出逢った日の空を僕は忘れない
La corda d'oro
《side-LT》
想い出ひとつも残さずに明日出てゆこう
絆は愛を求めて泣き声を上げるけど
一通り部屋を見渡して、もう一度確認する。
だが、それこそ何ヶ月も前から準備してきたのだ。今更、慌てて用意しなければならないものもない。
クローゼットを開ける。
事前に送ってしまった衣類がなくなっているせいで、奇妙なまでにガランとしていた。こんな状態になっているのを見るのは、自分でも、今回が初めてのことだ。引き出しには季節外れの服が詰まったままだったが、それはまた後で送ってもらうことになっていた。
掛かっていた衣類がなくなったせいで、隅の方に重ねて置いていたケースが目に入る。一番最初に使っていた四分の一サイズのヴァイオリンから、中学の頃まで使っていたものまでが、そこには全部あった。
物心が付いた時から、ずっと側にあったものたち。
生まれた時からずっと過ごしてきた、優しい環境。
薄情だな、と思う。
それらを愛しいと思うことは確かなのに、惜しいとは思わない。
ここには、思い出が詰まっている。
それらは全て置いてゆく。
ただ。
――ただ。
クローゼットの扉を閉め、次は本棚の前に立った。
楽譜楽典の類も、所持していたものの殆どを既に送った。衣類や生活用品よりも、それらの類の方がかさばった。向こうに着いたら、まずはあれを整理しなければならないだろう。
残っているのは、僅か。
隙間だらけの本棚は、残されているものがひどく目立つ。
隅に立てかけていた、薄い青に白のラインが入ったフォトアルバムを手に取った。
満面の笑顔。照れくさそうな表情。
おどけていたり、澄ましていたり。
カメラを持つ手がぶれてしまうほどに笑った記憶がある、おかしい表情も。
詰まっているのは、眩しいほどの時の欠片だ。
ページを繰る指に心臓が移ってしまったかのように、それは震えた。胸が詰まる。
ヴァイオリンを弾いている姿に、そっと息を吐く。
切り取られた四角の中から、今にも音が聞こえてきそうだった。
優しく柔らかい音色が、鼓膜ではなく心を震わせて。そう。聞こえてくる。
脳裏に刻まれている音は、労せずいつでも再現出来た。それほどに染み込んでいる。ただ一人だけの緩やかな音色に浸りながら、ページを捲っていった。
指先で感じる薄さが、そろそろ終わりに近いことを知らせて、殊更ゆっくり捲った次のページには。後輩達に贈られた花束を抱え、泣き腫らした顔で笑う最後の制服姿があった。
『こんな顔で写りたくないのに』
そう言って擦った鼻が少し赤い。
残り少なくなっているページを捲ることは、しなかった。その先は――ない。
『私には、待ってると約束することは出来ない。だから』
『ああ』
『ごめんなさい』
『君が謝ることじゃない。…謝らないでくれ』
想い出というには鮮やかすぎる、胸に灯った光のような日々は。
卒業と同時に、終わったのだ。
パタン、とアルバムを閉じた。
どうするべきかと、暫し逡巡する。
ギリギリの今日という日まで決めかねていたそれを、スーツケースにしまい込む。
『楽しかったよ、二年間』
『俺もだ』
『でも。明日からは君を想うことは、やめる』
『そうだな。その方が…いい』
最後に握った掌の温かさを、優しすぎた君の瞳を、俺は、一生忘れることはないだろう。
でも、君は、全部忘れてくれていい。
なにもかも、全て俺が持って行くから。俺だけは、忘れずにいるから。
君の奏でた珠玉の音が、耳の奧に、いつまでも鳴りやまずに。
心を灯すその音が、多分これからも、君を求めてしまうけれど。
《side-KH》
祈るような毎日の中で もっと強く生きてゆけと
少しだけ弱気な自分を励ます もう戻れぬあの日の空
あなたは、知らない。
知らなくていい。
こんな風に未練を断ち切れず、こんな風に空を見上げて、溢れ出してくる涙を止められない私を。
青空の中に消えていく機体を見つめて、あなたを連れていってしまった全てのものに呪詛の言葉を吐いてしまいそうになる、弱い私を。
あれは、まだ私達が二年生で。三年生がもうすぐいなくなってしまうという頃。風の強い、暖かい日だった。
火原先輩と、音楽室で会った。先輩は、少し寂しくなるけど遊びに来るから、その時はまた一緒に演奏しようね、と言って、手を振って帰っていった。
先輩を見送った後、私は多分、来年は自分達も、志水くんや冬海ちゃんに同じ事を言うのかな、なんてことを言ったんだと思う。三年生がいなくなってしまうというほの寂しさを誤魔化すように笑って、でも大学部はすぐ側だからいつでも来られるよね、とも言った気がする。
だけどあなたは、いつものように優しくは、笑ってくれなかった。
どこか虚をつかれたように息を飲んで。それから、とてもぎこちない表情で、ほんの微かに頬を歪めた。多分笑おうとして、うまくいかずに失敗したんだと思う。
あの時のぎこちない空気と心に生じた奇妙な違和感は、いつもと同じ穏やかな日々に紛れ、いつの間にか忘れてしまって。
三年に上がって暫く経った進路決定の時期、私は知ることになった。私が大学部への推薦申請書を提出した、その日の放課後に。
『……留学することに、なった』
『…え?』
『本当は、ずっと昔から決めていたことなんだ。高校を卒業したら、留学すると』
『あ、ええと…ヴァイオリン…だよね、勿論。そっか。そう、なんだ』
『…ああ』
どうして、あの時に気付かなかったんだろう。
あんな、とても苦しそうな顔で言われるまで。
同じ楽器を手に、同じ曲を一緒に奏でて。このまま同じ道を、隣で歩んでいけるものだと。なぜ、ああまで疑いもなく思い込んでいたのだろう。
もちろん、ずっと先の将来まで一緒にいるというビジョンを描いていたわけではない。
でも。王崎先輩が星奏学院の大学部にいるように、火原先輩がそうしたように、私達も、すぐ側のキャンパスに場所を移し、また同じ日々を繰り返していけるのだと、疑っていなかった。とても自然な流れで、そうなるのだと。
――気付かなかった?本当に?
不自然すぎる反応に、気付けなかったわけがないのに。
目を瞑っていた?
――気付きたく、なかった?
多分、そうだ。
疑いもしなかった、思い込んでいた。
それも間違いではないかもしれないけど。
敢えて目を瞑っていたのだ、きっと。側にいる事の出来る時間が、何よりも大切だったから。そう信じていたから。
…そう信じていたかったから。
一緒にいられる時間に期限が設けられてから、私は多分、それまで以上に笑顔が増えたと思う。
覚えていて欲しかった。
高校生活のほんの二年間、一緒にいただけの存在になる私を、私が奏でられる精一杯の演奏を。
卒業式を最後に、私達は会わなくなった。
その時が近付けば近付くだけ、きっと私は耐えきれなくなると知っていたから。笑顔を作ることも、乱れぬ演奏をすることも。
私は、自分の中の弱い自分に負けて。
心を癒してくれる美しい旋律さえも、あなたを連れ去ってしまうものだと思うと、耳を塞いでしまいたくなるから。
そんな私を、あなたに見せたくなかったから。
――行ってしまった。
もう、名残の音すらも聞こえてこない。
広い世界への一歩を踏み出したばかりのあなたは、私を覚えていてくれるだろうか。
私の音色を、時々は思い出してくれたり、するのだろうか。
もう想わないと言ったのは、私のくせにね。
涙に滲む青色は、とても綺麗だ。
私は忘れない。
あなたが旅立った今日の日の空も、今はもう懐かしいとすら思える、出逢った春の日のことも。
忘れられないあなたとのことは、全部胸の中に、大切にしまっておこう。
そうして、それがいつか私の強さになってくれたらいいのにと、思う。
【 出逢った日の空を僕は忘れない /end. written by riko 】