彩られた季節
La corda d'oro

 今までに、季節の移り変わりを意識してなかったというわけでは、決してない。
 しかし、季節の移り変わりは当たり前にあるものであり、毎日の生活を送っていく中で、ニュースで春一番が吹いた、桜前線が北上している、そんなものを聞いて、ああそうか、と思う程度のことだった。
 それらに、さほどの重要性を見出すことは出来なかったから。

 だが確実に、目に映る世界の色が変わった。
 かつてこんな風に、色鮮やかな世界の眩しさを感じたことはなかった。
 芽吹く緑の鮮やかさに思わず立ち止まってしまうことも、今までにはなかった経験だ。

 もし彼女と出会っていなかったら。
 自分にとって必要なことと、そうではないことをはっきりと分けて考えることに疑いもせず、世界は閉じたままだったろう。
 自分と家族だけがそこにはいて、他には入ってくる者のいない世界。

 俺は、自分の中に他人を入れることを、頑なに拒んでいたように思う。

 自らの世界に他人を入れ、踏み荒らされるのを恐れていたことが一つ。
 余計なことを考えること、それに煩わされる時間が不快だったことが一つ。

 そうした理由の中で、俺はとても狭い、閉じた世界の中で今までの時間を送っていた。
 その世界は、波風が立つこともなく、穏やかだった。
 そこにいることに、何の疑問も覚えていなかったのかと聞かれたら、それは分からない。
 けれど、目を背けていたのだろう、おそらく。
 そんなことを考えること自体、煩わしい時間としか捉えていなかったのだと、今は思う。

 何にも浸食されぬ穏やかな世界は、しかしとても味気ない、彩りに欠けたものだと知ったのは、君に出逢ってしまったからだ。


 俺は、君に優しくはなかった。
 否、はっきりと冷たく、とても非礼な態度で接していたと思う。

 音楽は、俺にとって当たり前のように存在するもので、多分、生きることと同じ意味を持っていた。
 その音楽に、初心者の君が興味本位で接することは、好ましくないことだと思っていた。
 だから。

 しかしそんな俺にも、何のてらいもなく話しかけ、笑いかけてくれる君の存在は、俺には理解しがたかったんだ。
 最初は、本当に。

 戸惑い、突き放すような態度を取ったことも、限りない。
 迷惑だと断言したことすらある。

 それでも、君は俺に対する態度を変えず、最初から一貫して、真っ直ぐな瞳を向けてくれていた。
 どれだけ迷惑そうな顔をして見せても。どんなにきつい言葉で君の演奏を評価しても。
 ふとした拍子に、そのことに気付いた時。
 俺は既に、君という存在から目を離せなくなっていたのかもしれない。
 君の瞳は、逸らすことが許されないくらいに、真っ直ぐで。とても、綺麗だった。

 君の真摯な音楽への姿勢は、実際、評価に値するものだった。
 それに気付いて尚、俺は暫く、君という存在を認めることが出来なかった。
 その理由が、今では分かる。
 怖かったからだ。
 自分の世界が、閉じていた世界が、変わろうとしていることを。
 それまでに守ってきた小さな世界が壊れようとしていることを知りながら、それを認めることを、恐れていたからだ。
 何よりも、奏でる音が変わった、と言われることが。
 長い年月をかけて積み上げてきたものが、築き上げてきたものが、全て崩れてしまうように思えて仕方なかったのだ。
 ヴァイオリンを構え、弓を持ってのボーイング。楽譜を前に、一つ一つ音をさらっていく。音楽に向き合う、神聖な時間。
 その最中ですら、たった一人の存在が、心に、脳裏に、焼き付いて離れない。
 時に、音はひどく乱れた。冷静になろうとすればするほど、心を占める感情が、奏でる音を支配する。
 ――感情にまかせた音を奏でることは、今までの自分を否定していることと同じだった。

 一度は距離を置こうとした。けれど、無理だった。
 俺が君に近付かなくても、君は俺に近付いてくる。笑って、手を差し伸べてくる。
「一緒に弾こう?」と。
 一人、誰もいない場所を選んで弾いていると、いつの間にか側に来ていた君は、心からの笑顔と拍手で、こう言った。
「もう一度聴かせて」と。
 言い様のない感情に支配され、その感情の迸るままに奏でても君は笑う。
「今の音、私は好きだよ」と。

 一人になりたい、距離を置きたい。
 そう願っていたのが本心からならば、突き放せたのかもしれない。ならば本心ではなかったのだろう。
 君の笑顔を自ら遠ざけることは、俺には出来なかった。出逢った頃のように突き放すことなど、出来ようはずもなかった。
 もう引き返せないと知ったのは、その時だった。
 惹かれて、仕方なかった。
 君の奏でる音と、温かな笑顔に。強靱でしなやかな、君の心と、姿勢に。

 そして、知った。
 世界は、既に開かれていたのだと。

 あれほど恐れていた世界は、自覚してしまえば恐ろしい場所でもなんでもなかった。
 むしろ心地良く、温かい。
 自分の中にあるものを否定することは無理だ。その無理を通そうとして、抑えきれない感情に振り回された。しかし、自覚をすれば、これほどに熱く温かい感情はないと分かる。
 ヴァイオリンを歌わせることが出来るのは、心の在り方如何であり。自分の中にある感情が、心が、ヴァイオリンを歌わせることが出来るのだと、俺は知った。
 目指す音は、遠い。遥か遠い場所にあるのだと思う。
 けれど、いつかその場所にたどり着けると、今は信じられる。

 手を伸ばしてくれたのは、君だ。
 恐れることなどないと。世界は広く、温かく、眩しいものなのだと。
 穏やかではないだろう。嵐が吹き荒れることもあるだろう。
 それでも、君は教えてくれる。
 世界はこんなにも多彩な色に溢れた、美しい世界だと。
 厳しい環境に晒され、時に大きな障害をもたらす世界は、だからこそ、その中にある美しさを実感することが出来るのだと。

 閉じた世界に、君はいなかった。
 君がいない世界に、意味はない。
 そう言えば君は、きっと笑うだろう。
 けれど、俺の世界は開かれ、彩られたんだ。確かに、君の手で。

 心から、君が存在するこの世界を、愛しいと思う。
 生命力に溢れ、全てのものが必死に生きるこの世界を、美しいと思う。

「突然立ち止まっちゃって、どうしたの?」
 隣を歩いていた君に顔を覗き込まれ、ああ、と頷いた。
「緑が眩しいな、と思って…」
「ああうん、分かる。いかにも新しい季節が来ました、って感じ。私も大好きだよ」
 そう言って目を輝かせている君が、教えてくれた世界。
「この季節ならではの色だ。綺麗だな」
 うん、と嬉しそうに笑う君の横顔に、堪らない愛しさを覚える。

 鮮やかに彩られた季節、そして、世界の中で。
 俺は、君に出逢えた幸せを、誰にともなく、そして何より君自身に。深く、感謝した。

【 彩られた季節 /end. written by riko 】