appassionato
La corda d'oro

 譜読みをしていた月森は、ある箇所にきて思わず顔を顰めた。
 ――apassionato
 苦手と言ってしまって過言ではない発想記号だ。
 昔から幾度となく見慣れた譜面なのだが、条件反射といってもいい。思わず溜息が零れる。
 強弱や速度だけならば、練習を重ねさえすればいかようにも弾けるようになる。が、この発想記号――曲に感情を乗せる、というものは、技術だけではどうにもならない。
 それらしき音を作ることは、勿論出来る。伊達に何年も音楽をやってきたわけじゃない。
 だが、そんなものは聞く人が聞けば一発で見抜けるほど、底の浅いものだということは、自分自身が一番良く分かっていた。
 今まで人と深く付き合うこともなかっただけに、そういった感情の在り方自体が良く分からないものだったし、分からなければそれを心から表現することなど出来ようはずもない。
 その上、最近では何故か心乱れることが多く、音も安定しない。
 今までになく深い情感を込めた音を奏でられたかと思えば、ふとした拍子にまた、それが途切れてしまう。
「……技術も勿論だが…俺には、足りない物が多すぎるな…」
 譜面に再び溜息を落とし。月森は、そこから目を逸らすように、窓の外に視線を向けた。
 正門前の空間では、今や当たり前となった光景が繰り広げられていた。
 ヴァイオリンを演奏する女生徒と、その周りで演奏に聴き入っている生徒達。音楽科、普通科の隔てなく足を止め、彼女の紡ぎ出す音に耳を傾けている。
 さすがにここまでは音は届かないが、聴衆が増える一方で、逆に離れていく生徒がいないところをみると、彼女の音がそれだけ人を惹き付けるものだということなのだろう。
 正直、このコンクールが始まってすぐの頃は、彼女がこうまで成長することなど想像すらしていなかった。

『これ、何て読むの?』
『クレッシェンド』
『…意味は?』
『だんだんと強く。つまり、ここから少しずつ音を大きくしていけばいい。だが、この先にppとあるから、あまり強すぎてもいけないな』
『…pで始まって、クレッシェンドして、pp!? なんなのよそれはっ、そんな器用な真似、私に出来るかっての!』

 たかだかクレッシェンド一つで大騒ぎしていたのは、たった数週間前だというのに。
 元より感情豊かな彼女の事だ。こんな発想記号も、きっと今なら難なく弾いてしまうのだろう。
 そう思って彼女の姿を無意識に探すが、心ここにあらず、といった状態で想いに耽っていたせいか、既に眼下には、彼女の姿はなかった。
 下校時間まではまだある。帰ってしまったわけではないだろうが――。
 まあいい。
 一つ息を吐いて、再び机の上に広げた楽譜に目を落とし、頭の中で幾度もイメージを思い描いていく。が、やはりどうしても思う様な演奏は出来ない。こうなると、心の問題としか言い様がない。それは重々分かってはいたが――。

「まだ教室にいたんだ、良かった!」
 息を切らせて駆け込んできた香穂子を見て、月森が思わず瞬きを繰り返した。
「香穂子…。そんなに慌てて…どうしたんだ?」
 聞いた月森に香穂子は、いやー、などという返事にもならない言葉を返し、走り寄ってくると目の前の椅子に断りもなく座った。正門前からずっと走ってきたのだろうか、長い髪の毛は乱れ、額には僅かであるが汗が滲んでいる。
「あー疲れたー!」
 言いながら、手のひらでパタパタと扇いではいるが、あまり効果があるとも思えない。
「いつも楽譜集めるのに校内中走り回ってるから、体力はもう人一倍あるぞ、とか思ってるけど、さすがに階段の全力疾走は疲れるね。そーだ、ジュース買ってきたんだった」
 一人で捲し立てるように言うと、鞄の中をごそごそと引っかき回している。口を挟むことも出来ず、そんな香穂子の様子をただ見守っていた月森の前に、ぬっと差し出される缶コーヒー。
「はい、お裾分け。蓮、確かブラックで良かったよね」
「あ、ああ…。済まない、ありがたく貰う」
「私はスポーツドリンク。マジでスポーツだよねー、このコンクール。ってそれは私だけか」
 わはは、と豪快に笑いながらペットボトルの蓋を開けて喉に流し込むのを見てから、月森も受け取った缶コーヒーのプルタブを上げた。喉を、程良い苦さの冷たい液体が降りていく。
「美味しい?」
 にこりと笑いながら聞いた香穂子に、月森は頷いた。
「ああ、喉が渇いていたし。ありがとう」
「そっか、良かった」
 そのまま、二人してただ何となく外を眺めながら、教室内には液体を嚥下する音だけが微かに響いていた。
 二人が眺めている空は、少しずつ茜色に染まってきていた。
「……一日が過ぎるのは、早いよね」
「そうだな」
「こうやってさ、毎日毎日があっという間に過ぎていって、それはつまり毎日が充実してるってことかもしれないけど、なんか寂しくならない?」
「寂しい…?」
「うん。最初は、このコンクールだって何でこんなこと、って思ったけど、みんなに色々教えて貰いながら、もう明日には第三セレクション当日でしょ。ああ、ここまで来ちゃったんだよなあって。こうやって当たり前の様に蓮と話せるのも、後少しかなあ、とか」
 香穂子は外を向いたままだったけれど。その横顔は、今彼女が口にした通り、少し寂しそうな表情を宿していて。
「君が俺の所に来るのは、コンクール期間だからなのか?」
 思わず、月森は聞いていた。
 静かな問いに、香穂子はほんの少し唇を噛みしめた様に見えた。が、真っ直ぐに見つめている月森の視線を感じているにも関わらず、向き直ることはなく。
「……私、これでも結構人を見る目はあると思うのよ」
 月森の問いとは関係のない言葉を紡いだ。突然何を言い出すんだ、と眉を顰めた月森は、それでも言葉を重ねることなく、次の言葉を待った。
「人の感情の機微にも、疎い方だとは思わないし。たとえば、蓮が私に持ってるのは嫌悪感じゃないってこととか」
 今更だろう、と月森は思った。
 嫌いな相手と登下校を一緒にする程物好きではない。むしろ好感を持っているからこそだろう。
「だけどさ、もし私がコンクール終わって、ヴァイオリンを止めたとしたら。蓮の中に、私がいる場所はある?」
 そう言って、香穂子は月森を見た。真っ直ぐ、射抜く様な強い視線で。
「君が、ヴァイオリンを? ……止めるのか?」
 責める様な口調になってしまったと、月森は自覚していた。
 彼女の音を、彼女の紡ぐ音楽を、好ましいものだと思っていたからこそ、余計に、だろう。ヴァイオリンを、音楽を愛している人間でなければ出せない音。それを、彼女は表現していた。それに、月森は惹かれていた。だから。
「これはあくまでたとえ話。だけど、今思わなかった? そんなことはあってはならない、とか」
 図星を指され、月森は思わず息を飲んだ。香穂子はそれを見て屈託なく笑う。
「yes、ビンゴー。蓮、ヴァイオリン好きだもんね、つーかもう、愛して愛して堪らない、って感じ? ――ま、つまりそういうことだ」
「そういうこと……?それは、先程言っていた、俺とこうして話せなくなる、に繋がるのか?」
「うん」
 謎かけの様な香穂子の言葉は、月森の理解を超えていた。
 どういうことだ、と首を傾げる月森に、香穂子は柔らかく微笑む。
「ヴァイオリン止めるつもりはないし、きっとこれからもずっと弾いていくと思う。だけど、ヴァイオリンを止めた私を蓮が認められないなら、一緒にはいられない。私はどんなんでも私なわけだから、ヴァイオリンとセットだと思われるのなんて御免だし」
「別に俺は…君をヴァイオリンとセットだなどと」
「思ってないとは言わせないよ。さっき私がヴァイオリン止めたら、って話した時の顔。鏡で見たらきっと分かる。仲良くなれたのはヴァイオリンを始めたことがきっかけになったわけだけど、きっかけだけじゃなく、多分それ自体が繋がりなんじゃないのかな、今の私達には。それ以上の強固なものは何もない」
 確かに、そうかもしれない。
 今は、それ以上の物はなにもない。
 けれど。
「これから先もそうだとは…限らないだろう」
 香穂子の目が、驚いた様に見開かれる。月森はそれを見ていられず、思わず目を逸らした。が、それでも、言わずにはいられなかった。
「俺は確かに、君のヴァイオリンの音が好きだ。だが…それだけじゃ…」
 確かに、それ以外に、惹かれているものがあるのだと。
 そうじゃなかったら、息抜きの相手に彼女を誘うことだってなかった。ヴァイオリンを弾く際に、心を乱されることだって――。
「コンクールが終わった後も…俺は、出来るなら今までの様に君と過ごしたいと……思う」
 頬が熱くなっているのが分かって、それを見られたくない、と、殊更月森は深く俯いた。そんな月森を、香穂子はわざと覗き込む様にして。
「私が、ヴァイオリンを止めても?」
「……止めて欲しくはないが」
「今みたいに、毎朝迎えに来てくれる?」
 顔を逸らしても、それを許さないとばかりに、香穂子は笑うから。
「ああ…そのつもりだ」
 月森は顔を上げて。微笑む香穂子に、笑顔を返した。
「へへ、ちょっと安心した。なんかさ、後少しかなって思うと、出来るだけ一緒にいたいなーとか思っちゃって。さっきも下から、ここにいるの見えたから、走って来ちゃったんだけど」
 それを聞いて、ああ、と月森は納得した。
 今日は何の約束もしていなかったし、何となく待ち合わせ場所になっている屋上にも行かなかったから。もしかしたら、彼女は自分を探してくれていたのかもしれない、と考えて。
「……すまなかった、明日は待ち合わせ場所を決めておこう」
「うん」
 嬉しそうに笑う香穂子に、月森は胸がざわつくのを、否応なく感じてしまう。
 まただ、と。
 彼女のこんな笑顔を目にする度、どうしようもなく感情がさざめき立つ。
「ああ、この譜面見てたのか。次、弾くの?」
 さっきまでの遣り取りなど既に忘れた様に、机の上の楽譜に目を遣って聞いてくる香穂子に、月森は苦笑気味に首を振った。
「いや、そういうわけではないが。これはとてもヴァイオリンらしい曲だから。それだけに、何度弾いても納得することが出来なくて」
「なるほどねー…。それにしてもこの音符の多さには目眩がするわ……」
 こめかみを抑えて顔を顰める香穂子に、月森は笑って楽譜を差し出した。
「今の君なら、その気になれば弾けるだろう。持っていないなら貸そうか?」
「…とりあえずは遠慮します。今のところはコンクール曲以外のレパートリー増やす余裕などございませんの」
「そうか」
 沈痛な面持ちで首を振る香穂子の様子に笑いを堪えきれないまま楽譜を手元に戻すと。
「ね、弾いてみてくれない?」
 そう、ねだられる。嫌などとは言わないのが分かっているように、期待に満ちた瞳で。
「今、ここで?」
「そう、ここで」
 大きく頷く香穂子に、月森は仕方なさそうに微笑んで。
「分かった」
 と、ヴァイオリンケースを机の上に手繰り寄せた。一通りの準備をしている最中、
「apassionatoって――情熱的に、だっけ」
 この曲の一番最初に記されている発想記号を見て、そう聞いてくる香穂子に、一瞬月森はドキリとして。
「ああ、そうだが。良く覚えていたな」
「まあねー、一応勉強したし」
 少しだけ得意そうに頷いた後。
「情熱を傾けられる何かがあるのは、すごい幸せなことだよね」
 そう微笑んで、ヴァイオリンを構えた月森に、楽譜いる?と尋ねた。
「全部頭に入っているから、大丈夫だ」
「そう。じゃ、宜しく」
 親指を立てて、期待してるよー!と笑う香穂子に、月森は無言のままただ微笑んで、弓を引いた。
 香穂子が目を閉じ、奏でる音楽の中に深く身体を沈み込ませていくのを目にしてから、月森も音楽の中に身を浸した。

 情熱的に、熱情的に――。
 ヴァイオリンに対してのそれならば、意識したことがある。それだけの想いを持たなくば、こうまで長い時間を費やすことなど出来ないだろう。
 が、それだけじゃなく。
 ヴァイオリンに対してのものとは別に、そんな強い感情を抱くほどの想いを、何故か知っている気がした。
 香穂子が側にいて、笑いかけて、話をして。
 きっと、これからも、そうすることで――。

 込められた感情は確かにapassionato。
 しかし、月森自身がそれに気付くのは、もう少し先のこと――。

【 appassionato /end. written by riko 】