Apres un reve
La corda d'oro

 口にしてはいけない、と。あの日、彼は言った。
 だから音で伝えるのだと。
 音で。音楽で。

 今日は晴天。けれど、気持ちいい風が通る屋上には、誰一人としていなかった。
 誰もいない空間で、弓を引き。すっかり馴染んだ感触をさらいつつ、腕と指とを動かす。紡ぐ音に、想いを込められる様に、たった一人の人に、想いの全てを、届けられる様に――。

 一人の少女が目を閉じて情感豊かにヴァイオリンを奏でる様は、なかなかに優美なものを感じさせていた。

 ――が、しかし。

「だぁ――っ!もう、まどろっこしいんだっつの!」
 今の今まで漂わせていた優美な雰囲気など、幻であったとしか思えないほどに、乱暴な口調で言ったかと思うと、これまた乱雑な動作でヴァイオリンを肩から下ろし。

 急いでヴァイオリンをケースに仕舞うと(最低限の手順だけはしっかり怠らずに踏んだ様だが)、すっくと立ち上がり。
「やっぱこういうの、私の性に合わない」
 言うが早いか、ばたばたと屋上から姿を消した。
 彼女の音に惹かれ集まってきていたファータは、きっとガクリと肩を落としていたことだろう。


「金澤せんせー、いらっしゃいますかー。二年の日野です。入りまーす」
 いいともなんとも返事が返らない内に香穂子はドアを開け、今やすっかり金澤一人の城と化している音楽準備室へと入り込んだ。しっかり内から鍵を掛けた後、中に向き直ると、多大な資料棚に埋もれている大して広くもない準備室では、探すまでもなく目的の姿が見付かる。目が合ったと同時に微笑みを寄越す金澤に、香穂子も条件反射で頬を緩ませたのだが。
「は、しまった。和んでる場合じゃない」
 と頬に手を当てた。
「は?来るなり何を言ってるんだお前さん」
 半分呆れた様な笑みで、まあ座れ、と椅子を勧められ、香穂子はそこにちょこんと腰掛ける。その後でまた、はたと気付いた様に声を上げた。
「だから、こんな事しに来た訳じゃなくて!」
「じゃあ何しに来たんだ?」
 一応仕事中なのだろう。面白そうな声で問いながら、何やら資料を引っかき回している金澤に、香穂子は椅子から立ち上がって近付いた。すぐ脇に立って顔近くに覗き込んでも、金澤は顔色一つ変えず、気のない声で「どーした?」と暢気な声で聞いてくる。
 香穂子はそれに少し苛立ちながら、努めて冷静な声で話しかけた。
「あのね、先生。ちょっと話があるの」
「なんだよ、面倒なこと言い出すなよ。見ての通り仕事中だ」
 面倒なこと。
 その一言に、香穂子が無性に感じていた苛立ちは、ピークに達した。
「私が先生に話しかけるのは、私が話すことは、先生にとって面倒なことでしかないわけですか」
 香穂子の静かな怒りが、金澤にも伝わったのだろう。資料を繰る手を止め、香穂子の顔を見返した。
 情動的な感情など全く見えない静かな視線が、香穂子を捉える。感情を覗かせてはいないものの、普段装っているいいかげんでだらしない教師のそれでは、既になかった。
 それを理解した香穂子は、脇に立ったまま、どこか哀しそうに金澤の顔を見下ろした。
「私、確かにまだまだ大人じゃないし。多分、先生にとって見れば、子供だなって苦笑されることも沢山あると思う。だけど、先生の言う事、全く分からない程子供じゃないし、先生の立場だって、私なりには分かってるつもり」
「……ああ」
「だけど、私は、先生に本当に必要とされてる? あの時、先生が私の所に来てくれたのは、夢じゃないよね?」
 香穂子の真っ直ぐな視線に、金澤は思わず目を伏せた。机の上で握り合わせた拳に、力が入る。
 いつか、こう言ってくる日が来るだろう、とは思っていた。それが、思ったよりも少し早かっただけで。
「言葉をくれとは言わない。言葉にすることが駄目だって言うなら、卒業まで我慢する。我慢出来る自信は、あるよ。だけど」
「……なんだ」
「少しでも私のことを気にしてくれてるなら、態度の一つくらい、たまには見せてくれたって罰は当たらないと思うんだけど」
 金澤は、緩慢な動作で首を振った。
「お前さんは若い。恋愛に持つ理想も、求めるものも大きいだろう。それをお前さんにやれるとは、俺には思えん」
「そんなの人それぞれでしょ、勝手に決めつけないで」
 香穂子は、目を伏せている金澤の頬を手で挟む様にして、無理矢理顔を上げさせた。
「前に言ってたよね。失恋したって。何もかもを失ったと思うくらいに、大切な恋だったって。だからこそ、すごく、辛い想い出になってしまったって言うなら、それはもう私にはどうしようもないことだし、その傷を癒すなんて偉そうなことは言えない。生きてきた年数が違うんだから、私にそれを理解しようって方が無理だしね」
 言いながら、香穂子は少し辛そうに、眉を寄せた。頬に当てられていた手が、肩に降りる。そうして、香穂子は金澤の顔を見据えた。対する金澤も、香穂子の促しがなくとも、俯くことはしなかった。
「だけど、私はその彼女じゃない。勘違いしないで。一歩踏みだそうと決意したのは、先生自身じゃないの?私の想いを知って、それを受け入れようと決めたから、あの場所に来てくれたんじゃないの?過去の想い出がどんなに辛いものだろうと、そこに、今の私を重ね合わせないで」

 強い視線と言葉に、金澤は声もなかった。
 教師と生徒。確かに、問題の大きい、障害だらけの恋だろう。
 しかし、その関係を理由にして。
 更なる一歩を踏み出すことを、必要以上に躊躇っていた。もう感じることなどないと思っていた感情のまま、動くことを。
 それを、金澤自身は良く理解していた。
 そして、香穂子も。

「私は、私だよ、先生」
 そう言った後、香穂子は素早く顔を寄せ。ほんの一瞬、二人の口唇が重なった。
 突然のことに目を見開いた金澤を、香穂子は睨む様にして見つめた。縋る様に、きつく肩を掴んでいる手は、微かに震えている。弱気を見せることをとことん嫌う香穂子の、精一杯の強がり。
「何かっていうとすぐに歳の差を持ち出すけど、確かに年は離れてるけど!言っておくけどね、今時の三十代はまだまだ若いんだからね!全て悟りきった年寄りみたいに振る舞うのも、後は若いモンに任す、とか言って引退するのも、まだ全然早過ぎると思うわけ!」
 そこまで強気な声で一息に言い放った後、呆気に取られて目をしばたかせていた金澤から視線を逸らす様に俯いて。
「一度でいいから、明確な言葉じゃなくていいから。それだけ言ってくれたら、後は卒業まで、ずっと我慢出来るから」
 微かな声で、懇願した。
「……お前が必要だって、言って」
「……日野…」
 金澤の手が空に伸びる。少しの間躊躇うように宙を泳いだ後、香穂子の髪に降りた。そっと髪を撫でる優しい仕草に、香穂子は泣きそうに顔を歪めたが、それを見られたくないのか、顔を横に逸らした。
 こんな時でも意地っ張りの所は変わらないらしい。
「…ずっと、悩んでたのか?」
 自分が臆病な殻を崩せないでいる間、ずっと。
「べ、べつに、悩んでたとかじゃないけど!音で伝えろとかって言われても、私まだ、思う様になんか弾けないし、言いたい事なんか、もう全然上手く伝えられないし!かと思えば先生は他の生徒に対する態度と全く変わらないし、もしかしてあれって夢だったのかな、って考えたりとか、ちょっと思っただけで!」
 金澤は苦笑しながら立ち上がり、捲し立てる香穂子の頭を引き寄せた。
「え、先生!?」
 慌てた様に声を上げる香穂子を片腕で包む込むと、諦め半分の溜息を零した。
「お前さんには本当に負けるよ」

 失うことに恐れを抱くあまりに、欲する気持ちに素知らぬ振りをしていた。
 あの時、確かに決心したというのに。
 忘れかけていた【恋心】という柔らかく、しかし激情にもなる、その感情に。身を委ねること。
 目の前の存在を、愛しいと思うことを。
 恐れることなく、心のまま、受け入れようと。

「お前さんが欲しがるものを全て与えてやれるとは、今の俺にはとてもじゃないが言えん。が」
 ぎゅ、と縋る様に、香穂子の手が金澤の白衣を握りしめた。
 縋り付いてくる体温と、仄かな香り。
 それらが甘い枷となり、金澤を縛り付ける。
「お前さんは、ここにいろ」
「……それって」
 顔を上げた香穂子に、金澤は苦笑混じりではあるものの、優しい微笑みを見せた。
「言っておくが、一旦しちまった契約は、そう簡単に解約出来ないぞ」
「解約なんてしないよ、するわけない…!」

 恐れを抱く心は、そう簡単に消え失せるはずもない。けれど。
 過去に囚われていたのは、きっと自身がそれを望んでいたからでもあるだろう。
 確かに幸せだったあの時間を忘れられずに、そこに未練を残し続けていたからこそ。

 もう、解放してやろう。
 未練も、後悔も。
 そろそろ、そうしてやってもいい時期だ。

 何よりも。

「今度、家に遊びに来るといい。俺が手料理をご馳走してやるぞ」
「え、ほんと!?」

 嬉しそうに顔を綻ばせる香穂子。
 それを今、何よりも愛しいものだと、感じられるから。

 深く傷付いていた。
 もうずっと長い間、恋などと言う感情とは無縁のまま生きてきた。
 このまま変わらずに、これからの更に長い時間を過ごしていくのだと、思っていた。

 だが、香穂子と出逢い。
 暗く澱んだ心の底を勢い良く吹き飛ばす様な風に、否応なく巻き込まれて。
 気が付けば、その存在に光を見出す様になっていた。香穂子の存在が、ひどく眩しく、温かく。
 長く眠っていた心は、彼女を欲する様になった。
 香穂子が持つ風は、金澤を縛める常識や倫理までもを、全て吹き飛ばしてしまった。

 生涯の恋なんて、有り得ない。そんなものは幻だ。
 いやという程、そんな事は分かっているのに。
 もう一度。もう一度だけ、と。
 それを信じてみたくなるのは、恋に堕ちた男の愚かしさだ。
 一回り以上も年下の教え子に対する感情として、あってはならないもの。そう理解していながらも、理性で抑えきることが不可能な程の想いに突き動かされた、愚かな男の。

「先生、立ったまま寝てるの?」
 自分を見つめたまま微動だにしない金澤に、香穂子は首を傾げて聞いた。それを受け、金澤は苦笑しながら首を振り、軽く頭を撫でる。
「……お前さんには、酷な要求だな」
「何の話?」
「いーや、何でもないさ」
「言ってよ」
「何でもないって言ってるだろ」
 しかし、それで誤魔化されてくれる様な香穂子ではなかった。
「言ってくれないと、キスするよ」
「…どんな脅しだ、それは」
 情けなさそうに眉を下げた金澤の頬に、香穂子は手を伸ばした。先程と同じ様に、両頬を包み込んで。
「私はここにいるよ、先生」
 全て見透かす様な強い輝きを放つ、真摯な瞳と、声。
「どこにも、行かないから。信じて」
「……ああ」
 微かに歪んだ表情に、香穂子は微笑んだ。それを受け、金澤は香穂子の身体を緩く腕の中に閉じこめて互いの表情を見えないようにしてから。ポツリ、と零した。
「もう一度、信じたいんだ、俺は」
「信じさせてあげる」
 間髪入れずに、香穂子は言い切る。
「今は無理かもしれない。けど、ずっと側にいて、証明してあげるから。だってこの契約は、解約不可、でしょ?」
 自信ありげに微笑みながら顔を上げた香穂子を、金澤はただじっと見つめていた。絡み合ったその視線に引力が生じているかの様に、二人はやがて、どちらからともなく顔を寄せた。


「……言葉より口付けで、って、何かの歌にもあったよね、先生」
 香穂子の言葉に思わず金澤が顔を顰めるのは、この後、数十秒後のこと。

【 Apres un reve /end. written by riko 】