湿気がもたらす感情値の算出
サイボーグ009
日本列島。
北半球の南北に細長く位置し、同緯度附近に位置する他国と同じ様に、四季と呼ばれる季節の移り変わりが存在する。
それに加え、東アジア独自の気候が、例年、北海道を除く全国を覆う事となる。
春と夏の間に訪れるその気候現象。日本名を、「梅雨」という。
◇
「……くたばってるね」
「……くたばってるな」
二人がこっそりと覗き込んだ部屋の中には一人の男が居た。
ソファーの上にだらしなく寝そべったまま、片腕を背もたれの向こうにだらりと垂らしている。
もう片方の腕は、先程からのたりのたりと力なく(と言うかやる気なく)ではあるが、一応は規則的な動きを見せていた。
一体何の呪いかと良く目を凝らして見てみると、鈍色に光る指に、薄い紫煙の立ち上る紙煙草を挟んでいる。それが、すぐ横のテーブル上に置いてある灰皿と、口元とを行き来していたのだった。
更に言えば、目にも明らかな程、幾筋もの青筋が白い額に浮いている。
そんな状態で苛々と煙を吐き出している様子は、見事なまでの近寄りがたさを醸し出していた。
「なあ、ジョー。おまえ、何とかして来いよ。人当たり良いのがおまえの取り柄だろ」
まるでその役目を負うのが当たり前、と言わんばかりに肘で脇腹をつつかれ、ジョーは困惑顔で自分より背の高いジェットの顔を見上げた。
「そんな事言われたって……」
ふう、と息をつくと、もう一度部屋の中に視線を戻す。
彼ら二人が覗いている事には全く気付いていないのか、気付いていても知らぬ振りをしているのか。部屋の中の御仁は、退廃的な雰囲気漂う現在のスタイルを、飽くまで貫き通すつもりらしい。
「僕じゃ、どうにもならないよ。今、彼をどうにか出来るのは博士しか……」
ジョーが首を振りつつそこまで言った所で、その「彼」の身体がもぞり、と僅かに動く。
それを見たジェットは何故か嬉しそうに、
「お、動いたぜ!」
と指を差し、興味深そうにガラスにへばりついて中を凝視した。
「そんな、上野動物園のパンダを見に行ってるんじゃないんだから」
口調だけは呆れたように言ったジョーは、「上野動物園のパンダってなんだよ」と振り向いたジェットを綺麗サッパリ無視して、
「どうしたのかな」
と、やはり同じ様に中の様子を窺った。
しかしジェットは諦めず、視線だけはしっかり部屋の中に戻した後、ジョーを小突く。
「おい、ジョー、上野動物園のパンダってなんだって聞いてるだろ」
この様子では、答えるまで諦めそうもない、と判断したジョーは、仕方なく説明することにした。元はと言えば、日本人にしか分からないような言い回しを使った自分が悪いのだ。
「ええと、パンダは知ってる?」
「知ってる。前にテレビで見たぜ。中国にいるんだろ」
「そうそう。そのパンダがね、日本の上野動物園にいるんだよ。でも、寝ている事が多くてあまり動かないんだ。日本ではそこでしか見られないから、並んでてゆっくり見られないし。だからたまたま動いたりすると、歓声が湧いたりするんだよ」
「へえ、そこまでして見たいもんか?あれって」
などと、関係があるんだかないんだか、どうでも良いような会話を二人が交わしている間、覗き込んでいるガラスの向こうでは、「彼」が、短くなった煙草を灰皿に押しつけた後、横に転がっていた箱から新しく抜き出して火を点けていた。そして、また同じ様にもぞり、と先程とほぼ同位置に戻る。
一連の動きの全てが、いつもの彼を思わせるものなど欠片も見当たらないほどに、スローモーでキレがない。
しかしその様子は、確かに何処か、『上野動物園のパンダ』と被るものがあった。少なくとも、ジョーの目にはそう映った。
(そういえば僕も――昔、神父様に一度だけ連れて行って貰った時、ほんの少し動いたのを見ただけだったのに、すごく嬉しくて……。みんなで大はしゃぎしたっけ……)
微笑ましくも懐かしい過去の想い出とうっかり重ね合わせている辺り、ジョーの認識もジェットと変わらない。まるっきり珍獣扱いである。
そして、更にそれはエスカレート。
「そうだ、どっかにビデオなかったっけ、ビデオカメラ!」
突如、名案を思いついた、とばかりに手を打ったジェットに、ジョーは首を振る。
「ないよ。普通のカメラならあるけど」
けど、どうするんだカメラなんて?
と疑問を投げかけたジョーに、ジェットは当然だろ、と鼻を鳴らす。
「この際それでもいいや、こんな面白いもん、撮っておかなかったら絶対後悔するぜ!」
やたら張り切って腕捲りでもしそうな勢いに押されてか、ジョーは一瞬頷きかけるが、ハッと我に返り、慌てて否定した。
「それは…止めておいた方がいいよ」
「なんでだよ」
鼻白むジェットに、ジョーは言い聞かせるように繰り返した。
「止めておいた方がいいって。下手なことしたら、そっちの方が後悔することになるよ」
ジョーの言葉を聞き、ジェットはさもおかしそうに眉を跳ね上げ、両手を天に向け肩を竦めて、大袈裟なジェスチャーをしてみせる。
「俺が?なんでだよ」
そんなジェットに、ジョーは「だってさ」と右手の人差し指を立てた。
「相手は、あのハインリヒだよ?」
いかにもな厳めしい表情を浮かべようとしたところで、甘く整ったベビーフェイスに類される顔が、怖くも恐ろしくもなるわけがないのだが、ジョーは大真面目。
が、ジェットは案の定取り合おうとしない。
「そんな事分かってるって。だから面白いんだろ、普段だったら絶対見られない光景だぜ。しかも、明後日には修理に来ちまうんだろ、エアコン屋、つーか電気屋?」
エアコン屋って何だよ、と心の中だけで突っ込みつつ、ジョーは頷く。
「普通に売ってるようなエアコンじゃないし、ギルモア博士が家中の電気系統弄ってるから……一応頼んでみたけど、直るかどうかはかなり微妙だと思う。こんな時にギルモア博士が研究会で居ないなんて、ついてないな」
ここ、ゼロゼロメンバーの本拠地とも言えるギルモア邸では、一般的なエアコンではなく、パネル操作で家中全体の室温調整を行う、博士が独自考案したエアコンシステムを設置している。四季を通じて最適な温度・湿度を保てる上、空気清浄機と同等の機能も備えているため、家の中は快適そのものだ。
が、昨夜、そのサーバーにあたる箇所が、いきなり原因不明のシステムダウン。
ただでさえ湿気の多い梅雨の時期。特にここ連日は、不快指数も頭打ちギリギリの数値を記録している。海岸沿いということで湿気は更に倍増され、何もしていなくても肌に張り付く生温い空気は、正に不快以外の何物でもなかった。
現在この家に滞在してるのは、常時ここに暮らしているジョーとフランソワーズ、イワンの他、ジェットとハインリヒの二人。
夜の時間で寝ているイワンを除いたメンバー全員、口には出さずとも不快感を感じていたのは確かだが、元々梅雨というもの、そしてこの湿度の多い気候に慣れ親しんでいるジョーは、こんなもんか、と諦める事も出来たし、ジェットも、夏はかなり蒸し暑いニューヨーク育ち。問題は、乾燥した空気の中で暮らしてきたヨーロッパ勢の二人だ。
しかし、フランソワーズはここ何年か日本で暮らしていたせいか、この蒸し暑さにも大分慣れたらしく、「なんだか気持ち悪いわね」と、ささやかな不満を漏らすに留まっていた。
が。最後の一人、ハインリヒはそうはいかなかった。
何せ、この気候がどうにも肌に合わない、と、何か起こりでもしない限り、梅雨から夏にかけて日本に滞在することは滅多に無かったのだ。今回たまたま、メンテナンスの時期が重なったということで、まあたまにはいいだろう、と仕事の方も長期の休暇を取ってやって来てみれば、不運としか言いようのないエアコンのシステムダウン。
雨に打たれたり海に潜ったりで思い切り濡れることはあっても、空気の中を飽和寸前まで満たす水分を浴びることには慣れてないドイツ人(三十歳)は、普段の冷静さも身に纏う鋭い雰囲気も思い切りよくかなぐり捨て、今や別人と称しても差し支えない程度には、やさぐれていた。
「おかげで、ハインリヒもあんなだし……」
「いや、確かに俺だって、出来るならこの湿気は勘弁して欲しいけどさ、こんな事滅多にあるもんじゃないんだし、暫くは直らない方が面白いぜ」
文字で表す場合には、けけけ、とでも書くのが最も相応しいと思われる笑いをしつつ、部屋の向こうを肩越しに親指で指し示す。
「またそんな事言って…」
窘めつつその方角へと目を遣った途端、ジョーは慌てたように目を見開いた。
「シッ、ジェット!」
「ん?なんだよ、別にどうせ……」
気付いちゃいねえって、あの様子じゃ。と言いかけたジェットの言葉は、途中でジョーの声に遮られた。
「隠れて!」
そう小声で言うが早いか、ジョーは自分より高い位置にあるジェットの頭を、百人力を誇る腕でぐい、と押し下げる。ついでに自分もしゃがみつつ、突然力を加えられて「な、なんだよ!」と声を上げかけたジェットの口を手のひらで塞いだ。
「ハインリヒがこっち向きかけてた」
今捕まったら、辛気くさい空気に否応なく晒された上に、間違いなく愚痴の嵐だ。こうして遠目から観察するのは面白くても、側に行きたいなどと誰が思うだろうか。
「ここでなんだかんだ騒いでるから、さすがに気付いたんじゃないの?」
純粋に心配していた最初と違って、途中からは単に面白がって見物していただけだ。しかもパンダと同等扱い。それを自覚しているだけに、ジョーは顔を顰めた。
「まずいよ、面白がってたなんて分かったら、後で何言われるか……」
とボソボソ囁くジョーにつられてか、ジェットも、『興味津々好奇心一杯悪戯したくて堪りません』てな表情を引き締め、うーん、と腕を組んで唸った。
「確かに、アイツの説教を食らうのは勘弁して欲しいけどさ、でも別にその写真だって、本人に見られないようにすれば……」
「すれば?なんなんだ?」
ジェットの声に被った、地を這うような低い声。
二人はしゃがみ込んだまま、凍ったように硬直した。
「随分と楽しそうだな。二人とも」
やたらと迫力のある声を聞きつつ、二人は揃って身体の硬直を必死に解き、そろりと首を回す。
音もなく居間の内側に開いたドアの脇に、ベージュのズボンに包まれた足が二本生えている。
そのままそろそろと顔を上げていくと、間仕切り部分にもたれ、不敵な笑みを浮かべて見下ろしている、見慣れた顔。
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙が続く。
これ見よがしに煙草を銜え、ゆっくりと紫煙を吐き出すハインリヒは、何処からどう見ても柄が悪かった。
「あの…さ……」
一番最初に口を開いたのは、ジョーだった。
「ひょっとして、全部……」
「おお、聞こえてたぜ?」
ふ、と笑みすら浮かべた御仁に、恐怖すら覚える。
「……声がでかいんだよ、お前らは」
額には青筋。だが口元には笑み。でも、目は全く笑ってない。
二人は判断した。
これは、キレている。
つまり、白黒のコントラストがチャーミングなパンダ扱いしたこととか。
面白いからカメラに撮っておこうとか。
あのハインリヒ、なんていかにも怖いもののように言ってみたりしたこととか。
直らない方が面白い、などと仲間の言葉とも思えない台詞をのたまったりとか。
『全部聞かれてたってことか?』
二人が顔を見合わせて、ははははははは、と力なく笑う。
暑くて湿気が多くて余りにも不快で機嫌が斜めどころか真っ逆さまになっていた所に、しっかり追い打ちをかけたのは自分達二人だろう。
それでも何か言い逃れは出来ないかと考えている二人の前で、ハインリヒは指を焦がしそうな長さになった煙草を、ポケットから出した携帯灰皿の中に放り込んだ。
そして。
「面倒くせえから放っておこうと最初は思ってたが、ただでさえ気分が悪いところに、お前ら二人はいつまでもああでもないこうでもないと……。そんなに俺に構って欲しいなら、気が済むまで幾らでも構ってやる。さあ来い」
ガシッと二人の首根っこを掴み、そのまま引きずってずるずると居間の中に連行する。
「あ、あの、ハインリヒ、僕は別に悪気があったわけじゃ」
「なんだよジョー!一人だけ逃げるつもりかよ!」
「だって、元々面白がってたのはジェットじゃないか!」
「おまえだってパンダとか言った後、何か知らないけどコイツ見ながら浸ってただろ!」
性懲りもなくギャーギャーと騒ぐ二人の頭を勢い良くゴンゴンと殴り、ハインリヒは冷ややかな声で告げた。
「二人とも、同罪だ」
元はと言えばエアコンが壊れたのが原因であって、しかもそれは不可抗力だし、罪と呼ばれるようなことは決してしていない。ただ、あまりにも珍しいものが目の前にあったから、見物していただけの話で。……ついでにちょっと余計な事も言ったかもしれないってだけだ。きっと。
二人は仲良く同じ様な事を考え、顔を見合わせた。通信用無線を使っているわけでもないのにお互いの思考が通じているのか、同時に小さく溜息をつく。
『……地獄耳』
しかし、そう言いたくても言えない後ろめたさ(と恐怖)。せめてもの抵抗にと、ズキズキと痛む頭を抱え、揃って抗議の眼差しを向ける事が精一杯だった。
これに懲りて、ハインリヒをネタに遊ぶのはやめよう。特に、梅雨時には。
そう、己の心に深く誓う二人だった。
【 湿気がもたらす感情値の算出 /end. written by 紗月浬子 】