陽炎
La corda d'oro

 ここのところ寝不足続きで、今朝も体調がいいとは言えなかった。
 それでも貧血を起こすほどではないと思っていたのに。
 買い物になんか、出るんじゃなかった。そう思っても時既に遅し。

 ゆらり、と視界がぶれた。
 閑静な住宅街、真夏の昼日中という人通りの少ないこんな時に、倒れたら。
 考える側から急速に力が抜けていく感覚と、視界の裏に、白いハレーション。
 ああ、崩れ落ちる。
 ぐらりと傾いていく自分の身体を、まるで他人のもののように感じた。
 ―――気持ち悪い。
 それだけ思って、意識を半分手放した、その時だった。

「大丈夫か!?」

 慌てたような声と共に、誰かの体温を感じる。
 背中から、力強い腕に支えられているのが分かった。
 誰だろう、と思ったが、吐き気がひどくて考えられない。
「貧血…それとも熱射病か」
 近いけれど、どこか遠くから聞こえてくる声には、確かに聞き覚えがあるのに。
 ひやりとした手が、額に当てられる。
 この暑いのに、なんて冷たい手。
 ああ、冷たい手の人は、心が温かいって。そういえば、よく。

「……日野、大丈夫か?」

 段々戻ってくる視界と意識。心配そうな声と表情。
「…月森くん…」
 思ってもみない相手に、思わず身体が強張った。
「どうして、ここに…?」
 絞り出した声は、我ながら覇気がない。……情けない。
「たまたま通りかかっただけだ。前にも言ったことがあると思うが、ここは俺の家の通り道でもあるから」
「そういえば…」
 そうだった。
 コンクールが終わってからは、話す機会も、こんな風に道で会うこともなくなっていたから。
 少し首を回して目に入ったのは、いつものヴァイオリンケースと、楽器店のビニール袋。大きさからして楽譜かもしれない。買い物の帰りだろうか。

 道の片隅で、膝を付いた彼に抱き留められていることに、今更のように気付いて恥ずかしくなる。
 同時に、迷惑を掛けてしまった、とひどい罪悪感に駆られた。
 今すぐ立ち上がって「もう大丈夫」と言いたいのに、力の入らない、小刻みに震える身体が厭わしい。
 それなのに、彼は迷惑そうな顔一つせず。
「顔色がひどいな」
 ただ、至極心配そうに見下ろしてくる表情を見て、いたたまれなさに目を瞑った。
「ごめんなさい」
「気にしなくていい」
「でも」
「そんなに真っ青な顔をして、謝る必要はない。辛いのは君だろう」
 向けられる言葉に、涙がこぼれそうになる。
 そっけない言い方の裏に、分かりにくいけれど、確かな温かさ。
 もう二度と向けられることなどないと思っていたのに。
 どうして、今。
「月森くん…ごめん、大丈夫だから」
 全身に残る力を総動員して、一人で立とうとした。少し休んだおかげで、無理をすれば、出来なくはないだろうと分かっていたから。
 けれど。
「馬鹿を言うな。どこが大丈夫なんだ」
 ぐい、と引き戻されて、腕の中に包まれた。
 一瞬、身体の震えすら止まるほど。疑いようもない確かな意志を感じるほどに、強く抱き締められていた。
「…つ、月森くん、」
「逃げるのか、また」
「…っ!」
 耳にかかる、低い声。
 先程までの心配そうなものとは打って変わった、怒りすら含んだそれに、息を飲んだ。
「俺から、また逃げるのか」
 繰り返される言葉に、何を言えばいいのか分からなかった。
「あれから一度も向き合うことなく、ただひたすら避けられ続けた俺の気持ちを考えてくれたことがあるか?」
 身体を包み込む腕の力が強くなる。息が苦しくなる程に。
 けれど、そんな痛みよりも、紡がれる言葉に胸が苦しくなった。
 ヴァイオリンをやめた私を、彼が気にする必要などないはずだ。
 不純な動機でヴァイオリンを弾いていた私には、彼に気に掛けてもらうだけの価値なんてないのに。
「離して…月森くん、離して」
 ここにいてはいけない、とだけ、強く思った。
 こんな場所で、こんな声で、そんな事を言われたら。
「離さない、と言ったら」
「困る…!離して!」
 もう、身体の不調なんてたいしたことじゃなかった。
 浅ましい自分を告白させられるくらいなら、這ってでも逃げなくては、と思った。だが。
「……君はそうやって、また俺を切り捨てるんだな」
 低い呟き。
 なぜ。今そんなことを言うの。
 一気に、頭に血が上った。
「どうして…。月森くんを切り捨てるとか、切り捨てないとか!私達は、そんな関係じゃないじゃない…!」
 私の言葉に怯んで腕の力が緩んだ隙に、そこから逃げ出した。
 まだ頭はふらつくけど、立てない程じゃない。
 そうなるまで支えてくれていた彼に感謝こそすれ。
「抱き締めたりしないでよ、私のことなんて何とも思ってないくせに!私自身のことなんて、見てくれてもいなかったくせに…!」
 こんな風に、言葉を投げつけていいはずがないのに。

 ――ああ、最悪だ。
 こんな形で、彼に八つ当たりするようなことになるなんて。
 馬鹿なのは、私なのに。
 勝手に惹かれて勝手に想って、醜い程に自分勝手な自分を知られたくなくて、自分から離れたくせに。
 私には、彼にそれを要求する権利なんて、これっぽっちもないというのに。

 彼は、驚いたように目を見張り、瞬きすらせずじっと見つめてくる。
 息が、苦しい。
「……そんな目で、見ないでよ。私は月森くんにそんなことを言って貰えるような人間じゃない。音楽を好きとか、そんなことよりも、月森くんに近付きたくて弾いてただけなの。私には、ヴァイオリンを弾く資格も、月森くんの側にいる資格もない」
 貧血を起こして、完全に回復したわけでもないのに、大声を出した所為だろうか。頭がふらついて、立っていられない。
 道路の脇にもう一度しゃがみ込むと、慌てたように彼は腕を伸ばしてきた。その手を、寸前でたたき落とす。大した力ではなかったはずだが、想像もしていなかった反応だったからか、息を飲み硬直しているのが分かった。自分でも酷いと思う。それでも言わずにいられない。
「触らないで」
「日野!」
「これ以上、私に優しくしないで。こんな私は、放っておいて。あなたが気にする価値なんて、私にはないんだから…!」
 自分で言っておきながら、吐き気がする。
 なんて自分勝手な言い種だろう。助けて貰っておいて、礼の一つも言わずに喚き散らして。
 最悪だ。
「お願い、もう大丈夫。少し休んだら帰れるから。私のことは、放っておいて」
 最後は、掠れてまともな声にならなかった。
 涙が落ちる。こんなところで泣くなんて卑怯だと分かっているのに、止まらなかった。涙腺を押し上げて湧き出してくる雫が、乾いたアスファルトを濡らしては、またすぐに乾いていく。
 視界の端にある彼の脚は、動かなかった。
「……行って。こんな所、見ないで」
 必死に声を絞り出しても、同じ。
「お願いだから、私のことは放っておいて!」
 我慢出来なくて叫んだ次の瞬間、私は再び彼の腕の中にいた。
「いいかげんにしないか」
「……な、んで…!なんで、放っておいてくれないの!同情?憐れみ?泣いてる女を放っておけないだけ?随分と優しいのね!」
「大声を出すな。余計に具合が悪くなるだろう」
「…っ、冷静に、そんなこと…っ!」
「冷静?」
 彼の声が戦慄いたように思えた瞬間。
「冷静でいられると思うか?」
 ぐい、と顔を上げさせられる。間近にある彼の顔は、ひどく紅潮し、強張っていた。意外な表情に目を奪われて、涙に濡れた顔を拭うことも出来ず、瞬きすら忘れた。
「君の勝手な言い分は分かった。俺の気持ちなど全く考えず、自分一人の考えに固執して悲劇のヒロインを気取るならそれでもいい」
 顎を掴まれる。優しさの欠片もない仕草に、硬直した。
「だが、君に避けられ続けてきたこの一ヶ月、俺がどんな思いでいたか、それを知らない君に俺自身のことをとやかく言われる筋合いはない」
「……月森、くん」
「ヴァイオリンをやめたければやめればいい。俺を避けたいなら避け続ければいい。君がそうしたいなら俺は止めない。だが、これだけは言っておく」
 降り注ぐ日差しは強く、それに熱されたアスファルトからも近く、ひどく暑いはずなのに。
 背中が、ひやりと冷えた。怖い。こんなに人を怖いと思ったのは初めてだ。
 昏い炎が見え隠れする瞳に射竦められて、動けない。
「君のバカバカしい思い込みで、傷付く人間もいるんだということを忘れるな」
 手の冷たさ、言葉の冷ややかさとは裏腹な、熱い吐息に口唇を塞がれたのはほんの一瞬。
 すぐに熱は離れ、身体を包んでいた体温も遠くなった。
 呆然と座り込んだままの私を置いて去っていく足音。
 私には、声を掛けることも追いかけることも出来なかった。

 ―――傷付く人間もいることを、忘れるな。

 私は、自分だけが傷付いたのだと思っていた。
 自分の浅はかさを嫌悪しつつも尚、彼に欲されない自分を、可哀想だと思っていたかもしれない。

 彼を深く傷付けていたかもしれないことなど、気に留めたこともなかった。

 涙がまた、溢れてくる。目の前が霞む。
 強く厳しい日差しに、このまま醜い自分が焼き尽くされてしまえばいい。

「…ごめんなさい……」

 何度も呟いた。
 今更、何を言っても彼を傷付けた事実は消えない。けれど。

「月森くん!」

 立ち上がり、走り出す。
 背の高い後ろ姿は、目に見える範囲にはなかった。それでも走らずにいられなかった。
 走って、家に向かう通りへ曲がった所に、彼はいた。
 アスファルトから立ち上る陽炎が見せる幻ではないかと、一瞬疑った。
 いつも毅然と背筋を伸ばしている彼が、らしくなく少し背を丸め、俯き加減で塀に寄りかかっている。
「月森くん、私」
 声を掛けると、角を曲がって二軒目のブロック塀に寄り掛かっていた彼は、身体を起こし。
「……十分間だけ、待ってみようと思ったんだ」
「私が来るかもしれない、って…思った?」
「来なかったら、今度こそ諦めようと思っていた」
 あの頃、良く見せてくれていた優しい微笑みを、向けてくれた。
「ごめんなさい…私、本当に馬鹿で。全然、気付いてなくて、傷付けてたなんて、そんなこと思ってもみなくて」
 私だけが、惹かれていると思い込んでいた。
 私自身に興味を持って貰えるなんて、ありえないとすら思っていた。
「ヴァイオリンが…好きだった。でも、あの時は、何よりも月森くんに笑ってもらえることが嬉しくて、こんな私がヴァイオリンを弾くなんて、自分でも許せなかったし、もし月森くんに知られたら、そんなのは絶対に軽蔑されるって思ったから、だから」
 言いたい事がたくさんあるのに、伝えなきゃいけないことがあるのに、上手く言葉に出来ない。
 もう二度と見られないと思っていた微笑みを前にして、頭の回線が繋がらなくなったみたいだ。
 酸素が足りない。また、貧血を起こしそうだった。
「……だから」
 どうしたらいいか分からなくなって俯いた私に、彼は腕を伸ばし手を握った。
「いつまでもこんな暑い所にいてはまた倒れる。話は、君の家で聞かせてくれ」
 すぐそこなんだから、と彼は穏やかな声で言った。
 まるで、何もなかったかのように。
 さっき見せた激情など、嘘だったかのように。
「……本当に、ごめんなさい」
「君が追いかけてきてくれたことで、もう十分だ。こうして君の家まで一緒に歩くことが、どれだけ嬉しいか。君には分からないだろうな」
「……分かるよ、それくらいなら」
「俺をあんな風に突き放しておいて?」
 ぐ、と息を飲む。意地の悪い言い方はわざとだろうが、痛い所を突かれていることには変わらない。
 こうすることを私がどれだけ望んでいたにしろ、彼との接触を拒んでいたのは事実だ。
「……冗談だ。悪かった、意地の悪い言い方をして」
「ううん、本当のことだから」
 手を繋いだまま、ゆっくりと歩いた。あまり体調のよくない私を気遣ってくれてるんだと否応なく分かる。こうして、私自身を気遣ってくれていたことも、多分限りなくあったはずなのに。
「……夢の時間が終わった、って思ったの」
 ぽつりと呟くと、彼は少し不思議そうに首を傾げた。
「夢の時間?」
「そう。夢の時間。私にとって、あのコンクールは夢みたいな時間だった。だから余計に思ったのかもしれない。このままでいちゃいけないんだって…」
 握った手に力が篭もる。
「それを言うなら、俺にはこの一ヶ月が悪夢のようだったが」
「……意地悪」
「そう思うなら、もう自己完結するのはやめてもらいたいものだな」
「……うん、出来るだけ」
「……出来るだけ、か」
 苦笑しながらも、彼はそっと指を絡めてきた。そうすると更によく分かる。大きな手と、固い指先。月森くんの手だ、と強く実感した途端、泣きたくなった。
 こんなに好きだったんだ、と改めて実感する。
 どれだけ忘れようとしても、一ヶ月程度でそれが出来るような軽い気持ちじゃなかった。苦しかった。だけどどんなに苦しくても、忘れることが出来なくてよかったと、今心から思える。ひょっとして、月森くんも、同じように思ってくれてるだろうか。
 そう思って顔を上げた時、絡めた指を少し高い位置で視界に入れながら、彼は言った。
「どんな理由であれ、君が少しでも好きだと思うなら、もう一度ヴァイオリンをやってみないか?」
 一瞬だけ、答えに迷った。
 yes、noで迷ったわけじゃない。音楽は好きだ。コンクールが終わった後も、やめようと思うのにクラシックのCDを選んで聴いている私がいた。自分で思っていたより、音楽というものに惹かれていたのだと思い知らされていたから。
 ただ、嘘のない本音を言っていいものかどうか、それで迷ったのだ。
「月森くんと一緒に弾きたい、って動機でも…?」
「十分な理由だ」
 俺は、嬉しい。
 そう言って向けられる視線の温かさに、胸が熱くなる。これ以上の情けない顔を見せたくなくて、私は慌てて顔を隠した。

 形のない、見えないものを信じることは難しい。
 またいつか、どこかで立ち止まってしまうかもしれない。
 でも。

「少しは、自信持っていいのかな」
「そんなに自信がないなら、もう一度、実力行使で教えようか」
「…っ、月森くんって、そういう人だった!?」
 そうだ、さっきは一瞬とはいえ、まっ昼間から外で…!
「問題ないだろう?ほら、もう君の家だ」
 微笑んだ彼の瞳に射竦められる。今度は、恐怖からじゃなく、甘やかな感情に支配されて。
「……幻みたいに、消えたりしないよね」
「俺が?」
「うん」
 くすりとおかしそうに笑って、彼は頷いた。
「魑魅魍魎の類ではないつもりだが」
「だって、これこそ夢みたいだった。こんな偶然で、月森くんと会うなんて」
「……偶然じゃない」
 玄関のドアの前で鍵を探していると、彼は顔を逸らしてそう言った。
 偶然じゃ、ない?
「どういうこと…?」
「帰りがけに君を見かけて、駅前通りからずっと、後ろを歩いていた。君は全く気付いていなかったようだが」
「全然、知らなかった…」
「あまり顔色が良くなかったから。心配で……」
 ああどうしよう。嬉しくて、涙が出そう。
 あんな風に一方的な言葉を投げつけて、それからずっと避け続けていたにも関わらず。
 とん、と彼の胸に頭を預ける。
「……本当にごめんね。私、自分勝手だった」
「もういい」
 頭を撫でてくれる、ぎこちなくも優しいてのひら。
「私に出来ることなら、なんでもする。月森くんのために、出来ること」
「じゃあ」
「うん」
「まずは、名前を呼ばせてくれないか?」
「……そんなことで、いいの?」
「ずっと、そう呼びたいと思っていたんだ。香穂子」
 玄関の前で、そっと口付けられ、優しい腕に抱き締められる。
 ご近所の噂になったらどうしよう、と少しだけ考えたけど、すぐにその思考は奪われた。

 あなたと一緒にいられるのなら、もうそれだけで構わない。

【 陽炎 /end. written by riko 】