無題
La corda d'oro
「好きって言葉に、魔法があればいいのにね」
腕の中から聞こえてきた声に、土浦は額に深い皺を刻んで、口を強く引き結んだ。
「…好きって繰り返して、縛り付けてしまえれば、いい」
どこか虚ろにも聞こえる声は、細く、そして。小さく、震えていた。
腕の中に収まる細く頼りない身体。
抱き潰そうとすれば、いとも簡単にそれが叶いそうな程。
「…ねえ、何とか言ってよ、土浦くん」
「何を、言えばいいんだ」
「慰めてくれるって、言ったじゃない。アイツに泣かされたら、いつでも言えよって…俺が、アイツをぶん殴ってやる、って、そう言ってたじゃない…!」
ドン、と拳が胸に当たる。
何度も、何度も。
声と同じように震える身体と拳を否定したがるように、その動きは止まらない。
避けることも、咎めることも、土浦はしなかった。
ただ、ぶつけられる感情を受け止めるかのように、じっと動かずに、緩く、細い身体を囲った腕はそのままに。
やがて、胸を叩いていた拳は、布地を強く掴んだ。
「……っ…!」
嗚咽に混じって、微かな、けれども悲鳴のような声が迸った。
「置いて、いかないでよぉ…っ!」
決して、言わなかっただろう。
きっと、笑顔で。
物分かりのいい顔をして。
ああ。俺には、容易に想像出来る。おまえは、そういうやつだ。
どんな顔で、あいつはそれを見ていたのだろう。
分かっていたはずだ、あいつも。
おまえのそんな強がりくらい。簡単に見抜けて、当然だ。
だが、それでも――。
「忘れちまえ」
一瞬、時間が止まったように、嗚咽が止まる。身体が硬直する。
すぐさま、大きく首が横に動いた。艶やかな髪が、大きく流れる。
「…それが…出来たら…っ!」
それでも、あいつは。
「おまえより、音楽を選んだんだ」
「いや、言わないで…!」
「おまえといることよりも、ヴァイオリンを」
「言わないでって、言ってるのに…!」
どん、と突き飛ばすように腕の中から飛び出した彼女の瞳には、憎悪にも似た色。濡れた瞳と頬を拭いもせず、正面に立った。
「みんな、嫌い…!私を置いていってしまうあの人も、そんな事を言う土浦くんも、みんな、大嫌い…!」
高い声で叫ぶと、踵を返して走り去っていく。
土浦はそれを引き止めようとはしなかった。
あいつは離れてもおまえのことを想っている。
離れたくらいで、壊れるような仲じゃないだろう。
だから泣くな。
そう言って、泣いている彼女を、もっと優しく慰めることも出来ただろう。だが土浦は、そうしたくなかった。
忘れさせたかった。
別れを決意することで、身が切られるような思いをしたに違いない人物を。
それでも――どんな痛みに斬りつけられようと、音楽とヴァイオリンの高みへと歩き続けるだろう、一人の男のことを。
彼女の将来と未来を縛らないために、たった一言の約束すらしていないだろう、生真面目な男のことを。
「たとえ、卑怯だと言われても」
今はまだ、無理だとしても。
「俺は、良いお友達でいる気は更々ないんだ」
手に入れてみせる。
永劫変わらぬように見えた天秤の傾きは、きっと変えられる。変えてみせる。
月森、悪く思うなよ。
そう。
どんな理由があるにせよ、香穂を手放した、おまえが悪い。
【 無題 /end. written by riko 】