片方が力を無くしたようにしゃがみ込んだ。
 その唇からは、渇いた声が滑り落ちる。
「……フォルテ様は、今――フォルテ様ではありません」
「何を――言っている?」
 突如感情を失ったようなその声に、返すソニアの言葉にも戸惑いが混ざった。
「……今のフォルテ様には何もありません。テオ様や私達と過ごした十数年の日々も、テッドくんに出逢った事も、ここに至るまでの経過も、御自身が成してこられた事も。私達の顔も、存在も。そして、御自分の事さえも……」
 クレオの言葉の意味が分からない訳ではあるまい。事実、彼女の瞳には一瞬ではあるが、驚愕の色が走る。しかし、薄く開かれたソニアの唇は、僅かに空気を震わせただけで音を成すことはなかった。
「フォルテ様は……今、何処にもいません。いえ、心の奥底にはいらっしゃるでしょうか。幼い頃、テオ様とグレミオと一緒に遊んだ頃に、辛い事など何もなかった頃に戻って……」
 クレオの顔が歪む。
 透明な雫が、床に小さな染みを作った。
「フォルテ様は、御自分を責めて、責め過ぎて――とうとう、御自身の存在を切り捨てられました。忘却、という刀で」
 ソニアが、クレオに見えない位置で、片方の手を握り締めた。
「解放軍の希望だったフォルテ様は、今何処にもいません」
 そこまで言うと、クレオは立ち上がった。 顔を上げた拍子に流れる幾筋もの雫を乱暴な動作で、ぐい、と拭い。元来た方向へ顔を向け、大きく一歩踏み出してから、辛うじてソニアの耳に届く程度の低い声で呟いた。
「私達がお育てしたぼっちゃんは、何処にもいないんです」

 クレオが去った後、ソニアは床に目を落とした。
 石の床に吸い込まれた水滴が、確かに今、ここに人が居たのだと主張する。
「……フォルテ」
 そして彼女は、彼女だけに聞こえる声を、もう一度発した。
「テオ様……」



「あー…と、その、シチューを作って欲しいんだが……」
「ああ、お安い御用さ。レスターがいつもたっぷりと作ってあるからね。すぐに持ってこられるよ。何人分必要なんだい?」
 元は宿屋の女将だったという経歴から、解放軍本拠地の母親役として台所事情なども切り盛りしているマリーの所を訪れたフリックは、どんな時でも変わらない暖かい雰囲気を感じ、どことなくホッとしつつ言った。
「一人分でいい。…あ、いや、やっぱり二人、いや三人分頼む」
「何なんだい?でも分かったよ、今用意するから暫くそこでお待ちよ」
 視線を中空に向け、頭の中で考えながら幾度も言い換えるフリックを可笑しそうに笑ってから、マリーは厨房の奥へと歩いていった。
 それを見送ったフリックは、溜息混じりに独り言を呟いた。
「――大体、俺がこういう役目ってのは向いてない気がするんだが……。悟られないようにと言っても……な」
 何しろ、頭に馬鹿が付く位に正直者のフリックのこと。内密に、とか秘密裏に、などという事は不得意中の不得意だ。思わずと言ったぼやきが出るのも無理はない。
 マリーに会い、そこに漂う雰囲気にホッとしたというのも事実だが、そんな一瞬の脱力程度ではカバーしきれない程の精神疲労。
 この本拠地に寝起きしている者は大抵、ここにある食堂で食事を済ませる。別の場所で食事を取るのは、怪我をしているか、余程具合が悪いかして起き上がれない者に限る。誰に持って行くのか、と聞かれた場合、何を言えば無難だろうか、と考えてもいた。
 ここまで来る間にも、何かおかしい動作をしてはいないか、表情に出てはいないだろうかと、かなり神経をすり減らしながら来たのだ。まして、喋るとなれば声音や口調にも気を付けねばならない。
 たったあれだけの会話を交わしただけで、フリックは既に余力無い程疲れていた。
 再び大きく溜息を付き、腕を組んで壁に寄りかかる。
 目を瞑ると、瞼の裏に先程の光景が浮かんできた。

 信じられなかった。
 あのフォルテが記憶を無くすなどという事は。
 だが、信じられようと無かろうと、事実は事実である。

 全く知らない人間を見る際の目。
 僅かながら、怯えの走る表情。
 ―――こいつは、誰だ――?
 あの時の驚愕は、言葉に出来ない程のものだった。

 初めて顔を合わせ、会話をした時に抱いた印象は、『いけ好かない子供』だった。
 歳の離れた大人を前にしても、全く物怖じしない瞳と、言葉。
 大貴族の一人息子であり、父親が帝国大将軍であるという自負から来る、根拠のない自信だろうと思っていた。そんな物は、物の役にも立たない。すぐに底が知れる、と。

 二度目の印象は、更に悪化していた。
 第一印象からして良いとは言えなかった子供が、オデッサの代わりに其の場所に居る事など、到底認めることは出来なかった。
 彼女の代わりなど務まるわけがない。それを見極め、少年をリーダーに据えた連中に、それ見た事か、と無謀な人選をした過ちを突き付ける日が来ると、信じて疑わなかった。
 その為だけに行動を共にする事を決めたと言っても過言ではない。

 だが、今は違う。
 いつしか自然に認めていた。認めざるを得なかった。
 ただの、甘やかされた子供ではなく。自分とは違い、リーダー足る器なのだと、否応なく気付かされたから。

 その少年が先程見せた表情の中には、知っていた筈の面影を彷彿とさせるものは何もなかった。
 あの場所に居たのは、幼く、ただただ頼りない少年。帝国将軍の息子であったという事実さえ、彼の中には無い。
 本当に同じ人間なのだろうかと愕然とする程、あの少年は、見知った少年ではなかったのだ。
 人は生来、環境の中で徐々に自我を育て、それはそれぞれの環境に大きく左右される。その、長い時間をかけて会得して来た「自分」が無いのだ。
 そう考えれば、別人であっても、およそおかしくはないのだろう。
 しかしそれは。彼のリーダーとしての顔の奥に、まだ弱く、庇護の対象である小さな子供が隠れていたのだという事実に他ならず。
「情けないな……。子供一人、守れないなんて………」
 端正な顔を歪め、自嘲的に呟かれた言葉は、幸い、誰の耳にも届く事は無かった。


【 慟哭 -02-  三者三様 /end. written by 紗月浬子 】