夢の終わり
La corda d'oro

 嘘みたいな、夢みたいな出来事。
 それが、私にとっての学内音楽コンクールだった。

 時々向けられるようになった優しい瞳が、涙が出そうになるくらい嬉しくて。
 身勝手な期待を募らせる自分の浅はかさを、嫌悪した。

「ねえ香穂、ヴァイオリンやめるって本当?」
 何度目になるか分からない友人からの問いに、私はただ無言で頷いた。
「もったいないね、折角色々弾けるようになったのに」
 でもそれは、魔法のヴァイオリンの力なんだよ。
「それに、ヴァイオリン・ロマンスの再来?なんてみんな噂してたんだよ」
 それだって、全部あのヴァイオリンがあったから。
「あとは告白するだけじゃない、早く言っちゃいなよ」
 お願いだから、勝手なことばかり言わないで。
 叫び出したくなる気持ちを堪えて、私は笑った。
「そんなわけ、ないじゃない。だって、相手はあの月森くんだよ?」
「でも、よく一緒にいたじゃない。帰りだって一緒だったし、練習も」
「そんなんじゃないよ。彼はただ、出来が悪いライバルを見過ごせなかっただけだよ」
「そうかなあ…」
 納得いかない、とばかりに首をひねる友人に、私はことさらに微笑んで見せた。
「そうだよ。だから、この話はおしまい」
「…もったいないね」
 彼女は、さっきと同じ台詞をもう一度繰り返して、溜息をついた。


 一人で歩く家までの道は、やけに遠く感じた。
 コンクールの途中から成り行きとはいえ、男の子と毎日一緒に帰っていたなんて、つい先日までのことなのに、夢だったんじゃないかと思える。
 なのに、玄関のドアを開ける時間が数時間違うだけでも違和感が伴うんだから、習慣っておそろしい。

 自分の部屋に戻って、制服を脱ぐ。部屋着に着替えて、ベッドにぽすん、と横になった。

 ―――ヴァイオリンを、やめる?

 信じられない、といったように見開かれた瞳と、険のある口調。
 コンクールの最終セレクションが終わった後、控え室を出た所で一緒になった彼に告げた時の顔は、多分ずっと忘れられないだろう。
 一番最初に会った時、その後にも何度か見た事のある、冷たい表情や口調とはまた違っていた。
 眉間にきつく皺を寄せて見下ろされ、口唇を噛んだ。
 裏切られたとでも言うような傷付いた彼の顔を見たのは初めてだった。

「君は、音楽の世界から逃げるのか?」
「…逃げるなんて言い方、しないでよ……」
「だが実際にそうだろう。君は今、俺に言った。ヴァイオリンをやめる、と」
「…言ったけど」
「なぜだ?なぜ、ここまで来てやめるなどという結論を出した?」
 射竦められるような視線の厳しさに、耐えきれなくなって下を向いた。
「…だって、私のは実力じゃなかったから」
「たとえそうだとしても、君は最後までやり遂げた。しかも総合入賞という、誇っていいだけの成績でコンクールを終えた。君の音楽は人に受け入れられるだけの力を持っている。それは、君自身が音楽を愛していたからじゃないのか」
 音楽を愛していた?
 私が?
「……違う」
「…日野」
 戸惑いの中に咎め立てを感じるような声。顔は上げられなかったから、表情は分からない。俯いたままで、私は大きく首を振った。
「そんなんじゃない、ただ、私は…っ!」
 ただ、私は。
 最初はただ、リリに言われて、リリに頼まれて、義務のようにヴァイオリンを弾いていた。
 ずっとそうだったとは言わない。
 好きだと思わなかったわけではない。愛していたかもしれない。
 でも。
 だけど。
 それ以上に。
「違うの、音楽を広めるとか、そんな立派なことを考えてやってきたわけじゃない…!」
「日野!」

 それ以上、彼の前にいることが出来なくて。
 逃げるように帰ってきてしまった。
 追いかけてくる声が耳に残って、頭の中でいつまでもハウリングを起こしていた。
 今でもそれは、棘のように突き刺さっている。

 そう、私は。
 ただ、彼の側にいたかった。
 彼に認められたかった。彼の瞳に映りたかった。

 彼が、私の音を聴いてくれたから。好きだと、言ってくれたから。
 初めは冷たいだけだった彼が、段々と私を認めてくれるようになり、彼の方から話しかけてくれるようになったことが、とても嬉しかったから。

 一番近くで、彼の音を聴いていられることが、嬉しくて。
 一番近くで、彼の微笑みを見ていられることが、幸せで。

 不純な動機だ。自分でも、嫌になるくらい。
 そんな気持ちで、彼の愛するヴァイオリンを弾いていた自分が、許せない。
 こんな気持ちで弾いていたことを、知られたくない。

 最終コンクールの直前にリリがくれた楽譜は、家に帰って破り捨てた。
 床の上に散っていく白い紙片が、涙腺を刺激した。

 ごめんね、リリ。
 私は、あなたの期待に応えられなかった。
 一人の人を好きになって、どうしようもなく惹かれて、あなたの求めていた目的とは全く違うもののために、私は弾いていた。

 向けられる視線の温かさと、不器用に紡がれる優しい言葉。

 それが全て、あのヴァイオリンに向けられたものだと、気付かなければ。
 浅ましい自分の恋心に気付くことがなければ。

 私はまだ、彼の側にいる事が出来たのだろうか。
 ヴァイオリンを、弾いていたのだろうか。

 ――分からない。
 けど、私は気付いてしまった。

 彼を想う時、他の全てを投げ出してもいいとすら考える浅はかな女である自分。
 どんなに願っても、彼は私自身ではなく、私を通した音だけを欲していること。
 彼の優しさは、ヴァイオリンを弾かなくなった私には、一片たりとも向けられないだろうこと。


 ベッドから降りて、立ち上がる。
 部屋の隅に置いたままのヴァイオリンケースを、クローゼットの奥深くにしまいこんだ。不意に目撃して胸が痛くならないよう、布を被せ、他の荷物を上に置く。
 捨てることは出来ない。
 リリから貰った、想い出の品だから。

 だけど、思い出すのはずっと先でいい。
 今は、早く忘れよう。

 今、心の殆どを占める彼への恋心も、いずれはきっと忘れられる。
 忘れなくてはいけない。

 だってもう、私に与えられた夢の時間は―――終わったんだから。

【 夢の終わり /end. written by riko 】