プラチナ
La corda d'oro

「土浦くん!」
 授業を終えた土浦梁太郎は、部活に行こうと教室を出た所で声を掛けられ、後ろを振り向いた。
 立っていたのは、同じ普通科の女生徒だった。去年同じクラスで、それなりに話していた相手だ。クラスが離れてからは、殆ど会話することはなくなっていたが。
「ああ、なんだ。久しぶりだな、どうした?」
「えっと…その、少し話があるんだけど……」
 俯き加減で顔を赤らめている彼女を見て、土浦は瞬時に話とやらの内容を悟った。
 ――これはちょっと、まずいんじゃないか。
「ここじゃなんだから、少し付き合ってくれない…?」
 これから部活があるんだ、と言って先延ばしにしたところで、これで終わりではないだろう。いつかは来ることならば、早めに済ませておいた方がいいに違いない。自分の為にも、きっと、彼女の為にも。
 そう思って、土浦は頷いた。
「ああ、分かった」


  ◇


「そういえばさ」
 もぐもぐと口の中のモノを咀嚼しながら、香穂子が言った。
 普段から、女らしいとは口が裂けても言えない言動の持ち主だ。もし、女らしさをパーセンテージで計る機械なんてものがあったら、おそらく香穂子のそれは十パーセントにも満たないだろう。一応恋人にいる立場の土浦が言い切るのは大分哀しいような気もするが、自信を持って断言出来るほど、香穂子には女らしい言動や配慮は期待出来ない。
 それをよく分かってはいたが、いくらなんでも行儀が悪いだろ、と土浦は溜息混じりに言った。
「……お前も一応女なんだから、物食ってる時に喋るのはよせ」
「一応ってなんなのよ。どこからどう見ても女じゃない、失礼な」
 ふん、と軽く鼻を鳴らし、香穂子はペットボトルのお茶を一気に喉に流し込んだ。
「…見た目だけはな」
 土浦がぼそりと呟いた途端、香穂子が右手を振り上げて、持っていた何かを投げつけた。ピッチャーなら、セットポジションなしでボークを取られていること間違いなしだ。
 弁当箱を抱えていたせいで咄嗟の判断に迷った土浦は避けそこね、見事その直撃を受ける。
「っ!」
 額にぶち当たってから食べかけの弁当箱の中に転がり込んできたモノを見つめて、土浦は再び大きく溜息をついた。
 じんわりとした痛みはあるが、ものがものだけに大したことはないのが幸いか。
「おまえなあ…」
「口は災いの元って言葉知らないの?」
「おまえ自身が災いだろ、この場合」
 そう言いながら、土浦はプラスティックで出来たペットボトルの蓋を指でつまみ上げ、香穂子のスカートの上に放った。何もなかったように蓋を閉めている香穂子は涼しい顔。
「こんなもんで済むなら可愛いモンじゃない」
 人に物を投げつけておいてこの態度。さすがの土浦も脱力せずにいられない。
「俺は常識的なことを言っただけだろうが」
「ああ、モノ食べてる時に話すな、ってやつか。うん、確かにそれはそうよね。これからは気を付けるようにするわ」
 納得したように言った香穂子に、土浦が頷きかけた時。
「だからといって論点をすり替えるな」
 にっこりと香穂子が笑って、土浦の弁当箱からだし巻き卵を略奪する。丁度それに箸を伸ばしかけていた土浦が、あ、と声を上げた。
「おい香穂、さっきから卵ばっかり持ってくな!自分のは既に食っておいて!」
「いいじゃないのよケチくさい。男が卵焼きの一個や二個でぐだぐだ言うな」
 結局、入れてきた卵を全て奪われた土浦は仕方なしに、卵が入っていたスペースの横にある、がんもの含め煮を口に運んだ。
 そんな土浦の様子を気に留めることもなく、香穂子は幸せそうに卵を頬張っている。おいしー!と幸せそうに綻んだ顔を見られるのは、土浦としてもやぶさかではなかったのだが。
「……今日は特に上手く焼けたからな」
「うん、すっごい美味しい。明日もコレ入れてね」
「そうしたらまた俺の分まで食うのかよ」
「だって美味しいんだもん、梁のだし巻き卵」
 全部美味しいけど、特にコレが好き。と笑う香穂子を見ていると、まあいいか、と思えてくる。自分が作ったものを喜んで食べて貰えることは、事実嬉しいことに違いない。
「……仕方ないな、作ってきてやる」
 表面だけは不承不承という様子で頷いた土浦に、香穂子は「ありがとね」と満足そうに微んだ。
 しかしそのすぐ後で、眉を跳ね上げ、口の端を上げただけの、笑みらしき表情を作った。目が全く笑っていない分、普通に睨むよりよほど迫力がある。
「で、梁太郎くん?」
「……なんだよ、くんとか言うな。気持ち悪ぃだろうが」
 僅か怯みながらも、土浦はそれを表には出さずに、いつもの口調で言った。しかし香穂子はそれを見透かすようににっこりと微笑んだ。
「論点すり替えんなって言ったでしょ。一応とか見た目だけとか、一体アナタは私をどう見ているのかしらー?」
 土浦が、眉間に皺を寄せる。
 香穂子のこんな表情を見た時にはロクなことにならないからだ。
 一応、その言葉に対しての報復は既に受けているはずだが、ペットボトルの蓋をぶつけただけでは足りなかったのだろうか。
「どうって…」
 どうもこうも、そのままの意味だ、と口にしようとも思ったが、なんとなく今は言ってはマズイ気がして言葉に迷う。
 すると今度は、香穂子の顔が能面のような無表情に変わった。ある意味百面相で面白いのだが、今の土浦には、笑うだけの余裕は残されていない気がする。
「おい、香穂」
「暫く私に触んないでね」
「は!?」
 突然の宣言に声を上げると、香穂子は無表情なまま、じっと土浦を見つめる。
「だって、さっきのって、そういう意味よねぇ」
「何がだよ!」
「女らしくないのは認める。うん。でも、それってカレシとしてどうなのって台詞じゃない?」
「……おまえ自身で認めてるならいいじゃねぇか」
「はい、減点〜。デリカシーってモノを学べ、梁太郎」
「…言うに事欠いて、おまえがデリカシーとか言うか?」
 それはまず自分に言え、と言いたくなる。何よりも、香穂子の口からデリカシーという言葉が出てきた事自体驚きだ。彼女の辞書にある言葉だとは思っていなかった。
 そう思った土浦の前で、香穂子が、パコン、とまだ中身の残っている弁当箱の蓋を閉じる。
「減点2。ナチュラルに人の神経逆撫でしてくれてありがとう」
 さっきまでは意識してそう見えるように作っていただろう香穂子の表情が、あからさまに不機嫌そのもののそれに変わっていた。それに気付いた土浦が、フォローの言葉を紡ぐより早く、香穂子が次の言葉を継いだ。
「今更冗談だったとかそんなことないとかそれほどでもないとか、適当にフォローしようとしても遅いからね」
 完全に先を越された形で言葉を飲んだ土浦をジロリと睨みながらも荷物を素早く片付けて、香穂子は立ち上がった。
「ちょっと待てよ香穂!」
 香穂子に倣って立ち上がろうとしたが、未だ膝の上に弁当箱を乗せたままだったせいで少し手間取っている間に、香穂子はすたすたと歩き、屋上のドアを開けていた。
「一応じゃなくて見た目も中身もちゃんと女の子してるのがいいなら、昨日の子と付き合ったらー?」
 昨日の子、という言葉に反応して一瞬固まった土浦を置いて、じゃあねー、と背を向けたまま手を振った香穂子は、振り向くことなくドアの向こうに姿を消す。
「香穂!」
 土浦も、慌てて荷物を抱えてその後を追った。

「香穂、おい、香穂って!」
 後ろ姿に声を掛け、走り寄って肩を掴む。
「何をそんなに怒ってるんだよ。つーか、何でおまえが昨日のこと知ってるんだ」
 肩を掴まれたことも気にせず、香穂子はずんずんと歩いていく。仕方なく土浦は手を離し、並んで歩きながら聞いた。香穂子は全く土浦の顔を見ない。そのせいで香穂子の表情は、土浦には分からなかった。
 だが、特に無視するわけでもなく、香穂子は口を開いた。
「教室出たところで掴まってりゃ、噂にもなるでしょうよ。あの子結構人気あるのよー?知ってた?」
「…一応はな」
「モテる男は辛いわねぇ」
 皮肉めいた言い方に、さすがの土浦もカチンと来る。
「俺は、ちゃんと断ったぞ」
「そうみたいね」
 断りもしないでいつも通りに過ごされてたまるか、と悪態をつく香穂子に土浦は聞いた。
「それが分かってて、何が気に食わないんだ。いつもなら軽く流す台詞にらしくなく過剰反応したのも、それが原因か?」
 自分で言ってから、土浦は、はた、と気付いた。
 これは、もしかして妬いている、というやつだろうか、と。
 考えて、ひどく驚いた。
 この香穂子が、ヤキモチ?
 ―――ありえない。
「……まさか、な」
「なにがまさか、よ。どうでもいいけど、私次の授業体育だから着替えなきゃ。どっちにしろ早めに戻ってくるつもりだったの。悪いけど、独り言聞いてる暇はないから」
 棘のある言い方に腹は立ったものの、そういう事なら仕方ない。
 土浦は、分かった、とそれ以上の言葉を重ねることを諦めた。
 今日は部活がない。昨日の段階で放課後の練習室は抑えてあった。そこで続きを話すことを約束し、ちょうど普通科棟に戻ってきた二人は、各自の教室に向かって歩き出した。


  ◇


「悪い。俺、付き合ってる奴がいるから」
「…知ってる。日野さんでしょ。コンクールで結ばれた二人ってことで、有名だから」
 でも、と彼女は顔を上げた。
「私には、彼女が土浦くんを大事にしてるように思えない。日野さんのことが嫌いなワケじゃないから、こんなこと言いたくないけど…それほど、土浦くんを好きなようには見えないの。他の男の子と仲良くしたり…お弁当だって、土浦くんが毎日彼女の分まで作ってきてるんでしょ?普通なら、そういうことって女の子がするものじゃないかな」
 土浦は、苦い思いで彼女を見下ろした。

 端から見れば確かに、香穂子の態度はそう見えるかもしれない。
 彼氏である土浦と、他の男子生徒に対する接し方に大した差は見られないし、コンクールに参加した他の男連中との交流も変わらず、土浦がいない所で彼らと一緒に練習や合奏をしていることもある。
 だが、それは香穂子の性格であり、個性だ。
 土浦自身、そんな状態に全く妬けないというわけではなかったが、彼らの香穂子に対する感情がどうあれ、香穂子を信用していた。
 弁当に事に関しても然りだ。
 香穂子が美味しい、と単純に喜んでいる顔を見たくて、土浦が好きでやっていることだ。あれこれと遠慮もせずに要求してくる香穂子のわがままを叶えてやれるのが自分であるなら、それすら嬉しいと思う。

 土浦の渋面顔に気付いているのかいないのか、彼女は必死な顔で言葉を紡いだ。
「私、日野さんより土浦くんの事が好きだって自信ある。去年からずっと好きだったの。今土浦くんが日野さんのことを好きでも、ずっとそうだって保証はないでしょう。もし」
 それを、土浦は遮った。
「俺は、あいつに好かれたから好きなんじゃない。俺が、あいつのことを好きなんだ」
「だけど、それがずっとだなんて言えないでしょう、別れた時にでも、私のことを思い出してくれたら、」
「…悪いが、あいつ以外の女とそういう事は考えられない」
 彼女の顔が照れ以外の感情でカッと赤らんだ。
「どうして?ただ単に、コンクールで一緒になっただけでしょう。土浦くん、伝説に踊らされているだけじゃないの?そんなの、土浦くんらしくない!」

 伝説か。と土浦は苦笑を漏らした。
 確かにコンクール中、そんな話を聞かされたことがある。
 バカバカしい。
 そんな伝説がなんだというのだ。
 惹かれたのは、香穂子自身の強さだ。何にも屈しない、しなやかで強い精神力と、真っ直ぐな気性。明るい笑顔。強気な言葉も態度も、裏のない潔さの表れだ。
 それらを紡いで流れ出す香穂子の音は、土浦を強く惹き付けた。
 どんな時でも逃げ出さず、顔を上げ続ける香穂子に、土浦は多くのことを学び、思い出させて貰った。忘れようとしていた音楽への情熱も、そこから背を向けていた自分の弱さにも。
 誰に強制されたわけでも、けしかけられたわけでもない。

「俺は―――」


  ◇


 練習室に入ったのは、土浦が先だった。HRが長引いたから先に来ているかと思って向こうの教室には寄らなかったのだが、二組は更に長引いているのか、どこかに寄り道でもしているのか。
 まあその内来るだろう、と、荷物を置いて、ピアノの蓋を開け、鍵盤の上に指を滑らせる。
 軽く指慣らしをしてから曲を弾き始めた所で、ドアが開いた。
「続けて。その曲好き」
「了解」
 香穂子の簡潔な言葉に、土浦も簡潔な言葉で返し、その一曲を最後まで弾ききった。
 拍手の音に振り返ると、香穂子は軽く眉を跳ね上げた。
「どうぞ、練習続けて?」
「機嫌は直ったのか?」
 どう考えても適切じゃないと思ったが一応そう聞いた土浦に、香穂子は口唇の端だけを上げて笑う。
「さあ?」
 土浦は、大きく息を吐き出した。
「……なあ。そんなに気に食わなかったか、昼のこと」
「ひょっとして誰かと比べられてんのかなーとか思ったら、いくらなんだって気分悪いと思わない?」
「いつ俺がおまえと他の奴を比べたんだよ」
 香穂子が一瞬何かを言いかけ、口を閉じる。そのまま悔しそうな表情で歩き出し、前髪をくしゃりとかき回しながらピアノに寄りかかった。土浦に背を向けた状態で腕を組み、爪先の辺りを見ながら言った。
「…私自身は、絶対に変われないし、変わりたくもないけど」
 トーンの低い声。
「今日学校来て、友達に『土浦くん告白されたみたいだよ』とか聞かされて、しかもそれが私と正反対の可愛い女らしい子で。それだけなら別に『へーそうなんだ』で済むことだし、梁太郎があの子になびくとかそんな事はどうでもいいんだけど、よりによって今日の今日であんな台詞言われると、ちょっとカチンと来ると思わない?」
 どうでもいいのかよ!と突っ込みたくなる気持ちを抑えて、土浦が聞き役に回る。こういう時の香穂子は一通り最後まで喋らせた方がいいことを、土浦は学んでいた。
「とりあえずやることやってるにも関わらず、一応とか外見だけとかの言い分はなんなのよ、一体。単なる男友達に言われるなら腹も立たないけど、これでもそれなりに女として誰かのことを好きでいるんですけどね。それとも、ただの友達でいたいって希望するなら、そうしても構わないけど。なんだかんだと、おモテになるようですし、私と違って、ちゃんと女らしい子から」

 土浦は、咳払いしながら、口元を手で覆った。
 ありえない、と思った。だが、この言い方では、他に考えようがない。
 香穂が、嫉妬?
 そう考えただけで、顔が熱くなる。
 椅子から立ち上がり、香穂子の腕を捉えた。

「俺は…」

 ―――どんなお前でも、好きだから。

 腰を屈めた土浦は、香穂子の耳元で小さく囁いた。
「…っ!」
 声を直接吹き込まれた耳を抑え、香穂子は飛びすさるように離れて、土浦を見た。不意打ちであったせいか、真っ赤に染まった顔で口を開く。
「…な、バッカじゃないの、いきなり言う?そういう台詞を!」
「…今言わないで、いつ言うんだよ。これ以上不毛な喧嘩してても仕方ないだろ」
「…っ、だからってね!」
「……香穂」
 ずい、と一歩で距離を縮めた土浦から、香穂子は逃げた。近付いては逃げる、を繰り返し、とうとう香穂子は壁際に追いつめられた。ドン、と両腕を顔の脇に突き、逃げられないようにしてから顔を近付ける。
「何するつもりよ、こんなとこで欲情すんな馬鹿!」
 土浦の身体を腕で押しのける香穂子の力を物ともせず、土浦は香穂子の首筋に顔を埋めた。
「おまえが昨日のことを知ってるとは思ってなかったし、ましてそんなことで比べる比べないの話に発展させるとは思ってなかったから。少し不用意なことを言ったかもしれないな、悪かった」
 土浦の囁きで、香穂子の腕から、ふっと力が抜ける。
「馬鹿な奴だとか思ってんでしょ」
 私も自分で言っててアホだなーとは思ってるけど、と嘆息した香穂子に、土浦は「いや」と微かに首を振った。その拍子に、土浦の髪が首に触れ、香穂子が首を竦める。が、土浦は香穂子を腕の中に閉じこめたまま。
「馬鹿だなんて思っちゃいない。…正直、少し嬉しかったしな」
「…あ、そう。じゃあ、また今度おでこに蓋ぶつけてあげるよ」
「何でそうなるんだよ」
「痛いのが好きなんじゃないの?梁太郎がマゾだったなんて初耳だわ」
 香穂子らしい照れ隠しに、土浦は小さく笑った。
「なあ、香穂」
 穏やかな優しい声音に、香穂子は「なに?」と尋ねた。
「俺達、まだ高二だろ」
「……は?自分の歳も学年も忘れたの?」
 呆れたような返事に、土浦が苦笑を漏らした。
「いや、そうじゃないけどな。たださ、まだ先なんて見えないし分からないよなって思ってさ」
「そりゃそうでしょうよ。この歳で人生悟りきってどうすんのよ」
「……そうだよな」
「なによ、本当にどうかしたの?おかしいよ、梁太郎」
 僅か不審げで、それ以上に心配そうな声。ふ、と土浦の頬に笑みが浮かぶ。
「どうかしてるな、確かに」
「だから一体なんなのよ、一人で会話しないでくれない?」
 不気味なんだけど、と断じられ、土浦はくっと肩を揺らして笑ってから、香穂子から離れ、背を向けてピアノの椅子に座った。

 どこか哀しげで柔らかく、美しい旋律が流れ出す。
 見た目とは裏腹に、意外にも優しく繊細な音を奏でる土浦の指先。
 元々は力強く情熱的な演奏を好む土浦だったが、ここ最近はこうした演奏も多くなってきている。それが何によるものなのかを、土浦自身は良く分かっていた。

「なあ、おまえは、変わらないもの、ってあると思うか?」
 リストの『愛の夢』。
 それを奏でながらの問いかけは、どちらかと言えば軽い口調だったが、香穂子の耳には、それが深く重い響きで届いた。
「…変わらないもの?」


  ◇


「俺は、香穂が好きだ。香穂以外の奴を、好きになること自体が考えられない。少なくとも、今の俺には」
「…変わらない気持ちなんて、ないわよ!」
 涙目でそう言った彼女に、土浦は僅かの間、目を瞑り。そうだな、と頷いた。
「確かに、そうだよな。分かってるさ」
「だったら…!」
「それでも、今の俺は、香穂のことだけで手一杯なんだ。それ以外の先の事なんて考えられないし、考えたくもない」
 土浦がそう言うと、彼女はこぼれ落ちた涙を拭いながら、走り去っていった。
 女を泣かせることは趣味じゃない。だが、こればかりは仕方ない。
 校舎の壁に背を預け、土浦は空を仰いだ。

 ―――変わらない気持ちなんてない、か。

 呟きながら、息を吐く。
 そんなことは分かっている。今のこの気持ちがずっと続くなんて保証はどこにもない。
 それでも。

 変わらないでいたい、と願うこの気持ちだって、真実だ。

 ―――なあ香穂。おまえは、変わらない気持ちがあると思うか?


  ◇


「そんなもの、ないんじゃないの?」
 香穂子のためらいもないアッサリとした返答に、土浦は苦笑を漏らすしかなかった。
「…ま、そうだよな」
「万物は流転する、って言うじゃない。諸行無常とも言うか」
 特に感慨深げでもない声に、そうだな、と再び頷く。
 が、香穂子の言葉には続きがあった。
「変わらないものなんてないけどさ、変わり続けるものの中で変わらないものってのはアリだと思うよ」
「どういうことだ?」
「うーん、自分で言ってて良く分かんないけど。何て言うか、少しずつ形は変わっていくだろうけど、芯みたいなもの?芯って言うか、核っていうか。その本質っていうのは、多分残り続けるんじゃないのかな、と勝手に思ってみた」
 たとえば、人の気持ちとかね、と、グランドピアノに頬杖をついた香穂子は、土浦の顔を見て笑った。
「変わってしまうかもしれないけど、その時にあった気持ちって、絶対に残るでしょ。想い出とでも言いましょうか」
「……想い出、か」
「でも、変わらなければ、いいね」
 土浦の指が止まった。香穂子の顔を凝視する。香穂子は笑いながら、そんな土浦の手元を指差した。
「弾いてよ。『私の愛は、常に音楽によって表現されている』でしょ」
 リストの台詞を引用する香穂子に、土浦は苦笑しながら演奏を再開した。
「縁起でもない選曲だったか。別れた女を想って作った曲だもんな」
「いいんじゃないの。それだけ人を好きになれるって凄いじゃない」
「なあ、さっきの」
 変わらなければいい、と。
「俺も、同じ気持ちだ」
 うん、と香穂子が頷く。
「確かに、この歳で人生悟っても仕方ないと思うけどさ、この歳だから言えることもあると思わない?」
「ようするに、無鉄砲で物知らずってことか」
 互いに吹き出して笑い合ってから、香穂子は言った。
「出来れば、一緒にいたいね、ずっと」
「ああ、そうだな」


 変わらない気持ちなんてない。
 それはそうかもしれない。
 だけど、信じてみるくらい、いいんじゃないかと、おまえは笑うから。

 そうであればいいと願う。
 この曲を、想い出を抱えて奏でるのではなく、おまえの側で弾いていられることを。

【 プラチナ /end. written by riko 】