それは故意か偶然か
サイボーグ009

 南に面した大きな窓から白く暖かな光が溢れるように差し、木の床に弾けては煌めいている。
 午後を回ってまだ幾ばくもない所為だろう。高い位置にある陽が惜しげもなく降り注ぐ部屋は、北向きの玄関と窓のない廊下を経て、ある程度の暗さに慣れた目を一瞬細めてしまう程に眩く、明るかった。

 いつもの通り、廊下と部屋とを隔てるドアを開けて室内に足を踏み入れたジョーは、その眩さに幾度か瞬きを繰り返しながら、鼻孔を擽る香りと、それに伴って感じた違和感に首を傾げた。
 後ろ手にドアを閉めながら室内を見渡す。目に付いたものは、ダイニングテーブルの上に置いたままのコーヒーカップ。
 近付いて中を覗くと、中には未だ湯気の立つ濃い琥珀色の液体。
 部屋中に満たされた芳ばしい香りは勿論ジョーも嫌いな訳ではない。が、今の状況で、頬を緩ませる気にはならなかった。

 今この家には、自分以外の人間はいないはずだった。
 ギルモア博士は明日行われるという研究会に出席するため留守にしているし、フランソワーズはバレエのレッスン。イワンは眠りについてからまだ六日目で起きている筈もないし、万一起きていた所で、コーヒーを淹れて飲むわけがない。フランソワーズにしても、レッスンが取り止めになったか早めに終わったかで家にいるとすれば、ガレージにはもう一台車があってしかるべきだ。

 他に考えられるとすれば、仲間の誰か、だが――少なくとも、自分が出掛けた一昨日の昼頃までには何の連絡も受けていない。
 容易に戻ってこられる距離に住んでいる者は、先程まで一緒だった張大人だけだ。皆、この家に戻ってくる際には早めに連絡があるし、第一、長旅をしてきた人物が戻ってきた様子は家の外にも玄関にも、この居間にも全く見られない。
「一体、誰が――?」
 ジョーは腕を組み、改めて室内を見渡した。
 空き巣・強盗の類ではないだろう。部屋に荒れた様子は全くない。それに、それらの類が仕事もせず、わざわざコーヒーを淹れて放っておくことなど有り得ない。
 とすれば、やはり仲間の誰かだろうが、靴も荷物もなく、姿も見えないのでは見当の付きようもない。

 ジョーは、何か手掛かりが得られないかと、コーヒーカップを持ち上げてみた。
 中の液体がゆらり、と揺れ、新たな香りが立ち上る。
 さすがに少し冷めてきているようだが、フランソワーズが普段淹れるそれより少し濃く、香りも強いコーヒーは、思い起こしてみれば、時々ジェットが飲んでいたようにも思う。
「ジェットだったら……」
 マッハでの飛行が可能だとはいえ、有事でもない限り、移動には飛行機を使う事が多い。しかし、彼ならば、思い立ったら即刻戻ってくること事も可能だった。
 そう考えて納得しかけたジョーは、カップを置いた後、再び首を傾げる。だとしても、肝心のジェットの姿が見えないのは、何故だろう。

 思い出した様に通信回路を開いて、おそらく近くにいるだろうジェット――勿論、他の仲間だということも考えられるが――に話し掛けてみる。

『ジェット、聞こえるかい?』
 返答はない。
『……誰か、戻ってきてるんだろう? 誰かいないのか? 聞こえたら返事をしてくれ』

 しかし、幾度呼び掛けても同じ。
 ジョーは、不意に沸き上がる嫌な想像に身を固くした。

 ―――もし、誰かがこの場から連れ去られたのだとしたら―――

 部屋に荒れた様子が見られないからと、その可能性は考えていなかった。しかし、世の中にはイワンのように、物体を精神移動させる力を持つ者もいるのだ。イワンは生物に対して力を揮うことは出来ないが、それが出来る人物がいないとも限らない。
 現在は平和な時間を過ごしてはいるが、闘いは終わったわけではない。第二、第三のブラックゴーストが、今この瞬間にも自分達を付け狙っているという可能性は十二分にある。
 まして、それだけの力を持つ相手だったとしたら――。

「くっ………本当に、誰もいないのか――!?」

 まだ見ていなかった窓の外をも確かめるべく、窓を開けようとしたその時。背後に微かな足音を拾ったジョーは、咄嗟に臨戦体勢を取り、勢い良く振り向いた。
「っ、誰だ!」
 悪い想像をそのまま現実にあてはめて、勢い戦闘モードに突入しかけていたジョーは。
「ああ帰ったのかジョー。お帰り」
 開けたドアから顔を覗かせ、部屋に足を踏み入れながら当たり前のように声を掛けてくる仲間の姿を見て、声を喉に詰まらせつつ名を呼んだ。

「ハ、ハインリヒ!」

 そう。そこに立っていたのは、故郷ドイツで休暇を過ごしていたはずの仲間だった。
 色素の薄い銀髪、同じ様に色素の薄い瞳。黒い手袋に包まれた右手。挨拶の時にその手を上げる仕草も、口の端だけを上げて薄く笑うニヒルな表情も、確かに彼のものだ。
「なんだ殺気立って。どうした?」
 臨戦体勢に入ったままの姿勢を崩すことなく瞬きだけを繰り返すジョーを、どこか面白がっているかの口調。しかし当人であるジョーはそれにムッとするだけの余裕もないらしく、逆に声を掛けられた事で我に返ったのか、ハッとしたように目を大きく見開くと、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「な、なんで…えっと、今まで何処にいたんだ? さっきから回線に話し掛けてたのに、返事もなかったし……それに、そう、コーヒーが、さらわれて、えーと、だって荷物も車も!」
 喋りながら走り寄ってきていたジョーの、意味の繋がらない言葉の羅列に苦笑をしつつ、
「まあ落ち着け」
 と、肩を軽く叩き。そのまま擦れ違ったハインリヒは、ダイニングテーブルまで歩み寄り、その上のカップを手に取った。
「やはり冷めてしまったな。コーヒーは淹れ立てが一番美味いんだが……」
 独り言を呟きながら、中身を一気に喉に流し込んだ後、まだ状況を把握出来ていないらしく、ただハインリヒの行動を追って見ているだけだったジョーを振り返る。指にカップの持ち手を引っかけ、空になった中身を見せるように掲げながら。

「今度は淹れてすぐのを飲もうと思うんだが……おまえも飲むか?」


     ・
     ・
     ・


『湯を沸かし直したらすぐに淹れられるから、ソファーにでも座って待ってろ』

 そう言ってキッチンに消えたハインリヒの言葉通り、大人しくソファーに座って待っていたジョーは、トレーを持ってキッチンから出てきたハインリヒに、待ちかねたように声を掛けた。
「いつ、日本に?」
「今朝。一応来る前に電話したんだが、おまえさんは留守だったからな」
 驚いたか?と口の端を上げ、件の笑みを見せるハインリヒを見上げ、ジョーは湯気の立ち上るカップを受け取りながら頷き、
「驚いた。久しぶりに、思い切り緊張しちゃったよ」
 そう言って、漸く笑った。

「でも、今回は随分突然だったね。それに、さっき……」
「通信回線のことか?」
 先程の言葉の中から、大体の意味を把握していたハインリヒは、自らも向かいのソファーに腰を下ろしながら尋ねた。ジョーがそれに、うん、と頷く。
「何度も話し掛けたのに、全然応答が無かったから、てっきり……」
「敵に連れ去られたんじゃないかと思ったってわけか」
 ジョーが再び頷いた。
「ここの所、完全に形を潜めてるみたいで…静かだったから。ほら、嵐の前の静けさって言うじゃないか。テーブルの上には淹れて間もないのが分かるコーヒーだけ置きっぱなしだし、争った形跡はなかったけど、誰かが来てたような様子もなかったし……」
 危惧していた状況じゃなかった事は確かに喜ばしく。その上、家族の一人が帰ってきて、またこうして共に過ごせることになった事も、とても嬉しい。
 が、見当違いの予測をし、一人慌てふためいていた所を見られたと思うと、ジョーは照れ臭さを隠しきれずに、うっすらと頬を染めた。そんな様子に微笑ましさを感じながら、ハインリヒはカップを口に運ぶ。

 ジョーは、張大人と二人、釣りに行くと言って、一昨日から自宅を留守にしていた。ハインリヒの方は、電話に出たフランソワーズからその話を聞いて知っていたが、ジョーはこちらの状況を全く聞いていなかったようだ。驚くのも当然と言えば当然だろう。

「フランソワーズには、出先から一度も電話しなかったのか?これから帰るとも何とも?」
 聞いたハインリヒに、ジョーは肩を竦めて頷いた。
「僕達が出掛けたのはかなり田舎だったから、辺りには公衆電話も見当たらなかったし。何かがあれば電話するとは言っておいたけど、特に何もなかったからね。大人の目的としてた魚も無事釣れたし、鮮度が落ちない内にって、そのまま車飛ばして帰ってきたんだ」
 その言葉を聞いて、ハインリヒがニヤリと笑う。
「飛ばすのはいいが、事故らんように気を付けろよ。おまえさんはハンドルを握ると人格が変わるタイプだからな」
 いつもの笑みでちくりと釘を差され、ジョーは居心地悪そうに頬をかいた。
「……飛ばすって言っても、それ程じゃないよ。大丈夫」
 そうか?と面白そうに聞くハインリヒに、ジョーが話題の矛先を変えるように改めて聞いた。
「それより、さっきの通信回線の事だけど」
 ハインリヒが、ああそうだったな、と眉根を動かす。
「実はな、今回帰ってきたのはその件なんだ」
「その件?」
 聞き返すジョーに、ハインリヒはああ、と頷いた。
「五日くらい前だったか、突然無線がおかしくなっちまってな」
 トントン、と自らのこめかみを指差す。
「おかしくなったって、どんな風に?」
「最初は何処かのラジオの周波数を拾うようになって…まあ、とは言っても音量は微かなものだったし、そんなに気にもならなかったんだが……」
 ふう、と溜息を付きつつ、組んだ脚の上に肘をついて明後日の方向を見遣るハインリヒの横顔が、やけに憂いに満ちていて。ジョーは顔を顰め、相手を気遣うような声を出す。
「……何か、あったの?」
 対して。まあな、と頷いたハインリヒの声は、ひどく疲れを含んだものだった。
「暫くすると、ありとあらゆる電波を拾い出してくれてね。電波ってのはああも街中に溢れているのかと感心するくらいだった。まあ尤も、あれだけ一時に頭の中で鳴り響いてたら、何を言っているのか、どんな音楽が流れているのか、全く判別付かなかったがな」
 心底ウンザリしたような表情に、どれだけ不快な思いをしたのかが否応なく理解出来た。ジョー自身、一番最初に目を覚ました時、体内の無線装置が敵の回線を拾い、頭が痛くてどうしようもなかったという経験をしている。そこまで酷い状況に陥ったことはないものの、不快の度合いは容易に想像がついた。否、そこまでの状況であれば、不快などという言葉では括れないだろう。
「……今は?」
 心配そうに尋ねるジョーに、ハインリヒは眉根を上げ、口の端に笑みを浮かべた。
「今は、大丈夫だ」
 ジョーはそれを聞き、少しホッとしたように表情を緩めた。
「そっか、ならいいんだけど……。でも、直ってないから帰ってきたんだろう?」
「ああ。半日その状態が続いて、苛立ちもピークになった時、今度は急に、全ての音が止んだんだ」
 とんとん、と指先でこめかみを差す。
「全ての?」
「勿論、鼓膜を通した普通の音は聞こえるがな。周波数を合わせれば聞こえたはずの音も聞こえなくなった所を見ると、どうやら、無線装置自体がいかれちまったようだ。前回のメンテの時は異常はなかったはずだが……まあこれも仕方ないさ」
 半分投げ遣りにも思える口調で吐き捨てたハインリヒに、ジョーが苦笑した。
「色々と…面倒だよね。僕達の身体も」
「諦めるしかないな、こればっかりは」
 ふ、と顔を見合わせて笑い。二人共、冷めかけたコーヒーを再び口に運んだ。


「それにしても……」
 ジョーが辺りを見渡す。
「そうか、もう荷物は部屋に運んだんだね」
 一人納得したように頷き、その後また、ハインリヒに問いかけた。
「さっきは、一体どこに行ってたんだい?」
 靴があれば、僕だってあんな勘違いしなかったんだけどね、と続けたジョーに、ハインリヒが窓の外を指差した。
「ああ、ちょっと庭にな。洗濯物が風で飛びかけてたのが気になったんで、直しに行ってたのさ」
 意外と目端の利くマメなハインリヒらしい言葉に、
「そう言えば今日はちょっと風が強いからね」
 と窓の外を見て。はた、と気付いたように、「なんだ……」と脱力した。
「最初から庭を探して見れば良かったよ……」
 溜息混じりで言った後、再び不思議そうな顔をした。
「でも、そんなこと良く気付いたね。ここからじゃ物干しは見えないのに」
「ああ。荷物を置きに部屋に行った時に窓を開けて見つけたのさ。その時すぐに庭に出れば良かったんだが、あれこれと片付けてる内に頭から抜けたみたいだな。下に来てコーヒーを淹れた直後に思い出しちまったんでね、放って置くわけにもいかないだろう」
 そっか、と、再び納得したように頷いた後。ジョーはふと気付いたように顔を上げ、「あ」と声を上げた。
「ん?」
 バサリと新聞を広げていたハインリヒが顔を上げて促すと、拍子抜けしたように呟く。
「そういえば…ジェットが帰ってきたなら、こんなに片付いてるはずがないんだよね」

 土産だ、と言っては普段飲んでいるバーボンの瓶やら(中には飲みかけのものもあったりする)、フランソワーズのお土産にと甘いチョコレートドリンクやらを広げ、更に数日前からの洗濯物が詰まったビニール袋を放り出し、やれやれ疲れたぜ、などと言いながらソファーにひっくり返るのが常のジェットが来て、部屋が綺麗なままであるはずがなかった。
 そんな当たり前の事にすら気が回らないほど慌てていたなんて、一体自分はどうしたっていうんだろう。

 おかしいなあ、と首を傾げるジョーを、新聞に目を通しながら視界の端に納めたハインリヒは、小さく忍び笑いを零した。

「じゃあそろそろ、その散らかし上手な男を迎えに行くか」
 今の今まで目を通していた新聞を丁寧に畳み、テーブルの上に置いて。壁に掛かった時計を見ながら立ち上がったハインリヒの言葉に、ジョーが目を丸くする。
「……え?」
「後二時間くらいで空港に着くはずだ。ジェット一人なら飛んできた方が早いんだろうが、今回はジェロニモも一緒だからな。出来るだけ安全運転で頼むぜ、ジョー」
「……今日は千客万来だね、客じゃなくて家族だけど」
 なんで僕が出掛けていた今回に限って、みんな唐突なんだろう。
 そう苦笑しつつ、同じ様に立ち上がってジーンズのポケットから車のキーを取り出したジョーに、ハインリヒは言った。
「だから、さっきフランソワーズと連絡を取らなかったか聞いたんだ。ああ、心配するな。あの二人は特に問題が起きた訳じゃないそうだ」
 少し心配そうな表情になって自分を見たジョーを安心させるように、ハインリヒが後半の台詞を繋ぎ。フランソワーズの手で綺麗に片付けられた部屋を見渡した。
「ジョー、良かったな」
「え?」
 何が?と聞き返したジョーに、ハインリヒは。
「ここが散らかるのも、後数時間もすれば見られるぞ」
 溜息混じりでジョーを見遣り、肩を竦めた。


     ・
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     ・


「……ねえハインリヒ」
 居間のドアを開けたジョーは、突然ある一点に思い至り、足を止めた。
「なんだ?」
「さっきの話だけど……。庭にいたなら、車の音が聞こえるから……僕が戻ってきたのは分かったんじゃない?」
 ハインリヒは、ああそれか、と、ニヤリと笑った。
「まあな」
「……それなのに、まるで知りませんでした、って感じだったよね、最初部屋に入ってきた時」
「……覚えてないな、そうだったか?」
 うそぶくハインリヒの頬は、いつもと比べても比べなくても、確実に緩んでいた。
 長い付き合いだ。あの時、自分が慌てていたことも、どんな思考に至ったかも、きっと、この男は全て分かっていたに違いない。もしかしたら、自分が帰ってくる時間に合わせ、わざと外に出ていたんじゃないかとすら、勘繰ってしまう。
「……時々思うよ。ハインリヒって、とんでもなく性格が悪いんじゃないかって」
 手袋に包まれた手で顔の下半分を隠すようにして笑っている後ろ姿を、ジョーは恨めしげに睨め付けた。そんな視線を感じながらも尚おかしそうに肩を震わせて歩いていくハインリヒが出した声は、まるで子供をあやすようなそれ。
「まあそう拗ねるな」
「別に、拗ねてるわけじゃない!」
 憤慨したような声でそれを否定したジョーを、置いてくぞ、と急かしながら、さっさと靴を履き、腕に掛けていた上着をバサリと羽織った。それでも居間の入り口にムッとしたような表情で立ちつくしたままだったジョーを、肩越しに振り返って。
「ほら行くぞ。それとも、留守番してるか?」
「行くよ!」
 すたすたと大股で歩いてくるジョーを見ながら。ハインリヒは、先程までの笑いとは違う、仲間内ですら滅多に見られない至極穏やかな笑みを作った。
 そんなハインリヒの表情を見たジョーは、自分一人怒っている事が馬鹿らしくなったのか、
「……まあ、いいか」
 気が抜けたように溜息を付き。
「また、この家も暫くの間賑やかになるね」
 そう言って、同じく穏やかに微笑んだ。
 ハインリヒもそれに頷き。
 二人は、大切な家族を迎えに行くために、玄関のドアを開けた。



【 それは故意か偶然か /end. written by 紗月浬子 】