金色のコルダ 月×日本 「眩暈の檻」 より
序章 わすれえぬ面影
La corda d'oro

 月森蓮が初めて彼女を見た時、彼女はずっと俯いていた。
 俯いたまま、何かを必死に堪えるように、きつくヴァイオリンケースを握りしめていた。
 艶やかな長い髪に隠された表情は分からない。
 が、放課後の音楽室。その隅の方に、ひっそりと立っていた彼女からは、人を拒絶するような雰囲気が放たれていた。

 普通科の制服と、ヴァイオリンケース。
 その組み合わせがひどく違和感を伴ったせいだろう、目に留まったのは。
 が、見知らぬ人間を気にする必要などないはずだし、ただでさえやるべきことは山程ある。時間は有限だ。
(……俺には、関係ない)
 そう思ってその場を離れても、手にしているのが同じ楽器だったからなのか、それとも――彼女が発していた鋭利な空気にあてられたのか。
 明確な理由など分からないまま、しかしその姿は消えることなく月森の脳裏に焼き付いていた。

 それから数日後。
 練習室に向かう途中で、月森は再び彼女を見かけた。
 音楽科棟に普通科の制服は目立つ。それまでにただ一度見かけただけだが、すぐに彼女だと分かった。持っていたヴァイオリンケースが同じだということもある。
 しかし、それがなくても分かっただろうという、奇妙な確信を得ていた。
 そう。
 それが、普通科の生徒が大勢いる中だったとしても。きっと分かった。

 根拠などない。なんの前触れもなく、特別な意識もせず、ただ、そう思った。そんな自分に、驚きと不快感が湧き上がった。
(だからどうだと言うんだ…。俺にはどうでもいいことだ。関係ない)
 今しがたの思考を払うように月森は首を振り、小さく息を吐く。

 数歩前を歩く後ろ姿は、この間のような人を寄せ付けない雰囲気を感じさせることはなく、ごく普通の女生徒と変わらなく見えた。特に注視するつもりではなかったが、前を歩いている以上、嫌でも目に入る。
 そのまま歩いて練習室棟に入り、並ぶドアの前にさしかかった時だ。
 彼女が練習室の番号を確かめるためだろう、視線を動かした。その拍子にさらりと髪が流れ、横顔が視界に入る。それを目にした途端、月森は息を飲んだ。
 一瞬、見間違いかとも思ったが、長い髪を少し邪魔そうにかき上げる仕草で、完全に顕わになった秀でた額。頬から顎にかけてのライン。その横顔は、紛れもなく。

(……日野、香穂子…っ!)

 知らず喉から迸りそうになる声を抑えることにはなんとか成功したが、それ以上足を進めることが出来なくなっていた。
 側に、行ってはならない。
 頭の中から、警鐘が響く。
 だめだ、彼女に、会ってはならない。
 足は完全に止まっていた。動くことが出来なかった。
 そんな月森には全く気付かず、彼女は、ある部屋の前で立ち止まると、再び上部にある番号を確認してからドアを開け、その中に吸い込まれるように姿を消した。

 彼女の姿が消えたのを確認してから、月森の足がようやく動き出す。
 しかしその歩みは、常の月森からは考えられない程に緩慢な動作だ。まるで、一歩ごとに脳に対して命令を加えつつ、ようやく歩いているような、不自然な動き。
 さほど長くもない距離を通常の倍以上の時間をかけ、月森も目的のドアの前に立った。
 先程、彼女が消えた部屋の、隣。そこが、本日月森に割り振られた練習室だった。
 そろりと、ドアの取っ手に手を掛ける。
 そこまではまだ良かった。が、いつものようにそれを開ける動作に対する命令が、手の神経に伝わってこない。
 ――脳が、拒絶しているのか。このドアを開けず、今日はこのまま帰れ、と。

(……まさか、彼女が)
(なぜ、この学院に)
(いつから…最初から?)
(見間違いだろうか)
(見間違えるはずなどない)
(なぜ断言出来る、どれだけの時間が過ぎたか)
(時間が過ぎた?)
(――二年だ。それほどの時間ではない)
(何よりも、時間が過ぎたとはいえ、人違いをするか?)
(俺が、彼女を、見間違える?)

               ―――有り得ない

 あの奇妙なまでの確信。
 それは、ここにあったのか。

(有り得ない。俺が、彼女を見間違えることなど。絶対に、ない)

 たとえどれだけ、時が過ぎようとも。

(彼女が、すぐそこにいる)

 どのくらい逡巡していたのか、月森自身には分からない。ひどく長い時間に思えたが、実際には大した時間じゃなかったのかもしれない。人が集まってくる放課後の練習室棟に、それまでは人影がなかったのだから。
 が、同じ様に練習室を使うためにやってきたのだろう他の生徒の足音を耳にした時。
 月森の脳は、自身の身体に命令を伝えた。
《ドアを開けて、中に入れ》
 ――と。
 もう一つあった選択肢。《このまま、踵を返せ》ではなく。彼女から遠ざかれ、ではなく。
 彼女の使う部屋の、隣に入れ、と。

 だからおそらく。
 きっと自身が望んでいたのだと、月森は理解せざるを得なかった。
 自身が望んだのだ。

 もう一度、あの音を。彼女の音を、耳にすることを。

 練習室に入り、ドアを閉める。重いドアの音がやけに大きく響く。

 ここは、完全防音だ。隣の部屋から聞こえてくるわけもないのに、今にも、調弦の音がこの耳に届くんじゃないかと思えてくる。
 もう二度と聴くことが出来ないと思っていた、あの音が。

 どくどくと、心臓が勢い良く全身の血を巡らせる。
 あまりにも激しい動悸が、封じ込めていた記憶すら、全身に巡らせていく。

 忘れることなど出来ない。出来るわけが、なかった。
 辛うじて記憶の奧に封じ込めることが、やっとだったのだ。普段想い出さないでいることが可能になったのは、最近になって、漸くのことだ。
 それなのに。

 襲ってくる全身の震えを抑える術を持たず、月森は練習室の床に膝を付いた。

「……何故、君がいるんだ。こんな所に……!」



序章 わすれえぬ面影


書いたのは2発売前の上、色々捏造しているので、相当ココロの広い方向けではと思われます。 ものっそ長いですし。ウチで一番長い「月夜の晩に」の約5.5倍の文字数。 今までに頂いた感想では、読み終えるまでに2時間からそれ以上かかるらしいです。(…長過ぎ)
【 眩暈の檻より『序章 わすれえぬ面影』 /end. written by 紗月浬子 】