for you
La corda d'oro

 見慣れた後ろ姿を発見して、天羽菜美は高い声を上げた。
「香穂!」
 長いストレートの髪、やたら姿勢のいい均整の取れた後ろ姿。間違いない。だが、返事はなかった。
「香穂、おーい、香穂ってば」
 再度声をかけても同じ。いつもと違ってやたらのんびりと歩いてはいるが、これだけ大声を上げているにもかかわらず聞こえていないなんて、あまりにも香穂子らしくない。
「…ははーん」
 天羽は何かを思いついたのか、ニヤリと笑うと、たっと香穂子の元へ駆け出した。
「香ー穂っ、なにやってんのさ」
「うわぁっ!」
 背中から容赦なくドン、と体当たりされ、香穂子は思いきりよろけた。心構えも何もなく、完全に思考が遠い空の彼方へとぶっ飛んでいたのだろう、派手な音を立てて廊下の壁にやむなくキスする羽目になった香穂子は、暫くの間ぶつけた顔の痛みにじっと耐え、やがて、鼻の辺りを押さえながら恨みがましい目で天羽を振り返った。
「一体何してくれんのかしら天羽さん」
「あらあら、花のかんばせが赤くなってましてよ日野さん」
「誰のせいだと思ってんのよ」
 ホントに痛いんだからね、と香穂子は生理的に湧いて出ていた涙を拭う。
「菜美、あんたアタシに恨みでもあんの?」
「あはは、悪かったって。でも、人が呼んでんのに返事もせず無視して歩いてったあんたにも非はあると思うけど?」
 ん?と顔を覗き込まれ、香穂子は眉根を寄せた。
「呼んでた?」
「ええそりゃもう、思い切り」
 あちゃー、と香穂子は腕を組んで溜息を吐き出した。
「今日授業の時にもしでかしたんだよねー。指名されてたの、全然気付かなくてさ。お陰でさっきまでコッテリ絞られて」
 こんな時間よ。と肩を竦めてみせる。
 それを聞いた天羽は、あんたらしくないねー、と大笑いしてから、軽く首を傾げて聞いた。
「今日は、練習しないの?」
「あー…うん。特にそうと決めてたわけじゃないけど、約束はしてない。向こうも今日は先生に付いてのレッスンあるし」
 ふーん、と意味ありげに天羽は笑い、香穂子の腕を取った。
「なによ」
「じゃ、まあとりあえずウチの部室にでもおいでよ」
「なんでそうなる」
「心配しなくても、今日は部会もないし、誰もいないって。一人で考え込んでるより、女友達に相談してみた方がいいこともあるんじゃない?」
 ね?と笑顔を見せられ、香穂子は苦笑して髪をかき上げた。
「……あー…。分かってるワケね、原因が」
「そりゃもう。あの時に、全員のプロフィールは調べて頭に入ってるから」
「さすが、報道部敏腕部長」
 感心したように息を吐いた香穂子に、天羽は得意そうに胸を張った。
「ふふーん、まかせてよ」


 香穂子が報道部の部室に訪れたのは、これが初めてではない。
 コンクールの最中に訪れたこともあったし、その後も何度か来ている。
 確かに、今日は誰もいなかった。しかしいつ来ても、なんというか、雑然とした印象が否めない。色々な資料やら、写真やらがやたら積み上げられているからだろう。それらの山を崩さぬよう、香穂子にしては十分すぎるくらいの注意を払って、空いている椅子の一つに座る。
 天羽は、持っていた資料を山の一つに重ねて置いていた。
 先程香穂子に声をかけた時、天羽は図書室帰りだったというから、おそらくここで資料をまとめるつもりだったのだろう。
「なんか今にも崩れそうだけど、それ」
「大丈夫、コツがあるのさ」
「……へー…」
 コツねぇ、と感心してるのか呆れてるのか、それともどちらともなのか。香穂子は天羽の手元を見て、また部屋全体を、見るとはなしに見渡した後、溜息をついた。
「あー…どうしよっかなー……」
 そんな香穂子の元へ、天羽は軽やかな足取りでやってきて、にんまりと笑いながら隣の椅子に座った。
「しっかし意外だなあ、香穂がそんな事で人の声も耳に入らないくらい悩むなんてさ」
 揶揄するような言葉と響きだったが、特に過剰反応するでもなく、香穂子は頬杖をついたまま天井と壁の境辺りを見ている。
「……私自身が一番驚いてるって」
「でもさ、月森くんなら、香穂があげたものなら何でも喜びそうじゃん。クリスマスとかバレンタインとかだって喜んでたでしょ。他にも、あんだけ沢山の女の子達に特攻されてたってのに、香穂以外からは一つも受け取らなかったみたいだしさ」
 愛だよねえ、と呑気に呟いている天羽に、香穂子はちらりとだけ視線をやって、溜息をつく。
「愛…ねえ」
「じゃなかったらなんなのさ。あんだけ大事にされてて、不満でもあるの?それはゼイタクってもんだよー香穂。月森くんは今や学院一の人気を誇ってるんだから」
 かつて学院一の人気を誇っていた柚木は一ヶ月前に卒業した。
 香穂子以外の女生徒に優しくすることもなく、必要以上の会話を交わすことも殆どなく、相も変わらず冷たい王子様っぷりを発揮している月森ではあったが、香穂子という恋人がいるにも関わらず、その人気に衰えは見られない。
「本人はかなり迷惑そうだけどな」
「それは言えてる。誇ってる、って言い方は、この場合適切じゃないかも」
 くすりと笑い合ってから、香穂子がうーん、と伸びをして、行儀悪く机の上に脚を乗せた。短いスカートから伸びたすらりとして形のいい脚を目にして、天羽は溜息をつく。
「香穂、あんた行儀悪いよ」
「いいじゃん、菜美しか見てないんだしさ」
「そう言う問題か」
「気にするなって」
 言った後、もう一度溜息をついた。
「でも、一体本当に何をそんなに悩んでるのさ」
 天羽の尤もな質問に、香穂子はほんの少しの間ためらうように言い淀んで、ぼそり、と呟いた。
「……今回は、リクエストがあんのよ」
「リクエスト?」
「そ。いわゆるイベント事も、クリスマスとバレンタインってあって、プレゼントあげるのもこれで三回目じゃない。なんか欲しいモノがあるなら、それをあげた方がいいかな、って思ってさ、聞いてみたんだよね」


 それは、数日前、月森の部屋で、思い思いに音楽関係の雑誌や資料などに目を通していた時のこと。

「あー…そうだ。ねえ蓮。誕生日、何か欲しいものある?」
「誕生日…か。そうか、もうそろそろだったな」
 そう言って、月森は眼鏡を外した。ずっと細かい文字を追っていたせいで、少し疲れたのだろう。眉間を指で押さえて、軽く頭を振る。
 それを見てから、香穂子も読んでいた雑誌をテーブルの上に放り投げ、頷いた。
「そ、もうそろそろなのよ。目が飛び出るほど高い物は買えないけど、ま、フツーに高校生のお小遣いで買える物なら、なんでも言って」
「……特に、思いつかないが…」
 困ったように眉を寄せた月森を、香穂子は溜息混じりで眺めやり、冷めてしまった紅茶に手を伸ばす。
「ホントに物欲ないよなー蓮は。私なんて欲しい物沢山あるのに。春物の服でしょ、バッグでしょ、あとはアクセサリーとか時計とか」
 カップを口に運びつつ、片方の手で欲しい物を指折り数えていく香穂子の様子を微笑ましそうに見つめ、月森は小さく笑みを零した。

 一般で言う女子高生がどんなものなのか、詳しく理解しているわけではなかったが、それでも香穂子はどこか一線を画しているようなところがあるように思う。しかし、やはりこういう所は人並みに女の子なんだな、と納得せざるを得なかった。
 時々帰りに寄る本屋でファッション雑誌を眺め、コレが可愛い、コレが欲しい、などと言いながら目を輝かせている香穂子を見ているのも、月森は嫌いじゃなかった。
 以前ならば、そんなものにうつつを抜かす事などくだらない、と思っていたかもしれない。が、それが全てではなく、彼女が持っている色々な面の内の一つだ、と知ってしまえば、それは微笑ましいこととしか、月森の目には映らなかった。物欲しそうな目でディスプレイ内を見つめる香穂子すら、可愛いと思う。
 恋は盲目。惚れた弱み。
 そんな言葉が自身に見事あてはまっていることも自覚はしていたが、今更どうこうしようもない。

「そういえば、この間見ていた時計、相当気に入っていたようだが」
「そーだよ。あれ、すごい欲しいんだけど、高いんだもん。さすがになー…」
 悔しそうに呟く香穂子に、月森はサラリと言った。
「じゃあ今度、俺がプレゼントしようか?」
「え、何言ってんの、あんな高いの貰えるわけないよ」
「何か特別の時だったら、構わないんじゃないか、あれくらいなら」
「じゃ、私の誕生日の時とか!って、そうじゃない!今は私のことはどうでもいい!」
 一瞬目を輝かせた香穂子だったが、違う!と慌てて首を振る。うっかり大喜びしてねだってしまうところだった。危ない危ない、と香穂子は額に浮いてもいない汗を拭う振りをした。
 そんな香穂子の仕草に笑いを誘われた月森だったが、実際問題、欲しい物、と言われても、思い当たるものはなく。
「しかし…困ったな」
「ホントにないわけ?」
「俺は…君が側にいてくれるなら、それが一番嬉しいし、特に他には」
「あはははは!」
 至極真顔でそんな台詞を言った月森を、香穂子は派手に笑い飛ばして。膝立ちでにじり寄ると、月森の胸ぐらを掴んで顔を見上げた。半分月森の膝の上に乗っかるような格好で、今にも迫らんという勢い。
「そういう歯の浮く台詞を言えって言ってんじゃないのよ今は。さあ言え、何が欲しい」
「…香穂子、この体勢はちょっとまずいんじゃないか」
 焦って後ずさろうにも、香穂子は離れる様子をみせず、月森は顔に朱が差してくるのを自覚した。しかし香穂子はそれを意に介する様子もない。
「どうせなら、好きなものをあげたいっていう可愛いカノジョの心遣いを無にする気?」
「いや、だが」
 この体勢じゃ考えることすら覚束ないんだが、と言ってみても、香穂子は一刀両断。
「さっきだって思いつかなかったんでしょ、ならこうしてても同じじゃないよ」
「そういう問題だろうか」
「そーゆー問題よ」
 言って、香穂子は完全に月森の膝の上に乗り上げた。
 胸ぐらを掴んだまま、という色気も何もない格好のため、上半身が密着することはないが、膝の上には香穂子の体温。顔は至近距離。
 月森にとっては試練以外の何物でもない状況。
 勿論そんな月森の葛藤など分かり切っている香穂子は、涼しい顔で宣った。
「欲しい物がない、つまりは私から貰いたいものはないってことよね。それは私自身も含めて?」
「…っ!」
 どこをどうすればそうなるんだ、と思いながらも顔を赤らめ、ぐ、と息を飲んだ月森の耳元に、香穂子は口唇を寄せた。
「ちゃんと言ってくれないと、本当に何もあげないよ?勿論、これから先、私もね」
 艶やかな声で囁かれ、月森の手が泳いだ。このまま細い身体を押し倒したいという衝動に駆られるが、そうすれば確実に香穂子の怒りを買う。
 健康な高校生男子の煩悩など分かり切ってやっているのだから、本当にタチが悪すぎる、と内心で悪態を付くことで、月森は辛うじて理性を保っていた。
「…ちょっと待ってくれ、香穂子」
「言えない?」
 ふ、と甘い吐息を吹きかけられて、月森の身体は意志に反してびくりと反応した。
(普通逆だろう、こういうことは!)
 月森は、ぐらぐらと揺れる思考の中で叫んだ。
 しかし尚も、香穂子は月森を追いつめるように、あれやこれやと仕掛けてくる。こうなってくると、誕生日云々よりも、ただ単に月森の反応を面白がってるとしか思えなかった。

 何が哀しくて、愛しい恋人にこんな格好で迫られていながら我慢しなくてはならないのか。
 目が合い、にっこりと笑う香穂子の笑みは、ひどく魅惑的だった。
 たとえその背に悪魔の羽が見え隠れしていようとも、月森にとっては誘惑に他ならない。
(欲しいもの…欲しいもの……何かなかっただろうか)
 必死になって脳をフル回転させる。今の状況でフル回転させてもどれだけの効果があるかは分からなかったが、とりあえず出来る限りの思考能力を総動員する。
 誕生日に欲しい物、と言う事だから、あまりに安い物ではあっさり却下されるだろうし、かと言って高い物ではならない。高い物で欲しい物があるわけではなかったが、だからといって適当なものが思い当たるわけでもない。着る物や持つ物にさほどこだわるタチではないから、それらを候補として挙げるのも憚られる。
 根がどこまでも真面目なだけに、いいかげんな答えを出すことが出来ない月森だった。
 しかし、プレゼント、の一言から思考を思い巡らせていた月森はやがて、一つだけ、思い当たることを探し当てることに成功した。
(…そうだ)
 思い当たったことで、月森がこの状況を我慢する必要はなくなった。
 窮鼠猫を噛む。という言葉がある。
 この時、散々焦らされ遊ばれた月森の理性を止めていたネジが、数本どこかへ飛んでいったらしい。
「…香穂子」
 自らの胸ぐらを掴んでいた香穂子の手を捉えると、いとも簡単に香穂子の身体を床に押し倒す。その意志があれば、こうすることなど月森には簡単なことだ。体格も力も、比べようがないほど明らかに違うのだから。
 追いつめられたネズミは実のところ、いとも簡単に猫を掴まえられるオオカミだった、ということだ。
 それでも、据わった目つきで自らを見下ろしてくる月森の視線を受け、香穂子は「あらー?」などと呑気に呟いている。
「何か、欲しい物見つかったの?」
「見つかった。君の時間が欲しい」
「……は?」
 なによそれ、と香穂子の眉が怪訝そうに寄せられた。
「バレンタインの時に、チョコレートをくれただろう?」
「そりゃまあ。あげなかったらマズイでしょ、一応」
「実は、少しだけ期待していたんだ」
「何を」
「君の手作りではないかと」
 香穂子が、いかにも嫌そうな表情をしてみせる。
「……私が料理とか苦手なこと知ってて言ってんの?」
「だから、少しだけ、と言った」
 それに、君がくれたチョコレートは本当に美味しかったし、とフォローすることも忘れない。
 香穂子が月森にあげたのは、バレンタインの時にだけ限定で売り出す、とあるフランス料理店のトリュフ。デザートが美味しくて有名なその店は、シェフの一人が製菓の賞を取ったほどのパティシエで、香穂子も何度か家族と食べに行ったことがある、お気に入りの店だった。
 それまで誰かにチョコをあげるなんて可愛いこととは縁のなかった香穂子だが、月森にあげる段になった時、迷わずその店のものを選んだ。
 お気に入りの店の少数限定のチョコレートは、手作りとは縁のない香穂子の精一杯の気持ちだと、月森は知っていた。だから、その香穂子の気持ちは、本当に嬉しかったのだ。
「少しでも何でも、オンナだから料理が出来るとか手作りのものをあげるとか思われるのは不本意極まりないんですけど蓮くん」
 むすっとした顔の香穂子に、月森は笑いを禁じ得なかった。
 確かに嬉しかった。けれど、だめだったか、とほんの少し残念に思ったのもまた事実。
 指を怪我されるくらいなら、と今までは自分に言い聞かせてはいたものの、やはり一度くらいは好きな人の作ったものが食べてみたい。
「でも、君は言っただろう?何でも欲しい物を言え、と」
 至極綺麗に微笑んでみせる月森の顔を、香穂子は思いきり見開いた目で見上げた。
「ちょっと待った!」
「待たない」
「それだけは勘弁!キライなんだってば!料理とか、お菓子作りとか!そういうの肌に合わないんだって!」
「それなら、君の料理を食べるのは、俺が初めてという事か。尚のこと、嬉しいな」
「待てって言ってるじゃないよー!」
「期待している、香穂子。俺の誕生日は、君の手料理で祝ってくれ。俺のために君が料理を作ってくれること。その時間が、俺は欲しい」
 香穂子の目には、月森の端正な顔が、この時ばかりはひどく憎らしい物に映った。下手に整っているだけに、勝ち誇ったような笑みにすら、非の打ち所がなくて頭に来る。
 まさか、こう来るとは思わなかった。
 香穂子の予想範囲外の答えを突きつけた月森を、香穂子がキッと睨み付ける。
 しかし月森はそれを容易に受け流し、香穂子の両手を片手で容易にまとめ上げ、微笑みながら顔を寄せた。
「答えは出した。なら、君を貰ってもいいということだな」
「〜〜っ!」
 完全に立場が逆転してしまっている。香穂子は言葉に詰まり、悔しそうに歯噛みしていた。
「俺を散々煽ったのは、君だろう?」
 言いながら、頬に口唇を滑らせ、耳を甘噛みし。先程の香穂子と、同じ様な手順を辿る月森の声は、常になく楽しそうな響きを帯びていた。
「あーもうっ、こんな答え出してくるなんて想像もしてなかった!蓮のバカ!」
「バカで構わない。だが」
「なによっ」
「そろそろ、こちらに集中して貰えないだろうか、香穂子?」
「……頭のネジ、どっかに飛ばしたの?」
「そうかもしれないな。君に散々遊ばれて面白がられているだけでは、男としてどうかと思うし」
「……そんな煽ったかしら、ワタクシ」
「君の門限までまだまだ時間はあるから、問題ないだろう?」
「……っ、蓮、なんかいつもと違いすぎて怖いんだけど」
 月森は薄く微笑み、香穂子の頬を撫でて言った。
「君の気のせいだろう」
 そしてそれ以降、香穂子は暫く言葉を紡ぐことが出来なくなったのだった。


「……とまあ、ちょっとからかってただけなのに、とんでもない話になっちゃって」
 照れる様子もなくそんな話をする香穂子と、へえ、とこちらも全く照れずに相槌を打つ天羽。
「それにしても、相変わらずのラブラブっぷりね、アンタ達」
「そう?普通じゃないの、これくらい」
「んー、そうかもしれないけど、相手があの月森くん、ってとこに意外性が」
 意外性?と不思議そうに、香穂子は首を傾げた。
「どこが?」
「だって、そういうのあんまり興味なさそうに見えるじゃない。なんか音楽以外の事には見向きもしないっていうか、超然としてる、っていうか。そういう風に見えるよ、一見」
「はあ?超然とー?」
 目を見開いて香穂子は大きく首を振った。
「有り得ない。それは誤解。そこらの高校生男子となんら変わらない」
 じゃなかったら、頭のネジ飛んだからってあそこまで壊れないよ。
 断言する香穂子のどこか遠い目を見ながら、天羽はおかしそうに笑った。
「でも、それは香穂が相手だからでしょ?」
「だといいけどねえ…」
「なによ、自信ないの?」
「いや、今は確かに蓮に惚れられてるって自覚はあるけどさ。って、だからね!今問題なのは、蓮がどうこうじゃなくて、この私が料理なんかをせねばならないってことなのよ!」
 間近に迫った使命を思い出し、再び大きく溜息を吐き出す香穂子の頭を、よしよし、と天羽が撫でた。
「月森くんも無茶言うねぇ」
「そうでしょ!? 前からずっと、苦手だキライだ何度も言って、間違ってもあんなことを言い出さないように洗脳してきたのに!あのバカ!」
 それを洗脳と呼ぶのか、と思いながら天羽は苦笑した。
「でもさ、全く出来ないってワケじゃないんでしょ?」
「…まともにやったことなんてないんだってば。あんなちまちました作業、苛々してくるし」
「少しは練習してみた?」
「昨日はフライパンひっくり返してガス台ぐちゃぐちゃ。一昨日は雪平鍋の底焦がしてお母さんに怒られた。その前は大さじと小さじ間違えたらしくて、すごい味になってた。おかげで、お母さんには頼むからキッチンに立つなって懇願されるし」
「……それは」
「とてつもなく時間掛かるし、包丁怖いし!家の台所でさえ何処に何があるのかサッパリ分かんないし!なんで私がこんなこと!…って思うけどさあ」
「惚れた男に頼まれたら、嫌とは言えないよね。何でも言え、って言ったのは香穂なんだし」
「……そーゆーこと」
 はあ、と香穂子は幾度目かの溜息を零し、窓の外に目を遣った。
「……どこか遠い国へ亡命したい」
 覇気のない声で呟く香穂子を見て、天羽は溜息をついた。
「それで、あんなぼーっとしてたわけか」
「私ね、今まで大抵のことだったら、やると決めたことはやり遂げてやる、って気合い入れてやってきたし、自分でも割と前向きに生きてると思うわけ」
「割と、どころじゃないでしょ、思い切り前向きだよ、香穂は」
「うん。でも、料理と裁縫だけは向き合うことなく一生そっぽ向いて生きていこうと決めてたのに」
 そこまでキライなのか、とある意味感心しつつ、天羽は言った。
「でも、やるんでしょ」
「……ついに三日後という非情なまでにシビアな現実がひたひたと足音立てて近付いてきてはいるけれど、アイツにお腹壊させるわけにもいかないからねー…」
「仕方ないなあ。明日、香穂んち泊まっても大丈夫?」
「え?」
 窓の外を見ていた香穂子が、くるりと天羽に向き直る。
「ほら、ウチは両親離婚してるじゃない?父さんは仕事で忙しいし、家事は私の担当。これでも料理は結構得意なんだよね」
「教えてくれんの!?」
「料理は勿論、女友達のありがたさってのを存分に教えてあげようじゃない」
 香穂子は、がば、と天羽に抱き付き、頬を擦り寄せる。
「菜美、愛してる!」
「あはは、うん。私も香穂のこと愛してるよー。だからさ、明日は目一杯頑張ろうね」
「おっし、なんかやる気出てきた!」
「そりゃー良かった。あんなぼーっとした香穂なんて、香穂らしくないしね」
「ん、自分でもそう思う」
「でも、香穂があんな風になるのなんて、やっぱ月森くんのことくらいだよね」
「…何よ」
「いやいや。香穂も結構可愛いな、って思っただけだよ」
「……ふん、一年に一度くらいの我が侭くらい、聞いてやるわよ。特別な日だからね」

 しっかりと友情を確かめ合った二人の特訓の成果が出るか出ないか。
 それが分かるのは、Xデー。

「月森くん、喜んでくれるといいね」
「……喜ぶ、かなあ…」
「何よ、香穂らしくない弱気だなあ」
「……だって、明後日は一人で全部やるんだよ!?しかも勝手の分からない月森家のキッチンで!どうしよう、鍋焦がしたらごめんなさいじゃすまないよね、オーブン壊したら弁償しなきゃまずいでしょ、ねえ菜美!お願いやっぱ一緒に来て!」
「……錯乱するな、香穂。大丈夫だから、今日やった通りに明日もう一回練習して、当日も同じようにやればいいだけ。絶対に、喜んでくれるから」
「よ、よし、うん。大丈夫だ、きっと上手く行く。そう思おう」
「そうそう。自信持って。いつもの香穂らしく!」

 四月二十四日。
 香穂子にとっても大切な日である、月森蓮の誕生日。

「……ど、どう?」
「…美味い」
「ホントに!?」
「ああ、お世辞じゃなく、美味しい。…少し驚いた」
「あのねぇ!って…ホントに、ホントだね?……あ、ホントだ。…美味しい」
「……香穂子」
「ん」
「ありがとう。本当に、嬉しい。君が俺の為に頑張ってくれたことが、本当に何よりも嬉しい。最高の誕生日プレゼントを、ありがとう」
「どーいたしまして。って、ほんっと安心した。良かったよー!」
「怪我はしなかったか?指は?」
「それはもう。指だけは傷付けないように慎重にしたからね」
「そうか、なら良かった。それだけは少し不安だったから」
「自分で言い出したくせに」
「…それは、まあ。でも、言って良かったと思っている。何度も言うが、本当にありがとう」
「うん、喜んでくれたなら、それでいい。改めて、誕生日おめでとう。蓮」
「ああ、ありがとう」

 そんなきみの笑顔が見られるなら、こんなことはなんでもないなんて。
 大分苦労はさせられたけど、そんな風にすら思うよ。
 ねえ、蓮。
 わたしは、きみの心にあったかいものを残せたのかな。
 それができたなら、今日の日に心から感謝する。

 今日は特別な、大切な日。
 きみにとっても、わたしにとっても。
 生まれてきてくれてありがとうなんて、口にはしないけど。

 どうか、きみの毎日が、幸せなものでありますように。
 Happy Birthday to you.

【 for you /end. written by riko 】