月夜の晩に
La corda d'oro

 ピアノを弾くのは大抵、ヴァイオリンの練習の合間だ。しかしピアノに触れている時間も、総じて計算すれば、かなり多くなるのでは、と思う。勿論、あくまで専門はヴァイオリンであり、ピアノを専攻している者とは比べるべくもないが。

 意識して少しタッチを柔らかめに、ショパンのノクターンを奏でる。甘い旋律が有名な、第二番変ホ長調。
 優しい調べが、月明かりだけに照らされた部屋に溢れ出した。
 こんな夜には、きっとこの曲が相応しい。

『ヴァイオリン弾くことは、趣味じゃないってのはまあそうだよね。分かる。けどその趣味まで音楽ってんだから凄いよ』
 感心半分、呆れ半分に言われた香穂子の言葉を思い出し、頬がゆるりと解けていく。


 ピアノは、おそらく一般に最も浸透している楽器ではないかと思う。
 音楽科の生徒達のように、いつかそれを生業とすることを目標とし、多くの時間を練習に費やしている者はさほど多くはないかもしれない。けれど、幼い頃から音楽に触れる手段として、手習い程度に接している者ならば、それこそ相当数になるのではないか。
 小学生の頃、周りにピアノを習っている、エレクトーンを習っている、という子供は割と多かったと記憶している。ヴァイオリンを習っている子供は、クラスに月森一人だったが。
 そういった意味でも、鍵盤に慣れ親しんでいる者は少なからずおり、また、月森のように他の楽器を専門としている者でも、多少ならばピアノを弾くことが出来る者はかなりいるのだ。

 あれは、コンクールが終わって一月あまり。彼女が初めて家に遊びに来た時のことだった。
 部屋に置いてあるグランドピアノを見て、香穂子が目を丸くしていたのをハッキリと覚えている。
「母が昔使っていたものだ。今は他の物に買い換えて、それは下の部屋に置いてある。だがこのピアノにも愛着があるし、出来たら時々は弾きたいというから、俺の部屋に置くことになって」
「へー…。確かに趣味だとは聞いてたけど」と言いながらピアノの椅子に座り、一番に言ったのが、最初の台詞だ。次いで溜息混じりに、「それにしても…高校生の一人部屋にグランドピアノって辺りが既に、一般家庭とはかけ離れてる」
 最初家の前に立った時も、門扉の前に立ち、家の全観を見上げた香穂子は、ポカンと口を開けて絶句していた。少々間抜けなその顔ですら可愛いとは思ったものの、とりあえず礼儀として、香穂子、と声をかけると、次に言ったのがこうだ。
「こんのブルジョワおぼっちゃまめ」
 そんなことはない、と言っても呆れたように「自覚しろ」と言われてしまえば、苦笑するしかなかった。

 つくづく、香穂子には勝てない、と思う。
 彼女には、嘘がない。言葉を飾ることもなく、思ったことをありのままに口にするから、普通に考えれば、敵を作ってもおかしくないと思う。
 彼女と一番最初に話した時に言われた台詞は、未だに忘れられない。
 確かに、自分の態度が人にどんな感情を与えるのか、それまで深く考えたことはなかった。けれど、初対面の相手にいきなり「性格が悪い」と断じられたのも、初めての経験だった。
 あの時は腹が立ったものだが、それも長くは続かなかった。
 それと同じ様に、彼女の言葉の裏には悪意も敵意もないと、多分誰もが分かるのだろう。周りに友人も多いし、コンクールに出てからは、音楽科の男達の中でも密かに人気があるらしい。普通科からの参加者という事で最初は敵視されていたにも関わらずそうなのだから、普通科においては言わずもがな、と言った所か。
 しかしそれは、たとえるなら火原先輩のように、さばけた付き合いというか、男女の別なく友人として、といった人気なのではないかと思う。
 勿論、その中に彼女に恋している男がいないとも限らないが(あまり楽しい想像ではないのであえて考えないことにする)、見ている限り、殆どの人間が友人どまりで済んでいるのは、彼女のあの性格が多分に影響していると見て間違いないだろう。
 長い時間を共に過ごしていると自覚している月森とて、香穂子の口の悪さと突飛さには未だ、時々困惑させられるのだから。
 それは初めてこの部屋に香穂子が訪れたあの時も、例外じゃなく―――。


「ああ、そういえば志水くんもピアノ弾けるって言ってたっけなあ」
 ピアノの蓋を開け、ぽん…ぽん…と子供のように人差し指で鍵盤をでたらめに押さえる香穂子が、思い出したように口にした。
「そうか、志水くんも」
「うん。けど、なんだろう。イメージ的に、蓮とか土浦くんが弾くピアノとは違う気がするけど」
 相変わらず、適当な音を出しながら顔を上げた香穂子の言葉で、眉間に皺が寄ってしまう。腕を組んで、少し険のある視線を落とす。
「……ちょっと待ってくれ。それは、俺と土浦が同系列、ということか?」
 しかし香穂子はそれを物ともせずに笑った。
「あーなんていうの?愁情系って言ったら響きはいいけど。ほら、気分が滅入った時に聞くとさらに滅入りそうな曲。得意でしょ?」
 愁いに満ちた旋律の曲を好んでいるのは自覚している。土浦も、そういった曲が得意なのは聴いていて分かる。しかし、物には言い様というものがあると思う。
 今更とは思いつつも、思わず溜息を付いた。偉大な作曲家達が残した曲を、気が滅入りそうな曲、と表現するヴァイオリニストはかなり問題ではないだろうか。
「香穂子、君の言葉には配慮というものが欠けていると思うが」
「バッサリ言葉を切り捨てる蓮に言われたくない」
 一瞬のためらいもない切り返し。逆に、月森の方が言葉に詰まってしまった。
「…それは、だが」
「ま、ね。かなり言葉が足りなかったりするけど、不器用なだけで、結構相手を思いやっての言葉が多いし、他人に対するより自分に対する方が何倍も厳しいの知ってるから、腹立たないけど、大抵は」
 ニッと笑った香穂子は立ち上がり、月森の腕を引いて、ピアノの前に座るよう促した。
 香穂子に言われた台詞が恥ずかしくて、顔を逸らすようにして促されるまま座る。

 わざわざ、大抵は、と付け加えたところを考えると、時々は腹を立てている、ということだ。今までの遣り取りで、確かにいくつか思い当たる件はあった。
 しかし、下手に気を遣った場合、余計に腹を立てて烈火の如く怒り出すのを知っているから、多分思ったことを素直に言った方がまだましなのだろうと思っている。
 香穂子に嘘や建前は通用しない。月森自身、元々、それが出来るような性格ではないということは自分でも分かっているから、それに関してはかえっていいのだろうけど。
 意見の相違でぶつかることは何度かあった。これからもあるだろう。
 だがそれは、決してマイナスになることではないと思う。そうやって少しずつ互いの距離を縮めていけること、互いの理解を深めていけることが、何よりも嬉しいことなのだから。

 月森がそんなことを思っていることを知ってか知らずか、香穂子はあっさりと少し前の話題に戻した。ピアノの横に立ったまま、興味深そうに鍵盤を見つめて口を開く。
「志水くんの場合、なんだろう、バッハとか、そういうのが似合う気がする。バロック音楽っていうんだっけ?」
「ああそうだな、分かる気がする。彼なら、バッハの曲が持つ宗教的な意味合いをもしっかりと表現しそうだ」
「後は…ベートーヴェンとか、モーツァルト…ハイドンも、そう?」
「その三人は古典派だな。バロックなら、他に有名なのは、ヘンデルやヴィヴァルディ、あとはテレマンもそうだ」
「あーなんか聞いた事あるようなないような。ヴィヴァルディの『四季』は小学生の頃音楽の授業でやったけど」
 ごくごく基礎の音楽史だが、こういったことは、普通科の香穂子にはあまり縁がなくて当然だろう。分からなくても仕方ないと思うのだが、少し情けなさそうに眉を下げ、溜息をついた。
「少しは勉強したつもりだけど、まだまだ分かんないのばっかり。ちっくしょー、絶対に追いついてやるからね!」
 びし、と指を突きつけられ、苦笑混じりにその手を取る。
「君がその気になったら、出来ないことなどないような気がするから不思議だな。期待している」
「そうそう期待して。って、話戻すけど、なんか、蓮とか土浦くんは、バッハってイメージじゃないんだよな」
 片手を繋いだまま。香穂子はもう片方の腕でピアノの上に頬杖を付き、んー、と考え込む様に言った。
「…そうか?」
「実際弾く?」
「いや、あまり…」
 やっぱね、と頷く香穂子が得意そうに眉を上げる。そのあまりにもらしい表情に、笑みが浮かんだ。馬が合わない相手と同列に扱われるのはあまり歓迎出来ることではないが、土浦の演奏が評価に値するものだということは、月森も認めていた。
「土浦は確か、ショパンが得意だったな」
「うん。コンクール中にも良く弾いてたね。私、あれ好きだな。なんだっけ、幻想…えーっと」
「幻想即興曲?」
「そうそう、それ。蓮、弾ける?」
「とりあえずは。土浦のレベルを期待されては困るが」
「うん期待してない、最初から」
 最初に言い出したのはこちらだし、確かに期待されては困るのだから、そうか、と頷くしかない。しかし何故こうまでストレートに口に出来るのだろう、とある意味尊敬の念を抱く。
 知り合った当初はこの物言いに腹を立てることも、多少ならず痛みを覚えることもあったが、慣れというのは恐ろしい。条件反射的に溜息は出てくるものの、それ以上でも以下でもない。いっそ清々しくすらある。

「…じゃあ、弾こうか」
 ショパンなら割と良く弾く。その中でもこの曲は月森自身も好んで弾いていたから、楽譜がなくても指が覚えている。指慣らしに鍵盤をざっと押さえていくと、香穂子が小さく溜息をついた。
「どうかしたのか?」
 顔を上げて聞くと、ううん、と少し驚いたように目を見張っている。
「や、なんか指の動きがすごいスムーズで。んー、でもそういえば、ショパンを引きこなすのは難しいって、森ちゃんも言ってたっけ」
 コンクールで伴奏を担当していた彼女ともすっかり仲良くなったらしく、こうやって時々、話にも出てくる。
「それに前、土浦くんに楽譜見せて貰ったことあるけど、私なんかもうサッパリだったしなあ。ま、それは当たり前にしても、なんかちょっと見くびってたかも。すまん」
 顔の前に片手を立てて、香穂子が言った。
 まだ一曲も弾いていない内から、単なる指慣らしだけで感心されても困るだけだのだが。しかも、期待しないでいてくれたままの方が、プレッシャーもかからないで済む。それを感じるほどの腕ではないと、自覚してはいたが。
 曖昧な笑みで誤魔化して、鍵盤に指を下ろす。

 幻想即興曲は、五分ほどの短い曲だ。
 香穂子はコンクール中、自分の弾くヴァイオリンの曲で手一杯だったろうし、そのあとも、ヴァイオリンに関する知識、音楽全般の知識を入れることが最優先だったのだろう。
 音楽科とは違い、普通科の授業に音楽に関するものなどないから、空いた時間を使うにも限度がある。ただでさえ、放課後は下校時刻ギリギリまでヴァイオリンを弾いているのだ。
 この曲も、土浦が弾いたのを聴いて好きだと思っただけで、通して聴いたことはなかったらしい。一分半に編曲されたものとは違うフレーズに、感心したような溜息が聞こえてくる。
 最後の一音を弾き終えた所で、盛大な拍手に迎えられた。
「ちょっとなによ、蓮、すごいよ、上手い!」
「あ、ありがとう……」
 手放しの讃辞に、居心地が悪くなる。趣味の域を出ていないと分かっている演奏を褒められるのは、ヴァイオリンを弾いて喜んで貰えた時のものとは明らかに違う。
「すごい音が綺麗。こんなに上手いなんて、想像してなかった、びっくりした!」
 それなのに、更に香穂子はそう言葉を繋いでくれるから。
「しかし、俺のはあくまで趣味の域だから。そんな風に言って貰える程のものじゃ」
「違うって。趣味だろうが何だろうが、私が好きだと思ったの。確かに、ピアニストに比べたら、技術的なものは趣味の域なのかもしれない、私には分からないけど。でも、蓮の音だ!って思った」
「俺の、音?」
「そうそう!ヴァイオリンじゃなくても、蓮の音だって分かる。一つ一つの音が繊細で、なんだろう、私難しい表現苦手だからな、うん、一番簡単に言えば、私の心に響く音!全身の肌がざわっとするくらい、心に音が染み込んでくる」
 そうそうこれだ、と何度も頷いている香穂子は、きっと、自分の言った言葉の重さに気付いていない。
 自分の言葉一つが、月森の心をどれだけ揺さぶるかなんて、今この時は全く意識していないに違いない。その表情を見れば分かる。
 いつもなら、ある意味それを確信し、含み加減に絶妙に織り交ぜて、月森を翻弄することを楽しんでいる節すらあるのに。

 これだから、香穂子は。
 どうしていいか、分からなくなる。戸惑いと、嬉しさと、照れくささと――愛しさと。
 付き合い始めて、一月近く。コンクールの頃から併せれば、一緒に過ごした時間はかなりのものになる。けれど、その時間に、いつまで経っても慣れさせてくれない。本当に、心臓に悪い。

「香穂子」
「えっ?」
 少し強めに腕を引くと、細い身体は簡単にバランスを崩し、倒れ込んでくる。少し体勢を立て直し、改めて膝の上に座らせた香穂子の顔を見上げると、いつもと変わらない、どこか面白がっているような余裕の表情。……余裕など全くない俺とは、大違いだ、と月森は苦笑を漏らした。
「どーした、蓮くん」
「君が、俺を喜ばせるようなことを、言ってくれるから」
 一瞬、ん?という顔をした香穂子は、すぐに、ああ、と納得したように笑った。
「私の心に響く音、か」
「そう」
「だって、蓮の音が向かう先は私。また逆も然り。間違ってないでしょ?」
「ああ、間違ってない」
 口唇が、重なって、離れる。口唇への軽い接吻の合間に、香穂子の顔、頬、瞼、額、鼻の先まで、至る所にそっと接吻を落とす。
 くすぐったそうにくすくす笑いながら、香穂子は月森の接吻をそのまま受け入れていた。しかし、その間にも囁くような言葉で、翻弄する。
「蓮、昼間っから欲情すんのはどうかと思うよ?」
「君が、悪い」
「人の所為にするのは良くないなあ。ろくな大人にならないよ」
 一瞬言葉に詰まって、至近距離にある香穂子と見つめ合う。
 暫くの間、言葉はなく。ただ、瞳を合わせるだけ。何かが、深く奧から湧き上がる。

 まだ、付き合い始めて一月程度。そんなつもりで、部屋に呼んだわけではない。
 部屋に遊びに来たい、と最初に言ったのは、香穂子だ。
 先週、香穂子の部屋に誘われて。その時に。
 いつでも来てくれ、と言って、じゃあ来週、という話になった。
 あの時も、つい、さっきまでも。疚しい気持ちなど、なかった。それは断言出来る。
 それなのに。
 こうして触れ合って、キスをして。いつもなら、それで済んでいた。
 それなのに。何故なのだろう。

 ―――とても、足りない。

「欲しくて仕方ない、って顔」
「…え」
 いきなり核心を突かれて、月森は居たたまれずに顔を逸らそうとした。しかし、出来なかった。香穂子の両手に、しっかりと両頬を挟まれて。
「逃げるな、ばか」
「……逃げてなど」
「逃げてるじゃん、どう見ても」
 それ以上の言葉が紡げない。情けないが、瞳を伏せることでしか、香穂子の視線から逃げられない。こんなに自分の理性の糸が脆い物だったなどと、想像したこともなかった。
 それ以上、見ないで欲しい。本当に、焼き切れる。
「香穂子、頼む。君を傷付けたくないから。今は、見逃して欲しい」
「なーにそれ。自分で勝手に人抱き寄せてキスしといて、今度は離れろってか?」
「……すまない、だが」
 香穂子の両手が、頬から離れた。しかしホッと息をつくまもなく、その腕が首に周り、香穂子の柔らかい身体が密着した。よりによって、今。
「……っ、香穂子、なにを」
 息が詰まる。香穂子に対する熱を強く意識している今、触れ合っている部分から意識が溶けていきそうな気にすらなった。おかしくなる。
 頭の中にあるのは、香穂子をこのままきつく抱き締めたいという欲望だ。しかしそれをしてしまえば、もう、後戻りが出来なくなる。
 香穂子を、傷付けたくない。
 今のままでは、駄目だ。余裕の欠片もない。
 優しくできる自信などあるわけがない。
 こんな状態で、こんな切羽詰まった気持ちのまま、香穂子を抱きたくはない。きっと、傷付けてしまう。
「…頼む…離れて……離れてくれ、香穂子…」
 やっとの思いで言った月森に、香穂子はとんでもない行動に出た。
「……っ、な、香穂子っ…!」
 思い切りかみつかれた首筋に咄嗟に手をやる。ひりひりと痛むそこは、多分しっかり歯形が付いているに違いない。驚いて、顔を上げた香穂子を見つめると、してやったり、といったような表情のあと、ふわりと、本当に滅多に見せない柔らかく魅惑的な笑みを作った。
 思考能力を一時停止させるにはそれだけで十分だった。言葉が、出てこない。
 その月森の前で、香穂子はその美しい笑みのまま、言った。
「据え膳食わぬは男の恥」
 今度こそ、思考は完全に停止した。

 ―――据え膳食わぬは、男の恥。

 ……言うだろうか普通。付き合っている男の前で。傷付けたくないから離れてくれ、と懇願した男の前で。
 しかも、たとえようもなく柔らかく綺麗な微笑みを、その頬に乗せて。
 つくづく、勝てないと思う。熱は、変わらない。だが、切羽詰まった何かは、ゆるりと解けていった。深く深呼吸して、真っ直ぐに瞳を見つめる。
「…君が欲しいと、口にしてもいいのだろうか」
「言わなくても、顔に書いてあるし。しかもデカデカと」
 ニッと、いつもの笑みになる香穂子を、出来るだけ優しく、抱き締めた。
 男とは違う、不思議な程の柔らかい身体が、吸い付くように密着する。
「君のことが、好きだ、香穂子」
「うん」
「…でも」
「なに?この期に及んで何か言う?」
「……優しく、出来ないかもしれない。優しくしたい。君が好きだから、傷付けたくない。でも、自信がない」
 正直に打ち明ける。どんなに気を落ち着かせようとしたところで、かつてないほどの大きさと早さで打つ心臓の音は、自分の耳にも届くと思えるほどだ。今、こうして香穂子を抱き締めているだけで、こうなのだ。
 どうなってしまうのか、自分でも分からない。だから。
「……勘違いしてるでしょ、蓮」
「…なにを?」
「緊張してるのは、自分だけだって思ってんの? …あのね、私だって初めてなの。余裕かましてるように見えるかもしれないけど、心臓だってバクバクしてるし、正直言えば、蓮に全部見られたら、失望されるかも、とか考えてる」
「なにを言ってるんだ、そんな……」
「それでも、知って欲しいよ。興味本位とか、性欲とかだけじゃない。確かにね、それだってあるかも。だから、そんなのが全くない、なんて綺麗事は言わない。だけど、蓮だから、言ったんだよ。蓮が私に欲情してるのと同じだけ、私もしてる」
 香穂子は、顔を上げた。どこまでも、潔い。こんな時でも、香穂子は真っ直ぐに言葉を伝える。
 自分のことだけで精一杯で気付いていなかったが、言われて意識すれば、確かに密着した身体からは、香穂子の心音が伝わってきていた。
 緊張している、のだろう。当然だ。男に抱かれるということがどんなことなのか、知らないわけもない。初めてならば特に、負担がかかるのは、香穂子自身。
 そうであっても、瞳を逸らさず、また、言葉を濁すこともない。
「蓮の目が、言ってる。私のことが欲しいって。私を抱きたいって。そんな目で見られて、私がなにも思わないと思う? 蓮が、欲しいよ。蓮に、私を知って欲しいって、心から思う」
 香穂子の細い指先が、頬を滑る。ゆっくりと撫でていくその指先が微かに震えている。
「怖いよ。どうなるか分からない。それでも、知りたい。知って欲しい。これが、疚しいことだとは思わない。早すぎる?まだ怖い?じゃあ、いつになったら大丈夫?一週間後?一月後?一年後?そうじゃないよね。お互いに求め合うことが出来た時、それが、時期、ってやつじゃないの?」
 矢継ぎ早の台詞は、おそらく香穂子自身の中にあるなにかと、戦っているからだ。
 多分、男を受け入れることの、潜在的な恐怖と。それ以上の、真っ直ぐな気持ちと。

 愛しいと、思ったことは限りない。
 こんな風に誰かを想う気持ちがあることなど、本当に知らなかった。
 だが今、心から、改めて思う。なぜ、こんなに人を、誰かを、香穂子ただ一人を。これほどまでに愛しいと思えるのか。言葉で言い表すことなど出来ない。
 だが、どこまでも真っ直ぐに向けられる愛情を受け入れられるだけの存在でありたい、と思う。ずっと、そうで在り続けたい。
「香穂子……」
 言葉が足りない。分かっている。香穂子が紡いでくれた言葉に、上手く返す言葉すら見付けられない。
 それでも。
「君のことを、知りたい。香穂子。俺は、君が俺にくれるたくさんのものに値するようなものは、なにも返せないかもしれない。けれど」
 後頭部に右手を回し、口唇を寄せて。
「君のことが何よりも大切だと、断言出来る。この気持ちだけは誰にも負けないと、自信があるから…」
 すぐ近くで囁いた言葉に、香穂子はふわりと笑い。目を閉じた。

 幾度も口唇を重ね合った。柔らかい口唇は、ひどく甘い。
 熱に浮かされたような表情を至近距離で見つめ合って、どちらともなく立ち上がる。離れることが出来ずに、しっかり指を絡めたまま。
 その指を先に離したのは、香穂子だった。片手で月森の胸元のシャツを握り、片手で自らの胸元を押さえる。
「……いっせーので、脱ごう」
「…は?いや…それは、その」
 一気に顔に血が上って、言葉に詰まった。香穂子が、顔を上げる。今までに見たことがないほど、頬が紅潮し、瞳は僅か潤んでいた。
「だって、恥ずかしいから。脱がされるのも、なんか…その。えーと、だから!一緒に脱いじゃえば、お互いにいいかな、って…ああもう、やだこういうの、普通みんなどうするものなの!?」
 ねえ、知ってる!?
 と胸元を掴み上げられ見上げられ、言葉に窮した。
 ……そんなことを、知っているわけがない。
 けれど、真っ赤になりながらも、いつもの威勢を失わない香穂子が、あまりにもらしくて。余裕など全くないはずなのに、思わず小さく吹き出してしまった。
「なによ蓮、一人で余裕ぶっちゃって!」
 ムッとしたように見上げてくる香穂子の額に、軽くキスを落としてから、その肩に顔を埋めた。髪から漂う甘い香りに、酔ってしまいそうになる。
 本当に、君は。
「余裕なんて欠片もない。どうしたらいいかなんて、俺だって分からない。でも、君が可愛くて仕方ない」
「誤魔化さないでよ。バカ蓮」
「ひどいな」
「こっちは必死に色々考えてるのに。どうすればいいか分かんなくなるくらい、頭ぐちゃぐちゃになってるんだからね、分かってんの!?」
「分かってる。そんな可愛い君の顔は初めて見た」
 抱き締めたまま言うと、面白くなさそうな言葉が返ってくる。
「どうせ可愛くないし。口悪いのも我が侭なのも分かってるわよ。だからってね、」
「可愛い。いつもも可愛い。だが、そんな風にパニック寸前な君は、初めて見たから」
 どうしてだろう。いつもは余裕を見せている相手が、そうじゃない状態に陥っているのを見て、僅かの余裕を取り戻せるなんて。
「脱がせても、いいか?」
 するりと滑り出た言葉に、一番驚いたのは、月森自身だ。しかし香穂子も相当驚いたのだろう。肩がびくりと震えて、小さく息を飲み込む音がする。
「……蓮じゃないみたい」
 その言葉に少し苦笑して、香穂子の肩から顔を上げた。見下ろした香穂子の顔は、相変わらず真っ赤で、少し戸惑いをも宿していて。いつもと違うその表情に、また、理性が焼き切れそうになる。
 香穂子が、欲しい。
 綿の薄いセーターの裾に、手をかける。香穂子は俯いて、その手を見ていた。心臓が煩い。まるで身体全体がそれになってしまったかのように、煩くて仕方ない。息を吐いた。意を決して、力を入れようとした時だった。
「やっぱ、だめ!自分で脱ぐ!」
 香穂子がずさっ、と音がするくらい一気に後ずさって、真っ赤な顔で月森を見ていた。
「恥ずかしすぎる、耐えられない!」
 一気に、力が抜けた。少し惜しかったようにも思う。けれど、やはりあのままではいつまで経っても先に進まなかった気もするから、これで良かったのだ、と何故か安堵の息と共に思った。情けないとは思うが、仕方ない。慣れないことは、するものではない。
 と。
「香穂子…っ……!」
 ばさり、と。香穂子は、薄手のサマーセーターを一息に脱いでいた。目のやり場がなくて、顔を逸らす。しかしその後も衣擦れの音は続き。それが途切れた、と思ったすぐあとに、ベッドのスプリングが軋む音。先程まで香穂子がいた場所には、香穂子の抜け殻。
「蓮」
 呼ばれても、どうしても振り向くことが出来なかった。そこにいるのは、素肌を晒した香穂子だ。
 想像しただけで、全身が熱くなる。
「蓮、来てよ。蓮も脱いで、こっち来て」
「ちょ、ちょっと待ってくれ…少しだけ、心の準備が……」
 つい先程、脱がせていいか、などと言った自分が、信じられない。この居たたまれなさをどうすればいいというのか。
「…いくじなしー」
 背中に投げられた言葉に、思わず硬直した。
 意気地なし。
「蓮のばかー」
 バカ。
「女が先に脱いで待ってるんだぞ。男なら襲うくらいのことしてみろ」
 ……やはり、香穂子はどこまで行っても、どんな時でも、香穂子だ。
 そのことに、ひどく安心する。余裕など全くないが、ほんの少し、頬が緩んだ。
 また、そこまで言われて、男である月森がそれ以上我慢出来るはずもなかった。
 求めてやまないのは、香穂子一人。その香穂子が、待っていてくれるのに、ためらう必要がどこにあるというのか。
 大切な相手を、より深く知るための手段。香穂子の全てを、その熱を知りたいと願ったのは月森自身だ。思考力を焼き尽くしてしまうくらいの衝動に突き動かされるほどに。
 一つ息を吐いて、着ていたシャツのボタンを外し、床に放り投げる。いつもならば絶対にしないことだ。けれど、今はもう、そんな事に構っていられる余裕はなかった。香穂子の視線を感じる。ズボンのボタンに手をかけて、ファスナーを下ろし。それも、脱ぎ捨てた。
 刺さる視線に、居たたまれなさを感じるのは、変わらない。けれど。
 振り向くと、香穂子がベッドの上に座って、こちらを見ていた。下着だけを身につけている、細い身体。
 心臓が一際高く音を立てた。目眩がする。
「……香穂子。俺は」
「いいから。来てよ。ここに来て」
 促されるまま、ベッドに近付き。膝を乗り上げ、そのまま香穂子の細い身体を抱き締めた。直接触れる肌は、熱く火照っている。香穂子の腕も、背に回る。ただ抱き締め合っているだけで、頭の中が沸騰しそうだった。
 あまりに柔らかい身体が頼りなくて、怖くなる。
 これから、この身体を組み敷くのだと思うと。
 こんなにも頼りない身体を抱いてしまっていいのだろうか。壊れてしまわないだろうか。
「……君の身体は、こんなに細かったか?」
「蓮、緊張してる?」
「…当然だろう?」
「頭の中、真っ白になってる?」
「…なってる」
「私も。だから。ねえ、もう無駄なこと考えるの、やめよう」
「香穂子…」
 香穂子が顔を上げて。ほんの軽く、口唇に触れた。そして。
「私に触れて。蓮の全部で、私を知って。私に、蓮の全部を教えて」

 ――抱いてよ

 熱い吐息で、口唇が触れそうな距離で囁かれた台詞が、それまで辛うじて繋いでいた理性の糸を焼き切った。
 それまで考えていたこと、思っていたことは、もう、頭に一欠片も残っていなかった。
 あるのは、香穂子が欲しい、という飢餓感にも似た欲望だけだった。

 細い身体をシーツの上に押し倒し、腕の檻に閉じこめて、深く口唇を貪った。
 そのままの状態で胸に手を伸ばし、下着の上からそっと撫でてみる。服越しに感じていたのとはまた別の柔らかい感触に、思わず口唇を離し、少し身体を起こして視線を向けた。
「…なによ、そんなしげしげ見なくても」
「いや…その…随分と柔らかいものだな、と…」
「フツーに平均くらいはあると思うけど…なんか、照れる。あんま見るな」
「すまない。だが……」
 無意識の内に、手が伸びる。本当に、柔らかい。
「…直接、触れたい」
 もう一度覆い被さると、背に手を回して戒めを探した。けれど、どういう構造になっているのかよく分からず、上手く外せずにいると、香穂子の手が添えられた。
「そこ。一回寄せるようにして、そう、ホックだから」
 言われるままにそこを外し。香穂子自ら腕を抜いたそれを、床に落とした。
 あらわれた胸の白さに目眩すら感じる。どうしようもなく、身体の芯が熱くなる。
 綺麗だ、と思った。香穂子の表情も、うっすらと桃色に染まった白い肌も、なだらかで優しい身体の線も。
 見れば見るほど、男の身体とは、あまりにも違いすぎる。
 不躾なほどの視線を、ただ、香穂子の身体に注いだ。目が離せなかった。
「……知って欲しいとは言ったけど、見過ぎだよ、蓮」
 さすがに、恥ずかしいんだけど。その言葉で、ようやく我に返る。見上げてくる、口調は気丈でも、常にはない揺らいだ瞳。そんな香穂子が、息が苦しくなる程に愛しくて。何かに追いつめられるように、香穂子に触れた。
 胸に手を伸ばす。頬に口唇を寄せる。それから、口唇、顎の線を伝って耳元に。小さく首を竦めながら、香穂子は吐息を漏らした。その甘い響きは、更なる熱を呼んで。
「香穂子…」
 耳元に直接囁くと、びくりと明らかな程、香穂子の身体が震えた。
「どうした?」
「そ、んな側で、そんな声、出さないでよ…!」
「……そんな声、とは」
「いいから、お願い、やだ、背中ぞくぞくするっ」
 それはつまり、感じている、ということなのだろうか。そう判断して、舌を出して舐めてみる。
「ひゃっ…!」
 香穂子の腕が、身体を押しのける様に突っ張る。しかしその力は頼りなく、あまり効果はなかった。
「やだってば、そこダメ!」
 尚も耳元を舐め、吐息を吹きかけてみれば、香穂子は身を捩って逃れようとした。
「感じているのか?」
「そんなこと一々聞くなバカ!」
「……じゃあ、勝手に判断することにする」
 バカ、と言われて喜ぶ自分は、どこか壊れてしまったのかもしれない。だが、一つ一つの仕草に反応して貰えることが、これほどに嬉しいなんて。
「ここは…?」
 首筋に舌を這わせても、香穂子は小さく震えて吐息を漏らす。甘い吐息を耳に、少しずつ下へ。
 胸元の柔らかい部分に、少しきつめに口付ける。香穂子が息を飲む音が聞こえた。知識としてはあったものの、本当に跡が残るのだと、感動してしまう。
「本当に、柔らかいんだな…君の肌は……」
 幾つか同じ様な跡を付けたあと、柔らかい膨らみの頂に咲く蕾に、そっと口付けた。
 びくり、と。今までで最も顕著な反応が返ってきた。吐息ではなく、はっきりと声が漏れる。
 片方の胸を手のひらに収めたまま、もう片方の膨らみは、口唇で辿った。柔らかい身体の中でも、多分最も柔らかい場所。男にはありえないその感触を、ただひたすらに、確かめたくて。
「や…蓮、あ…っ」
 漏れる声の甘さに、頭の芯が痺れていく。もっと、聞きたい。香穂子の声が、聞きたい。
 そう思うあまりに、少し乱暴になっていたかもしれない。何かから逃れたがっているように首を振る香穂子に、月森は尋ねた。
「…香穂子。辛いのか?」
「ちが…そうじゃ、なくて……」
 おかしくなる、と、甘い息の下から呟く。
 そうか、と安堵して、再び身体に触れていった。細い腰を辿り、すっきりとした腹部を撫でる。どこもかしこも、本当に不思議なほどに柔らかい。
 肌という肌、全てに跡を残してしまいたいという衝動に駆られる。
 口唇を落とし、舐め上げていく。甘い、と感じるのは錯覚なのだろうか。錯覚で、こんなに人肌を甘いと感じるものなのだろうか。

 細い足首をつかんで、そっと指を滑らせる。香穂子の息は、かなり弾んでいた。
 滑らかな肌。手のひらに吸い付くようなその上を、指で辿っていく。膝の上まで触れ、太腿の裏に指を滑らせた途端、香穂子の身体が僅かではあるが硬直した。多分、分かったのだろう。月森が力を入れ、香穂子の片脚を持ち上げようとしたことを。
「ちょ…っと、まって」
 片脚を割り入れていることで、香穂子の両脚は閉じることが叶わない。
「蓮、あの」
 香穂子の呼びかけに、月森は答えなかった。軽く太腿を支えて持ち上げると、内腿の柔らかい部分に口唇を寄せ、熱を移した。そのまま、幾度も同じことを繰り返す。
「相当、恥ずかしい格好なんだけど…っ」
 抗議するような香穂子の声。しかし声に混じる甘い響きは隠しようもない。
 ひとしきり脚への愛撫を加えたあと、月森は身体を起こし、香穂子を緩く抱いた。
 精神を追いつめてくる焦燥感をどうすることもできず、また口唇を重ねる。
 身体の奧が、ひどく熱く。深く舌を忍ばせて、息を弾ませ縋り付いてくる香穂子の口内に踊らせる。息が整わないのは、二人とも同じだ。まともな思考回路が、こんな状況で働くわけもない。苦しげな香穂子の表情にすら、欲は高まる。
 散らばって乱れる香穂子の髪を一筋掬い取ってそこにも口付け、なだらかな肩、腕、指先へと口唇を滑らせる。
 何もかもに、魅了された。香穂子の全てが、どうしようもなく愛しい。

 月森は、香穂子の指先を口唇に銜え、舌を這わせた。
 ヴァイオリンを弾き初めの頃、香穂子の指先は柔らかかった。請われて、基礎的な知識を教えていたあの頃、姿勢、持ち方の指導をする際、望まずとも身体に触れることもあった。本当に初心者なのだと、否応なく知った。
 が、今は違う。たった数ヶ月の間に、香穂子の指はヴァイオリニストの指になった。
 柔らかく滑らかな指先は、確かに綺麗かもしれない。けれど、弦に擦り切れ固くなった今の方が、数倍美しく思える。惜しみない努力と研鑽の証だ。
 愛すべき音楽を奏でる、愛すべき指先。この指から生まれる音楽に、どれだけの想いを突き動かされただろう。

 その間、香穂子は自由になる方の腕を伸ばし、月森の背を緩く撫でていた。触れられている部分から、淡い痺れが広がる。だがその指が、不意に硬直し、きつく背中に立てられた。
「…っ」
 同時に零れる、息を詰めたような声。
 その声を掬い取るように、月森は銜えていた指を解放し、香穂子の口唇を柔らかく吸った。
 どの程度の力を加えていいのか、分からない。ただ、本能に突き動かされ、指を滑らせた。薄い布越しにも、そこが湿り気を帯びているのが分かる。口唇を合わせたままでいると、香穂子が苦しげに首を振った。口唇を離す。途端、乱れた息に混じり、甘く切なげな吐息が零れた。
「や……」
 合わせている胸が大きく上下しているのが分かる。
 段々と頭には靄がかかっていき、ただ、もっと知りたくて。最後の一枚を、脱がせた。布越しとは違う、明らかな滑り。微かな水音が響いた瞬間、顔を合わせまいとするかのように香穂子は目を瞑った。
 言葉など、紡いでる余裕はなかった。多分、二人とも。
 感じてくれているのだと、奧から溢れ出してくるものが知らしめてくれる。ヴァイオリンを弾く指で良かった、と、どこかで思った。爪で、恐ろしく敏感なその場所を傷付けてしまうことは、きっとない。

 香穂子の声が、高くなる。熱く解けた香穂子の中は、それでも数本の指を容易に受け入れてはくれなかった。
 本当は、もう限界だった。出来るなら、今すぐにでも、と思う。息苦しくなるほど、身体の芯が熱い。
 けれど。
 必死に自分の中の欲望と戦うしかなかった。加速度的に荒くなる息を、悟られないようにと。――だが。
「……我慢、しなくていいから…」
 熱に浮かされたような声で、香穂子が言った。手を伸ばしてくる。
「もう、十分…。大丈夫だから……」
 途切れ途切れの声。いつもとは全く違う、甘く響く、舌足らずな言葉。
 十分であるとは、とても思えなかった。けれど、確かにもう限界だったから。
「…少しだけ、待っていてくれ」
 いつ使うか分からないけれど、と、付き合い始めてすぐの頃に、用意だけはしてあった。もしそうなった時に、気付かなかったでは済まない問題だということは、十分に理解しているつもりだったから。
 香穂子が、小さく笑う。
「今日、最初から期待してた?」
「…そういうわけじゃ…。ただ、もしそうなった時のために、と思って……」
「うん。嬉しい。ありがとう」
 ふわり、と。微笑んだ香穂子の頬に口付けて。
「辛かったら、言ってくれ。いや、辛いとは、思うが……その」
「分かってる。痛かったら痛いって言う。でも、やめないで」
「……ああ」
 熱くて、堪らなかった。肌が、身体が。―――心が。

「……―――っ!」
 香穂子の瞳が一度大きく見開かれ、すぐに表情がひどく歪む。一気にせり上がる涙と押し殺したような悲鳴に、今どれだけの思いをさせているのか、否応なく理解する。
「…香穂子……」
 接吻を、落とす。涙の浮かぶ瞳の横。流れ落ちる頬。
 どうすればいいのか分からずに、ただ、抱き締めて、口付けて。それしか、出来ない。
 香穂子の中は、ひどく熱い。
 息すら詰めて声を必死に殺そうとしている香穂子を労りたいと思うのに、相反する欲望に支配されそうになる。欲望に、そのまま身を委ねたくなる。
 だが、見ている方が辛くなるその表情が、辛うじて、その凶暴な衝動を留めていた。
「香穂子…声を、出していい。この部屋は防音だ。まして、家には誰もいない。無理せず、泣いていい」
「……痛い、よ…っ」
 ふうっ、とまた、涙が頬を伝い落ちた。
「…すまない……」
 香穂子の瞳が、痛みとは別の感覚を宿したように、くしゃりと歪み。腕が、きつく背中に回った。
「謝るな…っ」
「香穂子、だが……」
「なによ、痛いよすごい痛いよ、だけど謝らないでよっ…! 蓮だって、今、自分が……どんな、顔、してるか…分かってないの?すごい、辛そうに…っ」
 そこまで言って、また呻いた。
 本当にいいのだろうか、と不安になる。確かに、辛い。このまま我慢しているのは、拷問に近い。けれど。
「いいんだってば…!抱いてって…私、言ったでしょ…っ…!」
 抱いてよ。
 涙混じりの声で、繰り返し香穂子は言った。
「想ってるのは自分だけとか、思わないでよ…私だって、蓮が好きなんだからね…!」
 髪に、香穂子の指が絡む。少し痛いくらいに強く。そのままに顔を引き寄せられて。口唇が今にも触れそうな極近い距離で、香穂子は。いいから、早く、と苦しそうな息の下から囁いた。
「もっと、蓮の熱、感じさせてっ…」
「……っ!」
 奧を深く突き上げる。香穂子の口から、悲鳴にも似た苦痛の声が漏れた。けれどもう、それを考慮出来るだけの余裕などなかった。

 ひどく熱くなっている身体をただ求めて、繋がった箇所から湧き上がる度し難い快感に、全てが溶けていきそうだった。身体も、思考も、心も。
 触れ合っている素肌の熱さに、目眩がする。
 香穂子への想いだけで、全てが埋め尽くされる。
 何度も、名前を呼ぶ。思うことは、一つだけだった。香穂子が、愛しい。ただ、それだけ。
 あまりの愛しさに、気が狂いそうだった。
 愛しくて堪らない恋人の、熱さを。それを感じるだけで――もう。
「…香穂子…俺は、君を……」

 最後に自分がなにを呟いたかも、良く、分からなかった。

 全身を支配する疲労感。
 ぐったりと横になっている香穂子は、一言も口を利かず、俯せになっていた。大きく上下する肩を見ても、相当な負担をかけたことが分かる。
「…香穂子、その」
 髪に触れると、微かに肩が動く。
「……すまない、その…優しく、出来なくて」
 完全に理性を失った、熱に浮かされたような時間。つい先程の行為だというのに、はっきりと思い出すことが出来ない。
 だが、何かにせき立てられるような想いにまかせ、随分乱暴になってしまった、という自覚だけが残っている。
「…すまない。怒って…いるだろうか」
 どうしようもなく居たたまれないような気恥ずかしさと、申し訳なさは、ある。
 けれど、香穂子の顔が見たかった。
 長い髪をかきわけるように指をかけると、同時に顔を向けた香穂子と、目が合った。思わず手を引く。と、至極だるそうに香穂子が口を開いた。
「…抱きしめて」
「…いいのか?」
「悪かったら言わない。いいから言ってるの」
 もっともな台詞だ。わずかあった距離を縮め、月森は香穂子の身体を腕の中に引き寄せる。熱の残る身体は、腕の中でまだ荒い呼吸を繰り返していた。
「もっと、優しくしたいと思っていたのに…本当に、」
「だから、何度も言わせないで。本気でバカなの?」
 心底呆れたような声に、月森は言葉を失った。
「さっきまで返事しなかったのは、『出来なかった』だけ。怒ってない。謝るな。今も喋ることすら億劫なんだから。あんまり同じ事言わせないでよね」
「しかし」
「『しかし』も『だが』もない」
 わざわざ月森の口調に言い換えて先回りされ、次の言葉が紡げなくなる。溜息混じりに、香穂子は言った。
「いいんだってば。優しくしてなんて、最初から頼んでないでしょ。私は最初気持ちよくして貰ったし、蓮が最後気持ちよかったなら、お互いさま」
 すごい理屈だ、と思う。しかもそれを本気で言っているだろう辺りが、更に。
 相手を気遣って、思ってもいない台詞を口にするような香穂子ではない。それが分かっているから、驚かされる。いつも。
「…君は、本当にすごいな」
「なにが」
「そういうことを、言えてしまう所が」
「ホントのことじゃないよ」
「……だから、それがすごい」
 ふーん、と香穂子は呟いて、小さく溜息を付いた。
「……それにしても、全身だるい。あちこち痛いし。ヴァイオリン弾く時も相当無理な格好だと思うけど、これも負けず劣らずだよ。明日絶対筋肉痛になる」
「…そ、それは…その…すまなかった、俺が」
「本気でバカ?」
「……すまない」
「やっぱりバカ。でもまあ、そんなに悪いと思うなら、一つ聞いて欲しいことがあるんだけど」
「俺に出来ることなら…なんでも」
 じゃあ、と香穂子は顔を上げ。ベッドの向こうを指差して笑った。
「ピアノ弾いて。優しい曲がいい。もう一度、蓮のピアノ、聴きたい」



 あれからもう、一年以上の月日が経つ。
 この部屋で肌を重ねた後は、すっかり習慣になってしまった、ピアノ演奏。
 夜想曲二番の演奏を終え、十番へと移った。二番や五番ほど有名ではないが、この曲の旋律も美しい。香穂子が殊の外気に入っていることもあって、ショパンの夜想曲は全て、楽譜がなくても弾けるようになった。
 軽く視線を投げると、気怠げに微笑んだ香穂子と目が合った。
 ヴァイオリンでなく、ピアノの音を求めるのは、何故なのかと聞いた事がある。
 香穂子は言った。「ヴァイオリン弾く時は、演奏者としてどうしても気が張るでしょ」と。


「私しか知らない蓮の、リラックスした音に包まれたい」
「……分かるような、分からないような」
 確かに、ヴァイオリンを弾く時は、自然背筋が伸びる。向き合うための心構えも違う。一奏者として、それは当然のことだろう。しかし、言う程気を張って演奏する時ばかりではない。香穂子と二人、互いのためだけに演奏するような時は、格段にリラックスしているつもりだった。だから、そこまでの差があると思えずに、月森は首を傾げた。
 そんな月森に、香穂子は笑った。
「ヴァイオリン、そんな格好で弾いてる蓮は想像出来ない」
 言われて、自らの服装を顧みた。素肌にシャツ、綿のズボン。いつもとそう変わらない格好だが、身体に残る熱のせいもあり、胸元のボタンは外し、大きくはだけたままだ。確かに、だらしないかもしれない。頬が紅潮するのが分かって、慌ててボタンを留めようとした。が、横に立っていた香穂子の手によって遮られる。
「香穂子?」
「いいの、そのままで」
「…しかし、」
「いいんだってば。私とこうしてる時くらい、隙だらけの蓮でいて」
「……香穂子」
「ヴァイオリンの音、聴くの好きだよ」
 香穂子が、月森の肩に額を当て、俯いた。長い髪がさらりと落ちて、彼女の表情を隠す。
「奏者の蓮になると、空気が変わる。もちろん、それも好き。でも私は、私しか知らない蓮が欲しい」
「俺は…いつだって、君のことを」
「それは知ってる。でも、これくらいの我が侭なら、可愛いもんでしょ」
 指通りのいい髪を優しく梳き、額に口付けた。
「…確かに。俺の演奏なんかでいいのなら」
 言った月森に、香穂子は伏せていた顔を上げ。
「ま、後戯の延長だと思ってくれればいいから」
 完全な含み笑いで、言った。
 絶句し硬直した月森に、それ以上の言葉を紡げるわけもなかった。


 二曲続いた、甘く緩やかなショパンのメロディが終わりに近付いた時。
「……蓮のピアノ、好きだなあ…」
 シーツにくるまったまま、香穂子がとろりとした声で呟く。
「ヴァイオリン、と言ってくれた方が、俺は嬉しいが」
「今更口にするようなことでもないでしょ、分かり切ってるんだから」
「それは、失礼」
 そこで、丁度曲が終わった。
 くすりと笑いながら、香穂子が起き上がり、隠すことなく晒された白い肩と背中が浮かび上がる。
「風邪を引く。何か羽織った方がいい」
「まだ熱いから、いい」
 言って、窓の外に冴え冴えと光っている月に目を遣った。
「次、ベートーヴェンの『月光』。第一楽章ね」
「分かった」
「こんな綺麗な月見ながら、好きな人の演奏で『月光』聴けるなんて、贅沢だね」
「君に喜んで貰えるなら…いくらでも」

 リクエストされたベートーヴェンのピアノソナタ『月光』第一楽章。立ち上がって楽譜を探し、立てかける。好きな曲ではあるが、この曲は暗譜するほど弾いてはいなかった。
 部屋の電気は消したままだが、月明かりのおかげで音符が追えない程ではない。
 音を奏で始めてしばらく、香穂子がシャツだけを羽織り、窓辺に立った。月を眺めているようだ。
「ねえ」
「なんだ?」
「月が、青い」
「そうか」
「綺麗」
「ああ」
 背中に寄り添う体温。ピアノが弾けなくなる程しっかりと体重をかけてくるわけではなかったから、そのまま演奏を続けた。すぐ耳元に、柔らかい声が聞こえる。
「蓮のピアノ、好き」
「ありがとう」
「蓮のヴァイオリンは、もっと好き」
「それは、嬉しいな」
「でも、蓮が一番好き」
「……ああ、俺も…香穂子のことが、好きだ」
「ヴァイオリンよりも?」
 忍び笑いが直接耳に入ってくる。肩すら震わせて笑っているところをみると、先程までの、らしくないほど甘い言葉は、きっと、これを言う為だけの、前振りだ。
 指を止める。さすがに、密着されてこうまで派手に笑われてしまっては、指がぶれてしまってまともに弾くことが出来ない。
「……比べるような対象ではないと思うが」
「分かってるよ、そんなの。冗談に決まってるでしょ」
 どっちって言われても、嬉しくないよ。と。
 くすくす笑いながら、肩に両腕が巻き付いた。
「もう、ピアノ弾いてくれないの?」
「弾かせなくしたのは、君だろう?」
「そりゃ失敬」
 寄り添っていた体温が離れていく。それだけのことで、妙に心許なく感じた。もっと側にいて欲しい、もっと、温もりを感じていたい。そう、頭のどこかで声がする。
 つい先程まで、嫌というほど体温を分け合っていたにも関わらず。

 初めて肌を重ねたあの時から、一年と数ヶ月。だが今も、寸分違わず、同じ想いに囚われている。
 幾度抱いても、どれだけ共に時間を過ごしても。
 何故こうまで惹かれてしまうのか、惹かれずにはいられないのか。
 香穂子への、こうまでに深い執着心は、一体どこからやってくるのか。
 分からないままに、その想いだけを、ただ繰り返し思い知らされる。

 多分、香穂子はそんな月森の心境に気付いていたのかもしれない。だから。
「んー、やっぱ少し冷えちゃったかも。ね、温めてよ、蓮」
 ベッドに座った香穂子が、そう言って笑った。
 しなやかな腕を伸ばして。
「蓮」

 ――君の声が、俺を呼ぶ。いつだって、君の声は、俺の理性を狂わせる。

 月森はピアノの蓋を閉め、立ち上がった。

【 月夜の晩に /end. written by riko 】