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La corda d'oro

 別に、普段の私が作り物というわけでも、嘘で出来ているわけでもない。
 紛れもなく本物の私自身だ。そんなのは、16年自分と向き合ってきた私自身が、一番良く分かってる。
 けれど。

 時には、弱気になる事ことだって、ある。
 とても悔しいけれど、どうしようもなく足元が揺らいでしまうことだって、あるんだ。

「どうしたの、元気ないじゃん」
 不意に顔を覗き込まれて、思わず身体全体のけぞってしまう。
「あ、天羽ちゃん!」
「珍しいね、浮かない顔して考えごと?」
「……や、考えごとってほどのことじゃ、ないんだけどね」
 自分でも微妙な表情だったと思う。いつもみたいな顔じゃ、絶対にないってことが、ハッキリ分かる。
 天羽ちゃんは、少しだけ眉間に皺を寄せて、何も言わずに隣に座った。

 ついさっきまでは私以外、そして今は私達以外、誰もいない音楽科棟の屋上。
 土曜日の学校はいつもの賑やかさはなくて、特にこの屋上は、とても静かだった。
 週末は公園や駅前通りなんかの人が多い場所で練習することが習慣化していた私が、一人こんな場所にいるのは珍しくて。その賑やかな場所で大抵顔を合わせていた天羽ちゃんも、それは分かっているはずだ。
 人目を避けるようにこんな場所に来た理由は、たった一つだ。

「音楽ってさ、音を楽しむって書くんだよね」
 天羽ちゃんが、不意にそう言った。
 内心を読まれたようで、少し居心地が悪い。
 けれど、その言葉は、不安定になっていた足元を確認させてくれる言葉のような気がした。
 頭の中で反芻した後、声に出して言ってみる。
「音を、楽しむ、かあ」
「あんたの音は、楽しいと思う。難しいことは分からないから、技術とか、表現とかさ、そういうのってサッパリだけど、聴いててこう、なんか楽しくなるよ、私はね」
「そっかな」
「そうだよ」

 コンクールが始まって、早くも一ヶ月近くが経とうとしている。
 その間、やったこともなかったヴァイオリンという楽器を、夢中になって、必死になって弾いてきた。
 今まで縁がなかったクラシックというジャンルが身近になり、縁がなかった音楽科の人達との交流も、楽しかった。知らない人と知り合えること、話したことのない人と話せること。
 知らなかった音楽を、自分自身で奏でられること。
 これまでの日々を無為に過ごしてきたなんてことは欠片も思ってない。出来うることを出来うる限り、やるべきことは最大限に。それが私の信条だ。だから、後悔するような毎日なんて、送ってない。ずっと、昔から。
 でも、それでも。
 こんなに楽しいことを知らなかったなんて、今までの自分はなんてもったいないことをしてきたんだろう、って。
 そんな風に思ってしまうくらい、毎日が楽しくて、充実してた。

 でも。
 こんな楽しい毎日を送れていたのは。
 それは。

「……あのさ」
「うん」
「天羽ちゃんには…話してたっけ。私、ヴァイオリン初心者だっての」
「ああ、うん。聞いてるよ。魔法のヴァイオリン…だっけ?」
「そう」
 足元に置いていたケースを膝の上に乗せて、留め具を外す。
 両手でケースを開けると、天羽ちゃんの視線が中に注ぎ込まれるのを感じた。
「魔法のヴァイオリンって言っても、私なんかじゃ、普通のとどう違うのか分からないね」
 そう言った天羽ちゃんに、私は小さく否定の言葉だけを口にした。
「ううん」
「ううん、って…どういうこと?」
 首を傾げて、天羽ちゃんは不思議そうに尋ねた。
 その天羽ちゃんの前で、私はヴァイオリンを手に取り、弓を張って、調弦を始めた。
 何も言わない私に、天羽ちゃんは咎め立てすることもなかった。
 一通りの準備を済ませ、弓を引く。
 流れ出す音に、天羽ちゃんが、「あれ?」と言わんばかりの引っかかった顔をしたのが分かった。けれど、そのまま一曲全部を弾ききる。勿論、コンクール用に短く編集された、一分半の曲だけれど。
 最後の一音を奏で終わると、天羽ちゃんは、拍手と共に、「ブラボー」という言葉をくれた。
 何度も弾いている曲で、天羽ちゃんにも何度か聴いて貰っている曲。だから、きっと違いが分かる。最初の表情が何よりの証拠。
「あのさ、もし違ったら申し訳ないんだけど……」
 拍手の後、少しためらうようにして口を開いた天羽ちゃんに、私は頷いて見せた。
「そのヴァイオリン……」
「今までと、違うよ」
「じゃあ……」
 私は、ヴァイオリンを膝の上に乗せて、再び天羽ちゃんの横に座った。
「普通のヴァイオリンだよ。何の仕掛けもないし、魔法もかかってない」
 自分で言った言葉に、少し声が震えたのが情けなかった。
「魔法のヴァイオリンっていうのはね、元々そのヴァイオリンが持ってる力ってのを凝縮させてたんだって。なんて、実は私も良く分かってないんだけどさ」
 天羽ちゃんは、何も言わない。
「何にも知らない初心者でもヴァイオリンが弾けるように魔法をかけられたヴァイオリンは、その力を使い果たして、とうとう壊れてしまいました」
 驚いたように目を見開いた天羽ちゃんが、小さく呟いた。
「壊れちゃったんだ……」
「壊れちゃったんです」
 口にすると、こんなに簡単なことだ。
 たった一言で、済んでしまう。
 哀しむことはない、とリリは言った。
 違う。哀しいわけではない。
 ただ、寂しいだけだ。
 ただ、申し訳ないだけだ。
「……私なんかのために、寿命短くさせちゃったのかと思うと、申し訳なくてさ。ちゃんと上手い人に弾いて貰えれば、もっといい音を、もっといい音楽を、たくさんの人に聴いて貰えたのに」
 たとえば、月森蓮とか。
 たとえば、王崎先輩とか。
 そうじゃなくたって、音楽科にいる、たくさんのヴァイオリン専攻の人達。
 彼らに弾いて貰えれば、きっともっと良かったんじゃないかと。
 思わずに、いられない。
「……こんなの、柄じゃないんだけどね。私が今までヴァイオリンを弾いてこれたのって、全部魔法のヴァイオリンのおかげだし。勿論、それ以上に努力はしてきたつもりだけど、それってあくまで『つもり』でしかないかも、とかね、考えたら……人前で演奏する気に、なれなくてね」
 人のいないこんな所に来てしまったんだ、と告白する。
 そうだったんだ、と呟いた天羽ちゃんは、言葉を探しているのか。愛用のカメラを手に、少しの間俯いていた。暫くして顔を上げると、真っ直ぐ前を向いたまま、言った。
「私は楽器なんて何も出来ないし、クラシックなんて堅苦しくて無縁だって思ってたけど、あんたが頑張ってるの見て、身近に感じられるようになったよ」
「堅苦しくて無縁だって思ってたのは、私も一緒だな」
「だよね、普通科の私達には、音楽科すら無縁だったって言うかさ」
「うん」
「私には残念ながら妖精は見えないし、なんでそれが日野ちゃんだったかも、分からないけど」
「……うん」
「人選は間違ってなかったって、私は思うよ。あんたは本当に頑張ってたって思うもん。音楽科の嫌味にも柚木様親衛隊の嫌がらせにもめげずにさ」
 言うと、脇に持っていた鞄から、一枚の写真を取り出して渡してくれた。
「これ。練習してる日野ちゃん」
 写っているのは、目を瞑って、ヴァイオリンを弾いている自分自身。後ろに写っている光景からすると、多分音楽室だ。が、いつの間に撮られたものなのか、全然覚えがない。
「綺麗でしょ?って、自分自身ではなかなかそんな風には思えないか」
「うんまあ……生憎、ナルシストの気はないなあ」
「けどね、私はすごい綺麗だって思ったんだ。一心不乱に、それこそ私がシャッター切ってる事にも気付かずにヴァイオリン弾いててさ、なんかもう、見とれちゃったんだよね、この時」
 ただ、ひたすらヴァイオリンを奏でる事だけに夢中になってる、私。
 他に何も目に入らないほど、集中している時の、私。
「……こんな顔してるんだ…。なんか妙に恥ずかしいつーか……」
 自分がどんな顔して弾いてるかなんて分からないからいいのかもしれない。
 こんな顔してるんだよ、ってのを第三者の目から見せられたことになるわけで、これから人前で弾く時、無駄に意識してしまいそうで、なんか照れくさい。
「なんでさ。綺麗だよ、すごく。きっと、このヴァイオリンも幸せだったんじゃないかな、こんなに一生懸命弾いてくれてさ」
 にっこりと、天羽ちゃんは笑った。
「その写真、あげるよ。想い出にってのもあれだけど、良かったら取っておいて」
「……天羽ちゃん」
「私もそれ気に入ってるんだ。自分の好きなことを一生懸命やってる姿ってのはさ、人を感動させる力があると思うんだよね。でもって、私はそれに感動した。日野ちゃんの演奏が、私は好きだな」
 天羽ちゃんが、私の肩をぽん、と叩く。
「これからも、聴かせてよね、たくさん」
「……天羽ちゃん……」
「そう思ってるのは、私だけじゃないよ、絶対」
 そう言って、天羽ちゃんは立ち上がった。

 いくら考えても、分からない。
 本当に、あのヴァイオリンを弾いたのが、私で良かったのか。
 あのヴァイオリンは、その寿命を縮めてまで、私に音楽の世界を教えてくれたけど、それが、本当に良かったのか。
 あのヴァイオリンの寿命を縮めるような意義が、私にあるのか、なんて。

 けれど。
「……ありがとう」
 私の演奏を聴いて、それを好きだと言ってくれる人が、いる。
 あのヴァイオリンがくれたものを、無駄にしたくない。無駄になんて、してたまるか。
「落ち込んでる暇なんて、ないよね」
「そうそう!落ち込んでる日野ちゃんなんてらしくないって!」
「うわ、言ってくれるじゃないよ!」
「貴重なものを見たって気はするけどさ」
 くすりと笑って、天羽ちゃんはカメラを構えた。
「ささ、一枚!新しい相棒と一緒に、撮らせてよ!」
 高くつくよ、なんて言いながら笑って、私は再びヴァイオリンを構えた。

 シンデレラじゃないけど、魔法のかかった特別な時間は終わった。
 けど、シンデレラにガラスの靴が残ったみたいに、私にはたくさんの想い出と、音楽の世界が残ってる。
 特別な時間が引き合わせてくれた人達との付き合いも、きっとずっと続いていく。
 私は、ヴァイオリンを弾き続ける。
 私の本領は、ここからだ。今までの時間を意義のある物に出来るか、出来ないか。それが試される時が来たと思えばいい。
 一つの曲を覚えるまで、今までより時間がかかっても、どんなに拙くても。
 あのヴァイオリンで響かせられた音色と遜色ない音を、いつか響かせられるように。
 あのヴァイオリンに、私自身に、恥じることのないように。

 だから。

「今の、なんていう曲?」
「ヴァイオリンへ、愛を込めて」
「オリジナル?」
「そんな大層なものじゃないよ、私が弾ける色んな曲から適当につなげただけだけど。なかなか?」
「日野ちゃん、最高!」
「著作権もへったくれもあったもんじゃないけどねー」
「気にしない気にしない!」

 顔を上げて、奏でよう。
 ポケットの中にある金色の弦が、小さく共鳴したように思えたのは、きっと私の願望だけど。

 音楽を。
 音を楽しむことを教えてくれた、かけがえのない存在に、愛と、感謝の気持ちを込めて。

【 Thanks for… /end. written by riko 】