Are you ready?
La corda d'oro

 午前七時半。いつもの時間に目覚ましが鳴った。
 けたたましい音にピクリと瞼を動かした彼女は、だが、それを布団の中から伸ばした手でダン、と押さえ付けるようにして、時計の天辺に存在してるスイッチを切った。
 途端、部屋には微睡むにふさわしい静けさが戻ってくる。
 それに満足したのか、頬には柔らかい笑みが乗り、幸せそうな表情で、彼女は再び夢の中に落ちていったようだ。すこー、という至極穏やかな寝息が、替わりに部屋を満たしていく。
 暫くしてそれを破ったのは、これもいつもの母親の声。
「またもうあなたは目覚まし止めて!ほら、起きなさい!」
 ドアを開け放つと共に飛び込んできた闖入者の声に、彼女は再び、ピクリと瞼を動かした。が、目を覚ますまでには至らないようで、口の中で意味不明な言葉を呟くと、寝返りをうち、更に毛布の中に深く入り込む。
 その様子に呆れたように溜息を付いた母親は、彼女のくるまっていた毛布を剥いだ。
「こら、起きなさい!いつまで寝ているの!」
 身体を包み込んでいた柔らかな温もりがなくなったことで、彼女は不満そうに顔を顰め、眠そうな目をしばたかせた。
「……もう朝ぁ…?」
「そう。もう朝よ。遅刻したくなかったら早く起きなさい」
 仁王立ち、と言ってもいいような母親の姿を目にして、彼女は眠い目を擦りつつ布団の上にむくりと身体を起こした。
「分かった…起きる……」
 ぼうっとしたままの返事に半分呆れた様子は隠せないものの、母親は「早く支度してご飯食べなさいね」と言い置くと、部屋を出て行った。パタンと閉まったドアを何とはなしに見ていた彼女は、その後ベッドの脇に置いてある目覚まし時計を見遣り。
「…ちっとも目覚ましの役目果たしてないなあ、これ。新しいの買おうかなー…」
 自分で目覚ましを止めておきながら、そんな事を呟いた。
「けど…お母さんより効果のある目覚ましなんて…あるかな……」
 ふーむ、と考え込んでから。
 時計の針が差す時間を改めて確認し、慌ててベッドから降りたのだった。

 星奏学院、普通科二年。日野香穂子。
 彼女は、あまり寝起きが良くなかった。

 ベッドから降りて、パジャマを脱ぎ、下着やらなにやらを付けて、制服に袖を通し。姿見で全身を映してチェックして、よし!と頷くと、鞄を持って下に降りる。
 洗面所で顔を洗って、きちんと用意された朝食を綺麗に食べて、再び洗面所に逆戻り。歯を磨いて髪をブローして、一通り用意を調えると、玄関で靴を履き。
「行ってきまーす!」
 家の中に声を掛けて歩き出す。
 学校までは徒歩で十五分程度。近くて便利な反面、あまり時間の余裕は見ていないから、うっかり油断して寝坊なんかしていると遅刻してしまう。

 いつもと同じ毎日。
 いつもと同じ通学路。
 いつもと同じ、学校生活。

 ……だったはずなのに。
 それがたった十五分後に、思いも寄らない展開を見せるとは、この時の香穂子に知る由もない。


 正門前、話をしていた友人に声をかけられて、学内コンクールの話をしていた時だった。香穂子の目の前に、『それ』が現れたのは。
「お前、我輩が見えるのか?」
 呆然自失、と言うのが正しいか。香穂子は何度も自分の目を擦り、幻覚じゃないかと確認した。横で話している友人の話など、全く耳に入ってこない。何よりも、全く変わらずに会話を続けている友人たちには『これ』が見えていないという事実を突きつけられているようなもので、思わず現実逃避したくなる。
「……なんなのよ一体…これは…」
 が、『それ』は奇妙な表情で自分を見ている香穂子の驚きなど解さず、やたら嬉しそうに声を弾ませていた。
「我輩の声が聞こえるか?我輩の名はリリ…ちゃんと、聞こえているな?」
「…は?リリ?」
 つーかあんたは何。つーかこれは何。私の目はどうなってるんだ一体!
 香穂子があまりに非日常的な光景に、何から言っていいものやら頭の整理が全くつかずに混乱していると。
「素晴らしい!ではお前が六人目だ!これで決まりなのだ!」
 それだけ言って、『それ』は満足そうに消えていった。
(何が素晴らしいんだ一体)
 そんな事を思いつつ、とてつもなく妙なものがいた空間を、言葉を失ったまま凝視していた香穂子は、横から掛かる友人の心配そうな声にも、満足に答えられず。ただ、予鈴の鳴る音に現実に帰って、慌てて走り出したのだった。
(よし。今のは見なかったことにしよう)
 そう、心の中で深く頷いて。


 が、昼休み。香穂子は、報道部員である天羽菜美の来訪を受け、事態が自分の思いも寄らない方向へと進んでいたことを知った。
「んーと、天羽さん、だっけ。一体、そのコンクールって何の事?私、さっっっぱり分からないんだけどそんなこと聞いてないし知らないし、つーか全く心当たりないし。人違いじゃない?」
 そう尋ねた香穂子に、天羽は不思議そうに聞いた。
「廊下の掲示、張り直されたじゃない。見てないの?」
「見てません。知りません。ええ全く。ちっとも」
 こくり、と深く頷く香穂子を、それじゃあ、と。

『追加参加者:普通科 二年二組 日野香穂子』

 音楽科生徒の名前ばかりが並ぶ紙の下に、燦然たる輝きを放つ、普通科生徒である香穂子の名前。それが書かれた張り紙の前へと天羽は連れ出した。
 香穂子はそれを見て、しばらくの間、ぽかん、と口を開けていた。それもそうだろう。全く心当たりがないのだ。
 ややして、子供が絵本を読む時のような口調で自分の名前を読み上げる。
「……ついか、さんかしゃ。ふつうか、にねん、にくみ。ひの、かほこ。……って、私!?」
 ぐりん、と首を回して振り返った香穂子に、天羽は親切にも担当教師を教え。次は音楽室へと誘ったのだった。
 音楽室へ向かう途中の香穂子はと言えば。
「……同じクラスに、日野香穂子って…いないよなあ……。それとも、もしかして、もう一人私がどっかにいるのか…。それとも…そうか、小説とかでよくある、インザパラレルワールド……有り得る…今朝も変なの見たし……。家ではいつも通りだったんだけど…これはきっと、通学路に何か罠が……」
 などと、現実逃避以外の何物でもない、埒も空かない独り言を呟きながら、しきりに首を傾げていた。


 そして辿り着いた音楽室。
 そこではどうやら、音楽科生徒が言い争いをしている真っ最中、といった所。三年が、二年の男子生徒にコンクールの辞退を迫っているようだ。
 おかげで、話を聞こうとしても、現在取り込み中だと構って貰えず、苛々しながら事態を見守っていた時に現れた今朝の変なもの。
「……あっ!」
 思わず声を上げながらも、全ての人間がいなくなるまで辛抱強く待った香穂子は。
「金澤先生」
 そう、声をかけた。
「待たせたな。お前さん、えーと」
「普通科二年二組の日野香穂子です」
「ああ。追加の」
 自分を認めて頷いた所を見ると、やはり別人ではないらしい。じゃあやっぱりパラレルワールドか。
 香穂子がまた妙な思考に耽っていると、金澤が少し気の毒そうな視線を向ける。
「あー。そういや、お前さんは事前告知がなかったんだっけ。ま、そういうことになったんで、1つよろしく頼むぜ、コンクール。な」
 パラレルワールドだろうがなんだろうが、勝手にそういう事に決まっているらしい。そう言えば、今朝見えて、今も視界の隅でパタパタ空を飛んでいる妙なものは、「六人目だ」とか何とか言っていた。
 段々と事態を理解し始めた香穂子は、現実逃避を諦めたらしく。ふう、と息をつくと、金澤に改めて向き直った。
「どーゆーことですか一体。説明して下さい」
「なんでお前さんが選ばれたか、とかは、俺には答えられん」
「どーしてですか」
 座った目つきで尋ねる香穂子に、金澤は肩を竦めて答える。
「俺が知ってるのは、お前さんがヴァイオリンで登録されてるってことだけだし」
「……はぁ?ヴァイオリン?」
 なんですかそれ。それって食べられるの?それって美味しい?
 今にもそんなことを言い出しそうな視線で見上げた香穂子に、金澤はへらりと笑って言った。
「へーきへーき。教えてくれるヤツがいるから。お前さんには見えるだろ、連中が」
「連中……って、もしかしてアレっすか」
 びし、と空に浮かんでるものを指差しても、金澤は軽く眉を上げて笑うだけ。
「ちゃんと聞いとけよ」
「何をですか」
 ここにきて、香穂子の機嫌は最悪にまで下降していた。
 何が何だかさっぱり分からないまま、噂程度にしか知らないコンクールに出ろと言われて、はいそうですか、と言える程、香穂子は人間ができちゃいない。説明らしき説明もない教師を見る目も、自然険しくなる。
 そんな、教師を見るとは思えないような視線を送っていた香穂子を見て、一瞬、ほんの少しだけ情けなそうに眉を下げた金澤は、けれど再び何を考えているのか良く分からない曖昧な表情を作ると、
「コンクールの細かいことは放課後話してやるからさ。じゃあな」
 それだけ言って、くるりと背を向けた。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ先生!可愛い生徒をこんな訳の分からないもんと二人っきりにするんですか、ちょっと、先生っ!」
 香穂子が必死な声で引き留めても、金澤は「頑張れよ〜」という言葉だけ残して去っていってしまった。
 その場に残されたのは、香穂子と、香穂子曰く『訳の分からないもん』。

「やっと話す時間が取れたのだ。我輩たちを見てくれて嬉しいのだ!慌ててコンクール参加者に追加したかいがあったのだ!」
 香穂子は、否応なく襲ってくる頭痛に頭を抱え、脱力したようにその場にしゃがみ込んだ。
「……コンクール参加者に追加ってのは、やっぱあんたの仕業か……」
「我輩の目に狂いはない。お前こそ我輩たちファータの願いを叶えるものなのだ!」
「……ファータ?」
「我輩たちファータのことは、今見えている者に触れば聞ける。それともこれからの話をするか?」
 ふう、と息をついた香穂子は、よいしょっと、と声を上げながら立ち上がり。ぐるりと視線を回して、いつの間にか現れている、目の前にいる妙なものと良く似たもの達を見渡した。
「……これに聞けば、分かる訳ね」
「ああ、それじゃあ待っているのだ」
 香穂子は、順に『それ』に指先を触れさせ、話を聞いた。
 結果分かったのは、彼らを『ファータ』と呼ぶこと。学内コンクールの主催者は他ならぬ彼らだと言うこと、などなど。

「……とりあえず、理解は…した。多分。で、あんたは」
 溜息混じりに腕を組んで聞いた香穂子に、『それ』は目を輝かせて話し始めた。
「我輩はリリ。ファータという種のものだ。ファータは、人間たちに音楽の妖精と呼ばれることもあるのだ。そもそも我輩たちファータはそのソンザイイギを存在の幸福というジコウに負い…」
「ああそれ以上はいいや。面倒な話はとりあえず置いておこう」
「そうか?な、ならいいのだ」
「じゃ、私からも言わせて貰おうかな」
 腰に両手をあて、香穂子は宣言した。
「私、コンクールなんかに出るつもり、ないから」
 リリの瞳が丸くなる。
「そうなのか?お前、本当にコンクールに出たくないのか?」
「出たくない」
「またまた、そんなこと言って〜。本当は出てくれるんだろう?」
「出なきゃいけない理由がない」
「そ、そんな…本当にどうしても出たくないのか?」
「出たくないってば」
「我輩はお前がフツウカでも気にしないぞ?それでも出たくないか?」
「普通科とか音楽科とかの問題じゃないから。人に何かを強制されんの、嫌いなんだよね、私。コンクールとか言われても、全然ピンと来ないし。そういうのは出たい人が出ればいいじゃない。さっきの、音楽科の三年みたいな人、選んだら?正直言って面倒だし、私は御免被るよ」
「う…」
 リリがしゅん、と落ち込んだように小さな肩を落とす。
「本当に、いやなのだな…。お前に無理を言うのは我輩も気が引ける。だが、今は我輩の姿を見られるのは学院ではお前だけ。お前を頼るしかないのだ」
 ちょっと待て、他に参加者がいるってことは私だけって事はないでしょーよ、と思いながらも、あまりに落ち込んでしまった様子のリリに、香穂子はぐっと息を飲んだ。弱い者苛めが大嫌いな香穂子にとって、今の状況は非常に胸が痛む。自分は正当性を主張しているつもりだったが、どうにも分が悪い。
「お願いなのだ、頼むから、我輩を助けてくれ。コンクールに出てほしいのだ。一緒に世界を幸せにしてほしい。このコンクールの間だけ。それ以上は無理は言わないのだ」
 縋るような目、というのは、こういうのを言うのだろう、と香穂子は思った。
 それほどに強く訴えられては、先程までのように無碍に断ることもできない。それに。
 香穂子は、「頼む」とか、「助けて」とか。そういった、誰かに頼られるような言葉や状況に、至極ほだされやすい性格だった。
 楽器もできない自分に、コンクールの参加など出来るわけがない。
 第一、そんなしがらみに縛られるのは面倒だと思う。
 けれど。
 小さな羽を羽ばたかせ、一生懸命に自分を説得しようとする、良く見てみればとても可愛らしい姿の、ファータという生き物の、瞳は。
「そんなに長い間じゃない。ちゃんとお前用の楽器も用意する。な?」
 とても、真っ直ぐで。何よりも、純粋に音楽を愛していて、きっと、人という存在をも深く愛しているのだと、否応なく分からせる。

(ああもう、どうしてくれよう!なんつー面倒に巻き込んでくれたんだ、この音楽の妖精とやらはっ!)

 香穂子の内心の葛藤は、先程までと違い、否定の言葉を出すことを躊躇わせ。結果、リリは香穂子が納得してくれたものだと思ったのだろう。
 必死に縋るような瞳が、どこか幸せそうで嬉しそうな、いきいきとした表情へと変わり。
「大丈夫、我輩たちファータがお前の助けとなろう。我輩たちは人の幸せのため、世界中に存在しているのだ。きっとお前の幸せの役に立つぞ!お前なら大丈夫だ、きっとうまくやれる。なんせ我輩たちファータと抜群の相性だから!頼む!」
 そうまくしたてるように言うと、どこからともなく一つのヴァイオリンが、香穂子の手の中に現れた。
 その奇怪な現象に驚く間もなく、リリは言う。
「このヴァイオリンは、我輩たちファータからお前への贈り物なのだ」
「贈り物……」
 これで、参加をしろと言うわけですか。
 香穂子の戸惑いを余所に、リリは得意そうに続ける。
「これは魔法のヴァイオリン。我輩が長年研究してきた成果なのだ。これはすごいヴァイオリンだ。なんせ我輩が魔法をかけた。誰でもすぐ弾けるのだ。ちょっと試しに弾いてみてほしいのだ」
 わくわくと、とても期待しているような目で見つめられて、香穂子は溜息と共にそれを眺めた。

 飴色とでも言うのか、とても深い色合いの楽器は、香穂子にとって珍しい以外の何物でもない。こんなに近くで見たことも、手に取ったことも初めてだ。どうやって構えるかも良く分からない。テレビで見たことくらいならあったが、特に注視していたわけでもないので、詳しい事は思い出せなかった。
 けれど、何故かとても手にしっくりと馴染む。まるで、ここにこうしていることが当たり前のように。
 不思議な感覚に戸惑いつつ、柔らかく指で曲線を撫でてみる。
 と、不意に、先程この場所で、この楽器を弾いていた生徒がいたことを思い出した。そういえば今朝、正門でも会った。その後リリを見た事で頭が混乱し、すっかり忘れていたが、コンクールに参加すると友人も話していたし、先程もそれ絡みで揉めていたわけだから、間違いはないはず。何だかあまり感情を表さない感じの冷たい印象の人だったけど。
 でも、あの音は綺麗だった。

 香穂子は、そんなことを考え、彼が弾いていた姿を思い出しながら、とりあえずそれらしき構えをとって、弦の上に弓を引いてみる。
 と、なんとなく思いついたままに動かしただけなのに、何故かメロディらしきものが滑り出した。
 それに一番驚いたのは香穂子で。
「なかなかいいぞ!やはりお前はファータと相性がよいようなのだ。あとは楽譜だな。お前に渡したヴァイオリンは、そこらのものとは違うから…。だから、楽譜も普通のものよりファータ印のもののほうがいいはずなのだ」
 などと喜んでいるリリの声も耳に入らず、左手に持ったヴァイオリンをしげしげと眺めてしまう。妙に手に馴染む楽器と、拙いながらも、自分が出したなどと思えない、不思議な音色。
 何故か、手の中にあるそれを愛しいと思う気持ちがある。
(……ちょっと、弾いてみたいかも…)
 自分の心の変化に驚きつつも、香穂子はそれを不快には思わなかった。

 と、そこに、リリが出した、いきなりの三択問題。
「最初の1枚だけは我輩がやろう。お前のことを教えてほしいのだ。どれか、と問われれば、お前はどのタイプなのだ?」
 目をしばたかせながら、香穂子はヴァイオリンを持ったまま、聞き返した。
「は?分析力と行動力と…あと、包容力?」
「そうなのだ。さ、教えてくれ、どれなのだ?」
 首を傾げつつ考える。どれなのだ?とか言われても、どれなんだか、自分じゃ良く分からない。けれど、まあ分析力、という程、ご立派な分析が出来るとも思えないし、包容力と言えるような広い心の持ち主ではないと自覚している。
「…その中なら、まあ、行動力?」
 一度やると決めたことはやり遂げるのが信条だし、そのためにやるべきことなら、割と何でも出来る自信はある。今までも大抵のことなら自分で動いて何とかしてきたし。
 とまあ、他の二つより間違ってない気がするから、という選択ではあったが。
 だけどこれがどう関係してくるのよ、と聞こうとした香穂子に、リリは更に聞いた。
「では、お前は比較的どちらのタイプなのだ?男の好みじゃないぞ」
「明るく楽天家、または、面倒見がいい親分肌ぁ?」
 また訳の分からん質問を…と思うが、意外と付き合いの宜しい香穂子は、うーんと悩んで考え込んだ。
「……別に暗くはないし、明るくなくはないと思うけど…楽天家、ってほどでもないし…あ、でも割とそうかも。でもまあ…人には良く姉御肌って言われるから、一応後者、かな」
 そうか、とリリは満足そうに頷いて、一枚の楽譜を取り出した。
「…ではこの楽譜をやる。『メロディ』の一部なのだ」
 そう言った後、楽譜の話や楽器の話をして、とても愛しそうな目でヴァイオリンを見つめ、次いで香穂子の顔を見つめる。
「とにかく大切に扱ってほしいのだ。よろしく頼むのだ!」
 香穂子は、少しの間黙り込んだまま、そのヴァイオリンを眺めて。
「リリ」
 そう、アルジェントの位にあるファータの名を呼んだ。
「なんだ?」
 きらきらと、本当に楽しそうに輝く瞳を、香穂子は可愛いと思った。さっきまでは、妙なものがいる、としか思っていなかったのに、と思わず笑いそうになってしまう。
「やってみるよ、私。頑張ってみようと思う。なんか、このヴァイオリン、弾いてみたいって気になってきた」
 リリの、そして周りを飛んでいたファータ達の瞳が、喜びという感情に見開かれた。まるで、その場に光が満ち溢れたように。

「コンクールへようこそ、日野香穂子!お前にとっても我輩にとっても、素晴らしいコンクールになることを期待しているのだ!」



 而して放課後。コンクールについての説明をしてくれる、と言っていた金澤の元へ、自分を置き去りにしていった恨み言ついでに、と話を聞きに行った香穂子は。
「なんだ、お前さんか。今回は災難だったな。ま、コンクール頑張れよ」
「それで終わりですか」
 やる気のなさ全開の台詞に、うろんげな目を向けた。そんな香穂子の視線を受けて、金澤が、お、と言ったように目を見開いて聞く。
「…あれ、用事か。なんの用だ?」
 用事があるから来たんだよ、説明してくれるつったのはどこのどいつだ、などと思いながら、香穂子は先程の意趣返しでもしてやろうか、と殊勝な表情に瞬時切り替え、少し俯き加減で言った。
「…やっぱり、私、辞退出来ませんか」
「あー、そりゃ困ったな。選んだの、俺じゃないしな。お前さん、あれだろ。ファータ――いや、妖精に会っただろ?あれ見ちゃうと、もれなく参加決定なんだよ。というわけで、俺としてはあきらめてもらうしかない」
「でも…私……」
 香穂子は俯いたままぎゅっとヴァイオリンケースを握って、小さく拳を戦慄かせる。
「頼むよ、日野。ちょっとの間でいいんだ。このお祭りにつきあってくれ」
 黙ったままの香穂子に、金澤は困ったように。そして、柔らかいトーンの声で諭すように続けた。
「ファータが何かってのは俺も知らん。だから聞くなよ。昔っからこの学院にいて、コンクールは実はヤツらの主催だってだけだ」
「……どうしても、参加しなきゃだめなんですね。…分かりました」
 そう頷くと、僅かホッとしたように息をつく。
「でさ。他のヤツには妖精が見えるなんて言うなよ。おかしなヤツだと思われるぞ。コンクール参加者以外にはファータたちは姿を見せないからな」
「はい」
「もちろん、今の俺にはファータは見えない。参加者じゃないからな」
「……そうですか」
「――さて。コンクールのこと、聞きたいなら説明しないでもないぞ。最低それくらいはやらないと給料がもらえない。質問されないほうが楽だけどな」
 やれやれ、と言わんばかりの金澤に、顔を上げた香穂子は、ニヤリ、とでも称するのが正しいだろう、あまり品の良くない笑みを見せた。態度を一変させた香穂子に驚いたように、金澤が目を見張る。
「……どうかしたか?」
「『今の先生には』見えないんですか。へぇ〜、なるほど。どうりで、担当教師に選ばれるわけですね」
 自分の失言を悟ったのか、眉根を寄せた金澤に、香穂子は更ににっこりと微笑んで見せた。
「安心して下さい。内緒にしといてあげます。みんなが知ったら色々聞きたがるでしょうしね。お仕事増えちゃ困りますもんねー不精者の金澤先生」
 ぐ、と二の句を告げないでいる金澤に背を向けて。
「あ、昼休みの時点でリリには参加表明してるんでご心配なく。ま、先生の手も出来るだけ煩わせないように努力はします。けどまあ、何かあったら助けて下さいね、昔取った何とかって言いますし。もちろん給料の範囲内で結構なので」
 肩越しにひらひら、と手を振って、金澤の前から去っていく。
 それを唖然としながら見送った金澤は。
「……一本取られたってのは、こういう事を言うんだろうな」
 と呟き。やれやれ、と。溜息を吐き出していた。

【 Are you ready? /end. written by riko 】