遠き街にて
La corda d'oro

 喉が乾いて手近のカフェテラスに入ったものの、ぐるりと見渡してみても、空いたテーブルはなかった。
 となれば、相席しかない。
 カップルやグループの他、女性一人も割と多いが、男性一人というのはパッと見た感じでは見当たらなかった。この店を出て他を探してもいいのだが、知っている限り、手軽に喉を潤せる店は近場にない。
「さて…」
 どうしようか、と逡巡する。もう一度店内を見渡してみると、幸い、四人掛けのテラス席に一人で座っている青年がいた。
 店のウェイトレスは注文を取るのに忙しいらしく、こちらには気付いていないようだった。仕方なく、勝手に奧へ歩いていき、テラス席へ出た。
 遠目では何をしているかよく分からなかったが、どうやら何かを書き付けているらしい。
「失礼」
 声を掛けると、青年が顔を上げた。
 若いアジア人の青年だった。まだ二十歳にもなっていないだろう。
 観光客が多い街だ。彼もそうだとしたら、言葉が通じるだろうか?と少し懸念しながらも、そのままドイツ語で。
「この席は空いているか?」
 と聞くと、
「どうぞ。すみません、今片付けます」
 そう返事が返ってきた。ネイティブのものとは違うが、発音も悪くない。
 この国では、こういった場所の相席は当たり前だが、明らかに外国人である青年が全く戸惑う様子がない所を見ると、どうやら観光客というわけではないらしい。テーブルの上に散らばっている紙や本を手早く片付けていくのを見ながら、向かいに座る。
「悪いな、片付けさせてしまって」
「いえ。混んできたようですし、一人で場所を取っている俺の方が悪いので」
 言いながら、さっきまでの半分程度に荷物をまとめると、再びレポートパッドに文字を書き連ねていく。
 まとめられた紙に記されているのは五線譜。数冊積み上げられた本の一番上に、有名な作曲家の名が見える。とすれば、青年が書いているのは課題のレポートか何かだろうか。
 世界トップクラスの演奏者を擁する交響楽団のある街だ。こんな学生の姿も珍しくはない。
「…音楽留学生か」
 そのつもりではなかったのだが、どうやら声に出ていたらしい。少しだけ視線をあげ、青年は頷いた。
「ええ、まあ」
 ちょうどその時ウェイトレスがやってきた。
「コーヒー」
 注文を済ませて一息つく。
 青年もちょうどそこまでで一区切りついたのか、広げていた書物とノートパッドを閉じると、積んでいた本の中から何かを探し始めた。
 特にすることもなかったので、悪いとは思ったが観察するような形になっていた。
 目的のものを探し当てたらしく一枚の封書を取り出した青年だが、うっかりと指を滑らせ、それがひらりと床に落ちた。あ、と声を上げた青年の声を耳にしながら足元に落ちたそれを拾い、彼に手渡す。
「すみません、ありがとうございます」
 青年は、大事そうにそれを手元に引き寄せた。
 ――Von JAPAN
 目に付いた文字を読み取って聞く。
「君は、日本人か」
「ええ」
 当たり障りのない様子で頷きながら、青年は封書の中から数枚詰まっていた便箋を取り出し、かさりとそれを広げた。
 既に封が開いていたところを見ると、目を通したことはあるはずだ。それでも一字一句をかみしめるかのようにそれを読んでいる青年の表情は、至極柔らかい。本人が気付いているかどうかは分からないが、その明らかな表情の変化で、彼が差出人をどう思っているのかが手に取るように分かった。
 彼が熱心な様子で手紙を読んでいる最中に、コーヒーが運ばれてきた。湯気の立つカップに口を付ける。
 目の前の青年は、やがて丁寧な所作でそれを折りたたみ、先程閉じたノートパッドの真っ白なページを開くと、そこに文字を記し始めた。

 ―――香穂子へ

 丁寧に書き記されていく文字の初めは、女性名だった。それほど詳しいわけではなかったが、ファーストネームの最後に「子」がつくのは女性なんだと教えて貰ったことがあるから、おそらく間違いない。
 青年の先程の表情からしても、大切な相手だと言う事は分かった。ならば、更に具合が悪いだろう、と声を掛けることにした。
「不躾で悪いが、ここでそれを書くのはやめにしないか?」
 え、と顔を上げた青年の表情は不審げだ。無理もない。苦笑混じりに、その手元を差した。
「知り合いが日本にいるんだ。暫くの間住んでいたこともある」
「ああ、そうだったんですか」
 言外に日本語が読めることを伝えると、青年は納得したように頷いた後、はたと気付いたように、レポートパッドを閉じた。
「すまんな、見るつもりじゃなかったんだが」
「…いえ」
 ほんの少し照れたように頬を染め、首を振る。
 やはり気恥ずかしいのだろう。日本語を読む事の出来る人間がそうそういるわけではないと知っているからこそ、こんな所で手紙を書こうという気にもなったのだろうから。

「大切な相手を残してきたみたいだな」
 年若い青年が、知っている一人の日本人と被って微笑ましく映った。
 彼の恋人であるフランス人女性とは、一緒に暮らしている期間もあれば、そうじゃない期間もある。彼女が自国へと戻っている時、彼らが同じ様な想いをしていることを知っている。
 いつもならば他人との接触を好む方ではないのに、こんな風に話しかけてしまったのは、重ね合わせてしまったからだ、きっと。
 少しの間ためらうように黙っていた青年は、ややして、どこか寂しそうに微笑みながら頷いた。
「……そうですね」
 事情を知らずとも、彼にとってその選択がどういうものであったのかが分かる表情に、しまったな、と思う。触れられたくない場所に触れてしまったか、と舌打ちしたい気分に駆られながら、すまん、と肩を竦めた。
「こんな所で出逢っただけの他人が口を出す筋合いじゃなかった。気にしないでくれ」
「いえ、本当のことですから」
 青年はそう言って、気分を切り替えるようにミネラルウォーターを口に含んでから、一瞬、遠くへ思いを馳せるような目をした。
「もっとも、残してきたなんて言い方をすれば、別に残されたワケじゃない、と怒るでしょうけど」
 少し困ったような表情で言った青年の口調は、優しい何かで溢れていた。同時に、懐かしそうにも、湧き上がる某かの感情を堪えているようにも聞こえる。
 だが、それに知らぬ振りをして、言葉の意味だけを捉え尋ねた。
「随分と気の強い女性らしいな」
「彼女より気の強い女性には、出逢ったことがありません」
 苦笑気味な青年に、思わず笑みがこぼれた。
「そうか。だが、俺の知っているフランス人女性も相当なもんだ。どちらが上か、比べてみたい気もするが」
「そうですか、それはお会いしてみたいですね」
「ああ、気の強い君の恋人にもな」
 そう言った途端、青年の表情が曇った。どこか諦めにも似た溜息が、その口唇からこぼれ落ちる。
「……こうして離れていて、約束がなくても…恋人、と言えるのか…」
 思わず、といった呟き。
 一瞬ではあるが、確かな痛みが走った瞳。
「ああ、すみません、気にしないで下さい」
 ハッと気付いたように顔を上げ、バツが悪そうに早口で言うと、こちらがそれ以上の言葉を紡ぐことを遮るかのように、脇に置いていた鞄を取り上げた。
 大きめの鞄の中にテーブルの上の荷物を入れていく。素早くはあるが、その所作に乱雑な印象は全くない。こういう些細な所に育ちの良さってのは滲み出るもんだな、と場違いに感心した。
 そんなことを思いながら黙って様子を見ていると、青年は立ち上がり、鞄ともう一つ、楽器が入っているのだろうケースを手にして、軽く会釈を寄越した。
「それじゃ、俺は行きます。話し相手になって頂いてありがとうございました」
「ああ、こちらこそ。有意義な留学生活を送ってくれ」
「ありがとうございます、そのつもりです」
「それじゃ、また機会があれば。『さようなら』」
 日本語で別れの挨拶を告げると、青年は一瞬目を丸くしたが、すぐにその表情を和らげた。
「ええ、『さようなら』。またお会い出来たら、その時に」
 ともすれば近寄りがたい、硬質な雰囲気を醸していた青年。その彼が向けてきた表情を見て、つい口が滑った。
「離れていても、心が繋がっていれば関係は変わらんさ」
 離れていても、絆は変わらない。たとえ一人でいても、互いを思いやる気持ちさえあれば、何年経とうと変わらないものがある。
 よく知った人間と同じ国の出身。年も背格好も近いというせいもあるだろう。内面に想いを抱え込むようなところも似て見える。更に言えば、少しはにかんだような優しい表情が、意外なほど重なった。
 お節介な上、らしくないとは思ったが、親近感に近いものが湧いてしまったのだろう。
 見知った人間との共通点を持つこの青年に、自分が深く実感していることを、柄にもなく伝えたくなってしまったのかもしれない。
 しかし言ってしまってから、大きなお世話か、と思わず苦笑が漏れた。
 対する青年は、驚いたように目を見張った後、瞬きを繰り返していた。そして言葉の意味を噛みしめるように、
『心が繋がっていれば…か』
 と、微かな声の日本語でゆっくりと呟いて。
「ありがとうございました」
 深く頭を下げた。
 微妙な居心地の悪さを感じつつも手を上げてそれに応えると、青年は頬に笑みを浮かべた状態でもう一度軽く会釈をしてから、背を向けて去っていった。
 大きなお世話には違いなかろうが、まあたまにはいいだろう。
 相手を、大切な誰かを信じること。それが何よりの強みとなるのは事実だ。

 青年の後ろ姿を見送ってから、ああ、と思い出す。
「そういえば、名前を聞かなかったな」
 だがそれも、彼がいつか一流の演奏者になる日がくれば分かることだ。
 あの青年なら、きっとそんな日も遠くないと思えるのは、単なる予感か気のせいか。
『ま、頑張れ』
 笑み混じりに小さく呟いた時、通りの向こうに青年の姿が消えていった。

【 遠き街にて /end. written by riko 】