eyes to me
La corda d'oro

「それじゃ、そろそろ交代しよっかな」
 一通り写真を撮って気が済んだのか、ふう、と息を吐いた天羽ちゃんが、突如謎な言葉を口にした。
「交代?」
「そ。日野ちゃんの元気も出たことだし。私以上に、それを見たがってる人もいるんじゃないかなーって思ってさ」
 なんなのそれは、と首を傾げる私の前で、笑顔のまま、天羽ちゃんは屋上のドアを開けた。
 そこに、非常に微妙な表情で居心地悪そうに立っていたのは、我が学院音楽科の誇るヴァイオリニスト。
 予想だにしなかった人物の姿を見て、思わず言葉を失った。
 一瞬の空白。
「な、んでこんなとこにっ」
 っていうか、いつからいた!?
 言葉に詰まりつつ、まずは説明を求めようと、カクジツにこの状況に陥った原因であろう天羽ちゃんの姿を探す。と、ドアの向こうに、振り返って悪戯っぽく笑ってウインクし、手を振る件の人物発見。だがそれも、すぐに階段の向こうへと消えてしまった。
 ……す、素早いな。声をかける間すらなかったじゃないか。
 ――となれば、残ったのは一人だ。ドアが閉まるのを防ぐように、腕を組んで立っている御仁。
 しかしその彼は、さすがに気まずいのか何なのか、全く目を合わせようとしない。
「……一体どういうことなのか、私に分かりやすいように説明して貰えると有り難いぞ」
 思ってもみない展開に、思考能力がついていかない。
 すぐ後ろにあった柵に背を預けて視線を投げ、説明を求めた。と、彼――月森蓮は、少しの間、ためらうように口唇を僅か動かして、何か小さく呟いた後。
「天羽さんからメールを貰って……」
 私に届く言葉としてはそれだけ言うと、一旦背を向け、重い金属製の扉に手を掛けた。らしいというかなんというか、大きな音を立てることなく、静かに扉を閉める。私が開け閉めすると大分派手な音を立てるのに、同じ扉とは思えない。これも性格の差か。

 ……それにしても、天羽ちゃんめ。いつの間に。
 既にここにはいない天羽ちゃんの顔を思い浮かべ、悪態をつく。
 何故彼女がわざわざメールで連絡したのかは分からないが、もし、さっきの話が、彼にも聞かれていたとしたら――。

「迷惑…だったろうか」
 扉のすぐ側に立ち、視線を合わせないままに彼が聞く。最初の出逢いから考えたら想像もつかないほどの遠慮がちな声。一刀両断と言っても過言じゃない冷たい応対に慣れてるオンナノコ連中が聞いたら、目を丸くしそうだな。そんな埒もないことを考える。
「……迷惑…ね」
 呟いて、私も腕を組んだ。
 正直、あまり聞かれたい内容ではなかった。
 弱音めいた台詞も、天羽ちゃん相手だから、言えたことだ。
 私は他のコンクール参加者を単なるライバルだとは思っていない。仲良くできるならそうしたいし、初めて知る音楽の世界、その場所に前から居る人達の意見を広く聞くことも、私にとっては大切なことの一つだ。
 加えて言うなら、今目の前で居心地悪そうに立っている人は、中でも親しくしている相手で。
 普段だったら、会えたことを素直に嬉しいと思える。
 けれど。
 よもやこんなことで手心を加えるような相手じゃないのは分かっているにしろ、同じ立場にいるからこそ、多少なりとも気を遣われるのが辛い場合もある。
 とはいえ。ヴァイオリンの基礎のなんたるかを全く知らない私が、唯一それを聞ける、教師にも似た立場にいる彼だ。どうせいずれは、それも、遠からず分かることだと、分かっちゃいるけれど。
 ただ、タイミングってものがある。
 聞かれたくない言葉も、知られたくない心情だって、あるわけで。
「……まあ、歓迎はしてないけど、さ。その様子じゃ、話、聞いてた?」
 目を逸らしたまま、対するは無言。つまりは、肯定か。
「……参ったなあ……」
 話せることならば、話していた。
 昨夜、一緒に帰るという約束を反故にした私に、気遣うような声で電話をくれた時点で。


『その…何かあったのか?』
「いや、ちょっとお母さんに用事頼まれてたの思い出しちゃってね、慌ててたから連絡するの忘れちゃって。ごめんね、待ちぼうけ食わせちゃったね」
『いや…それは全然……。ただ…その、リリが君のことを、ひどく心配していて』
「リリが?そんな神妙な顔してたかな、私。別に大したことじゃないよ、気にするようなことじゃないって」
『そうか…?なら、いいんだが……その。もし、何かあったのなら、元気を出してくれ』
「あはは、サンキュ。ありがたく受け取っておくー」


 短い会話だけを交わし、電話を切った。
 自分ではいつもと変わらない声で話したつもり、だったのだけれど。
「昨夜の君の様子がおかしかったから……君の行きそうな場所を探していたんだが、姿が見えなくて」
 携帯電話の電源も切っているようだったし。と続けられ、私は頷くしかなかった。
「…なるほど」
 やはりどうやら、あくまで『つもり』に過ぎなかったらしい。確かに、感情表現を抑えたりするのは得意範囲じゃない。それでも、装ったつもりの平静さがこうも簡単に見破られるのも、少々情けない気がする。
 少しはそれらしき修行でも積んだ方がいいのかもしれない。どんな修行すればいいのかなんて、皆目検討つかないけどさ。
 ためらいがちに話し始める彼の声を聞きながら、私はベンチへと移動した。彼は少しだけ移動して、そんな私の目に入る位置に立つ。
 が、相変わらず、目は、合わせない。そのままで、口を開いた。
「たまたま、天羽さんに会って、君のことを聞いたんだ」
「何処にいるか知らないか?って?」
「ああ。そうしたら、今から学校に行く用事があるから、見かけたら連絡すると言ってくれた。暫くして、俺の携帯にメールが入ったんだ。屋上にいる、と」
 私に声をかける前の時点で、既にメールを入れていたということらしい。
 となれば、話もほぼ最初の時点から聞かれていたに違いない。
 今更どう繕っても、言った言葉は取り消せないってことね。
「……ま、仕方ないね。聞かれちゃったなら」
「……立ち聞きする様な真似をして、申し訳ない」
「いいよもう。済んだこと言っても仕方ない」
 そう言うと、彼、月森蓮は、初めて私を見た。
 さっきまでまるっきり目を合わせようとしなかったのが嘘のように真っ直ぐ私の顔を見て、ほんの少し。本当に微かに、微笑んだ。
 だけどその瞳が、何故か寂しそうに見えたのは、私の気のせい…だろうか?
「香穂子」
「なに?」
「君は、迷惑だと思っていたようだし…その、聞かれたくない話を立ち聞きするような真似をしたのは、悪かったと…思っている。その上で、一つ聞きたいんだが」
「なんざんしょ」
 どーぞ、と手のひらを向けて話の先を促した。
「俺は、君に頼りにされていないのだろうか?」
 ……はい?
「いや…俺が……こんなことを言うのは、筋違いかもしれないな。すまない……」
 私の怪訝な顔を見てか、勝手に質問して勝手に自己完結して謝る彼に、私は特大の溜息を吐き出してやった。
 途端、彼の表情が曇り、再び顔を背けてしまう。
 あーなんて分かりやすい。落ち込むなよこれくらいで。
「あのさあ」
「……なんだろうか」
「頼りにするとかしないとか、そういう次元じゃないんだよ、これはね」
「……しかし」
「私が落ち込んでる時に、話を聞いてあげたい、って君が思ってくれてるなら、その気持ちは嬉しい。これは本当」
 再び、視線が合う。
「そういえば、さっき、何か言ってたよね。聞こえなかったけど。天羽ちゃんからメール貰った、って言う前」
 その瞬間、彼はバツが悪そうに顔を顰め、眉根を寄せた。
「まあ、言いたくないならいいけどさ」
 言いながら私は、自分の手で、隣の空間を軽く叩いた。ここに座って、の意。それは勿論理解したのだろうが、彼は暫しためらった様子を見せた。もう一度同じようにすると、
「……分かった」
 と頷き、ゆっくりと歩いて私の隣に座る。
 その、座りざまに、こう言った。
「……君のことが、心配だったんだ。それで……」
 本当に、やっと耳に届くくらいの微かな声で。
「……そう」
 心配…か。うん、そうだね。君の言葉なら、それになんの誇張もないって、信じられるよ。
 ――そっか。心配、してくれたんだ。
 練習の虫である君が、それすら放って。私の居場所を、探すくらいに。

 二人の間の空間は、距離にして、約二十センチ。
 その距離を私の方から縮め、私より大分高い位置にある肩に、頭をもたせかけた。
 一瞬、びくりと反応しながらも、彼は何も言わず、また動くこともなかった。
 暫くの間、そのままの姿勢で空を眺めた。空は晴天で、わずかばかりの雲が流れていくのが目に入る。遠くから聞こえてくるかけ声は、多分グラウンドで運動部が練習しているからだろう。
 穏やかな土曜の午後。誰もいない、屋上の片隅。
 ライバルで。でも多分、それ以上の何かがある、微妙な関係の相手と、二人きり。
 温かい。
 人の体温は、なぜだかとても安心する。
 もう、あんな風に考えても仕方ないことを考え込もうとは思わない。一度立ち直ったからには、元に戻ることなど、私の性格上ありえない。
 でも。
 体温が、温かくて。
 触れ合った部分から、優しさが流れてくるのを、感じられて。

「……寂しかったんだ」
「ああ」
「すごく、寂しくて」
「…ああ」
「でも、聞かれたく…なかった」
「…そうか」
「……だって…ライバルだから、さ。負けたくないんだ、誰にも。確かに、今までのは実力じゃないかもしれない。でも…やるだけのことはやったよ、私」
「ああ、知っている」
「……残るは後一回だけど、これからだって。…負けないよ、絶対」
「大丈夫だ。君なら、出来る」
「蓮」
「なんだ?」
「もう少し、このままでいて」
「…ああ。俺は、いくらでも付き合うから…」

 今だけ、もう少しだけ。
 あのヴァイオリンとの別れを惜しんでも、多分構わないんだと。
 そんな風に思える優しさが、流れ込んでくる。
 僅かに涙が浮かんでくるのは、風に乗って埃が飛んできたからだ。それが、目に入ったから。
 それ以外の理由じゃない。
 それくらいの言い訳は、させて欲しい。
 だってこんなのは、私らしくないから。
 知らない振りをして。気付かない振りをして。
 ぎこちなく身じろぎをする温もりを、今はただ、私に分けて。

「甘やかすの、上手いよね、意外と」
「……別に、俺は」
「聞かれたくなかったよ。でも」
「……でも?」
「今は、いてくれて良かったって思ってる」
「……そう、か。それなら……良かった」

 照れたような声を聞きながらくすりと笑って、私は彼から離れた。
 立ち上がり、思い切り伸びをする。
 よし、充電完了!
 なんの充電かは、自分でも良く分かってないけど。とにかく、うん。もう、大丈夫。

「ねえ、新しい私の相棒、見せてあげよっか」
「いいのか?」
 振り向いて聞いた私に、少し遠慮がちに聞く蓮。でも、その瞳には、安堵の色がある。
 ……不器用だけど、優しいヤツ。
 最初はなんて性格の悪いオトコだ、なんて思ってた。それからすぐに、そんなのは表面的なものだけで、人付き合いが下手なだけで。実は結構良いヤツだ、って、分かったけど。
 親しくならなければ、こんな優しさは、多分ずっと知らないままだった。今では、そんな勿体ないことをしなくて良かった、なんて思えるんだから、人と人との関係ってのは面白い。
「もちろん。もし何かリクエストがあれば弾きましてよ?」
 肩貸してくれたから、そのお礼。
 少しおどけて言うと、彼は微笑んだ。
「そうか…なら……」

 彼のリクエストで、私のヴァイオリンが音を奏でる。
 何に助けられたわけでもない、本当に、私だけの音。
 今までの物に比べたら、確実に拙いそれ。
 けれど、彼は。
 ブラボー、という綺麗な声の後で、更に綺麗な微笑みを、真っ直ぐに向けて。
「……君の音が、俺は好きだ」
「ありがとう」
 素直に、私は礼を言った。
 請うように手を差し出され、そのまま、ヴァイオリンを手渡す。
「君は、覚えているだろうか。一番最初に会った時、俺が君に言ったことを」
 勿論だ。あの言葉が、これまでずっと、私を奮起させてくれていたんだから。
 それがなくても私はやるだけのことをやっただろうって自信がある。だけどやっぱり、他に誘惑の手を差し伸べてくる物達も多くて。たまには少し休んじゃおっかなー、なんて思うこともあった。
 そんな時。
『休んでる暇なんてあるかー!』
 なんて、改めて思い起こさせてくれたのは、紛れもなく蓮の言葉だった。
「本当にヴァイオリンを弾きたいと思うなら、魔法のヴァイオリンに頼ることなく、最大限の努力をしてくれ、ってやつでしょ」
 軽く肩を竦めて言うと、蓮は、ああ、と頷いた。そして、少し感慨深げに。
「……君は、本当に良くやってきたと思う。向上心も、ヴァイオリンに対する真摯な姿勢と努力も。俺の想像を遥かに超えていた。これまでの君の姿勢は、尊敬に値すると、俺は思う」
「……何も出ないよ、そんな褒めても」
 蓮は、遠回しな言葉じゃなく、本当に真っ直ぐな直球を投げてくるから。時々、背中がむずがゆくなる。そういうとこは勿論、嫌いじゃないんだけど。
 そんな私の複雑な表情には気付いてないんだろう、蓮は軽く首を振って、そのまま続けた。
「お世辞なんかじゃなく、本当にそう思うんだ。だから」
 ヴァイオリンの側面を柔らかく軽く、そっと指で撫でる。
「君が、あのヴァイオリンの力を超えたことを、とても、嬉しく思う」
 言った後、少し慌てたように付け加えた。
「あ、ああ、すまない。君が寂しいと言っているのに、不謹慎な言い方だったかもしれないが」
「ううん、全然。蓮がそう言ってくれるのは、嬉しいよ。すごく、ね」
 私がそう言うと、安心したように息をついて。
 改めて、ヴァイオリンに向き直った。
「……美しいヴァイオリンだな。奏者として独り立ちすることになった君に、とても相応しい楽器だと思う」
 柔らかな視線が、ヴァイオリンの上を滑った。
「君の演奏を、楽しみにしている。これからも、ずっと」
 そう言って、私の元へ、ヴァイオリンを差し出した。
 たとえようもなく、優しい表情で。
「任せてちょうだいな」
 ガッツポーズでそれに応え。私は、再び彼の横に並んだ。
「今日はこのまま、ここで練習しようか」
「それもいいな。風が気持ちいい」
「で、後で、駅前通りにでも、ご飯食べに行こうよ」
「じゃあ、今日は俺が奢ろう」
「おー!リッチー!ラッキー!何食べよっかなー」
「その前に練習だろう?」
「当然当然。分かってるって!」

 魔法が解けた私に残ったのは、ガラスの靴ならぬ音楽の世界。
 なら、いつかそれを探しに、王子様が迎えに来てくれるのかな、なんて最高に柄じゃないことが脳裏を過ぎって、私は一人派手に吹き出した。

「香穂子、どうかしたのか?」
「なーんでもない、なんでもなーい」
「……もしかして昼に、おかしなものでも食べたのか?」
「あのね、年頃のオンナノコ掴まえてなんて言い種よ、だから朴念仁とか言われんのよ」
「言われてない」
「私が言ってやる」
「……好きにすればいい」

 でも、もしそれに近いストーリーが、私に訪れるならば。

 ――その時の相手は、隣に並ぶ、この人がいい。

【 eyes to me /end. written by riko 】